大きな音、小さな音
中央教会を出たあとも、エリオはすぐにはギルドへ戻らなかった。
老司祭から教えられた現在の地名を書いた紙を手にしたまま、教会前の広場にある石段へ腰を下ろす。目の前では参拝を終えた人々が行き交い、その向こうを荷車が通り過ぎていたが、エリオの意識はほとんど手元の地名へ向いていた。
五人が向かった山岳地域と、四百八十年前に《残響記録》を持っていたラウル・ネイスの出身地が同じだった。
それだけなら、偶然で済む。
同じ地方から同じ恩恵を持つ人間が出たわけでもない。今その土地で起きているのは魔物の広域移動であり、古代遺跡が見つかったという報告でも、不可解な音が聞こえるという話でもなかった。四百八十年前の一人の子どもと、現在の異変を直接結びつける材料は何一つない。
それでも、何も知らなかったことにしてしまうのも違う気がした。
もしセドリックたちが王都にいたなら、エリオはたぶん今日のことをそのまま話していただろう。過去に同じ《残響記録》の保持者がいたこと。記録と一緒に金属板が保存されていたこと。その板に、古い分類表と同じ記号が刻まれていたこと。そして、自分が再生した音に反応したこと。
聞いたあとで、関係があるかどうかを考えるのは全員でできる。
今は、その五人が三日も離れた場所にいる。
「知らせた方がいいよな」
エリオは小さく呟いた。
ただ、何をどこまで知らせるかは考える必要があった。
魔物の移動と《残響記録》が関係している、と書くのは違う。自分自身、そんなことは思っていない。ただ、ラウルの出身地が派遣先と一致しているという事実だけは、現地にいる五人へ渡しておいた方がいい。向こうで何も起きなければ、それで終わる。もし何か似た記号や音に関するものを見つけたときには、判断材料になるかもしれない。
監視塔で学んだことと同じだった。
全部を自分で解こうとする必要はない。
分かったことを、必要な相手へ渡せばいい。
そう考えると、何をするべきかは少し分かりやすくなった。
◇
ギルドへ戻ると、エリオは依頼板ではなく受付へ向かった。
「長期派遣に行ってるパーティへ、連絡って送れます?」
昨日も話した職員が顔を上げる。
「緊急ですか?」
「そこまでじゃないです」
「なら定期便ですね」
「どのくらいかかる?」
「派遣先によりますけど、北東中継拠点なら明日の朝に連絡便が出ます。馬を替えながら行くので、二日から三日くらいでしょうか」
「普通に馬車で行くより早い?」
「連絡専用ですから」
それなら十分だった。
「手紙でいい?」
「はい。ただし派遣隊が拠点を離れている場合は、戻るまで渡せません」
「それでいいです」
紙と封筒を借り、エリオは受付横の記入台へ移動した。
そこで少し迷った。
セドリック一人に送るか、五人全員に宛てるか。
結局、宛名はセドリックにした。代表者へ送る方が連絡として分かりやすいし、届けばどうせ全員で読むだろう。
内容は、できるだけ事実だけにした。
中央教会から連絡があり、約四百八十年前に《残響記録》を持っていたラウル・ネイスという人物の鑑定記録が見つかったこと。その人物の出身地が、現在五人が派遣されている地域と一致していること。鑑定記録と同じ保管束に不明な金属板があり、古い分類資料で《残響記録》を含む十一の恩恵に付けられていた記号と同じものが刻まれていたこと。
そこまで書いてから、エリオは筆を止めた。
音のことをどうするか。
板から聞こえた「キン」が、前世や古代神殿で聞いた音に似ていることまで書けば、セドリックたちはかなり気にするはずだ。けれど、それは事実ではある。
隠す理由もない。
エリオは続けて書いた。
板を傾けると、古代神殿で聞いたものに似た高い音が鳴る。ただし完全に同じ音ではない。《残響記録》でその板自身の音を再生したところ、板がわずかに反応した。ほかの似た音については、危険性が分からないため試していない。
最後に、短く付け加えた。
現地の魔物移動と関係があるとは思っていない。ただ、同じ地域なので念のため知らせておく。似た記号や音に関するものを見つけても、勝手に触ったり試したりしないでほしい。
そこまで書いてから読み直し、エリオは少しだけ笑った。
セドリックに「勝手に触るな」と書く日が来るとは思わなかった。
むしろ普段は自分が言われる側だ。
「これお願いします」
「はい。明朝便に入れておきます」
職員へ渡す。
これで自分にできることは終わった。
返事が来るとしても、早くて数日後になる。
その間に、自分が現地へ向かう必要はない。
エリオはそう判断した。
◇
その日は結局、もう依頼を受けなかった。
中央教会へ行ってから手紙を書いたことで半日ほど使っていたし、今から王都外へ出る仕事を選ぶには時間が中途半端だった。そこでエリオは宿へ戻る前に、市場で食べ物を買い、少し早めに部屋へ戻った。
一人で使うには、部屋が妙に静かだった。
もともと六人全員が同じ部屋で寝ているわけではない。それでも食堂や廊下から誰かの声が聞こえたり、隣の部屋を使っているシリルが物を落としたり、フィーナが何か言い返している声が聞こえたりすることがあった。
今はそれがない。
エリオはベッドへ腰を下ろし、教会で聞いた音を《残響記録》から引き出した。
再生はしない。
頭の中で比べるだけだ。
金属板の音。
古代神殿の台座。
第三区画の銀色の芽。
そして、前の世界で最後に聞いた音。
似ている。
だが同じではない。
以前なら、違いを見つけた瞬間に何か法則があるのではないかと考えただろう。高さが違う。長さが違う。それなら順番なのか、音階なのか、何かの信号なのか。
今は、そこで止めることができた。
まだ情報が足りない。
音が似ているというだけで、同じ仕組みだと決めるのは早い。
ただ一つ、以前より確かになったことはある。
《残響記録》という恩恵は、四百八十年前にも存在した。
そして、その保持者の記録と一緒に、音へ反応する正体不明の物体が残っていた。
そこまでは事実だ。
では、ラウル・ネイスはその金属板を使っていたのか。
彼も音を再生して反応させていたのか。
そもそも、八歳で鑑定されたあと、どのように生きたのか。
肝心な部分だけが分からない。
エリオはベッドへ仰向けになった。
「四百八十年前か」
長すぎる。
けれど古代神殿に比べれば、むしろ新しい。
神殿がいつ作られたのか正確には分からないが、少なくとも五百年前よりさらに古いものだとフィーナは考えていた。もし金属板が神殿の技術と関係しているなら、ラウルの時代にはすでに「古いもの」だった可能性もある。
では、ラウルが見つけたのか。
教会が持っていたのか。
誰かから渡されたのか。
考え始めれば、いくらでも可能性は増える。
エリオはそこで目を閉じた。
増やしても仕方がない。
教会が調べている。
五人にも知らせた。
今はそれでいい。
◇
翌朝、エリオは予定どおりギルドへ向かった。
連絡便はすでに出たあとだった。
「送りましたよ」
受付職員が教えてくれる。
「ありがとうございます」
「返事が来たら預かります」
「お願いします」
それだけ確認し、今日は普通に依頼板を見る。
昨日のように教会から手紙が届くこともない。
古い記録を調べに行く予定もない。
五人からの返事も、まだ来ない。
なら、自分の仕事をすればいい。
しばらく依頼を見ていると、王都北側の農村から出された一枚が目に入った。
夜になると納屋の周囲で音がする。
家畜が怯えるため、原因を確認してほしい。
討伐対象は不明。
報酬は低い。
「……音か」
少し気になった。
ただし、古代遺跡でも《残響記録》でもないだろう。
野生動物か、小型魔物。
あるいは建物そのものが鳴っているだけかもしれない。
エリオは依頼書を外した。
◇
依頼先の農村までは、徒歩で二時間ほどだった。
依頼主は老夫婦で、納屋では山羊を六頭飼っている。異変が始まったのは四日前からで、夜半になると壁の外側から引っ掻くような音が聞こえ、山羊が一斉に騒ぎ始めるらしい。
「姿は?」
エリオが尋ねる。
「見てないねえ」
老女が答えた。
「外へ出た頃には、もう何もいないんだよ」
「足跡は?」
「うちじゃ分からん」
「家畜、怪我してます?」
「それはない」
エリオは納屋の外周を一度見て回った。
壁に目立った傷はない。
地面は乾いており、はっきりした足跡も見つけられなかった。こういうときシリルがいれば、何か残っているのかもしれない。
だが、今日は一人だ。
「夜まで待ちます」
「一人で大丈夫かい?」
「たぶん」
「たぶん?」
「危なかったら逃げます」
老夫婦は少し心配そうだったが、それ以上は言わなかった。
エリオは日が暮れるまで村で待つことにした。
◇
音が聞こえ始めたのは、夜もかなり深くなってからだった。
エリオは納屋の中には入らず、少し離れた木の下に座っていた。外から何か来るなら、納屋の中よりこちらの方が方向を取りやすい。
最初に変化したのは山羊だった。
一頭が小さく鳴き、それにつられるように残りも落ち着かなくなる。
エリオは周囲へ意識を向けた。
足音。
ない。
呼吸。
ない。
草が動く音も聞こえない。
それでも、しばらくすると納屋の壁から音がした。
ガリ。
何かが木を擦るような音。
山羊が一斉に鳴く。
エリオは立ち上がった。
外からではない。
音は壁そのものから出ている。
近づく。
もう一度。
ガリ。
今度は場所が分かった。
「中?」
壁の内側。
ただし山羊のいる空間ではない。
壁板と外壁の間。
エリオは納屋の構造を確認した。
古い建物で、一部の壁が二重になっている。その中に何かいる。
耳を近づける。
小さな爪。
速い呼吸。
一匹ではない。
「……三匹」
エリオは少し笑った。
翌朝、老夫婦と一緒に壁板の一部を外すと、中から出てきたのは小型の森栗鼠だった。
親一匹と子ども二匹。
巣を作る場所を探して入り込み、夜になると内部を動き回っていたらしい。
「魔物じゃなかったねえ」
老女が安心したように言った。
「はい」
「倒さなくて済んでよかった」
老夫婦は森栗鼠を籠へ入れ、少し離れた林へ放すことにした。
依頼はそれで終わった。
◇
王都へ戻る途中、エリオは少しだけ笑っていた。
昨日は四百八十年前の《残響記録》と、音へ反応する謎の金属板。
今日は壁の中に栗鼠が三匹。
どちらも、自分が音を聞いたから分かったことには変わりない。
けれど、すべての音が大きな謎へつながっているわけではない。
当たり前だ。
むしろ、その方がいい。
何でも古代魔法につながる世界なら、音を聞くたびに身構えなければならなくなる。
エリオは街道を歩きながら、少しだけ肩の力を抜いた。
五人から返事が届くまでは、まだ時間がある。
教会の調査にも時間がかかる。
それまで、自分にできることをしていればいい。
大きな音も、小さな音も、聞こえたからといって急いで意味を決める必要はない。
必要なら覚えておけばいい。
それは昔から、自分が一番得意だったことだった。




