いない人の分
ギルドへ着いたのは、五人を乗せた馬車が北門を出てからそれほど経っていない時間だった。
朝の依頼板はすでに人が多く、近郊の採取、短距離護衛、小型魔物の駆除、倉庫整理の手伝いまで、さまざまな依頼書が並んでいる。普段ならセドリックたちと一緒に見て、その場で誰かが候補を出し、報酬や距離、必要な技能を比べながら決めていた。
今日は、その相談相手がいない。
それだけのことなのに、依頼板の前に立つと少し戸惑った。
一人で依頼を選ぶこと自体は、初めてではない。冒険者になったばかりの頃は、むしろそれが普通だった。自分にできそうなものを探し、危険度を見て、報酬を確認して、自分一人で受ける。
ただ、当時の自分と今の自分では、依頼書を見る基準がかなり変わっている。
昔なら「一人で達成できるか」だけを考えていた。
今は、依頼を見た瞬間に、誰が何をするかが頭へ浮かぶ。
この護衛ならバルガスが前。
この調査ならシリル。
この魔物ならフィーナがいれば早い。
長時間ならリーナがいた方が安心。
何か判断に迷えばセドリック。
そこまで考えてから、今日は誰もいないことを思い出す。
「……面倒だな」
昨日と同じ言葉がまた口から出た。
今度は五人の枠ではなく、自分の思考の癖に対してだった。
「何が面倒なんです?」
横から声をかけられ、エリオは振り向いた。
受付にいた若い職員だった。以前にも何度か依頼処理をしてもらったことがあり、《残響記録》のことも知っている。
「一人で依頼選ぶの久しぶりで」
「パーティの皆さんは?」
「長期派遣」
「ああ。北東の推薦任務ですね」
「知ってるんですか?」
「勇者候補の派遣はギルドにも共有されますから」
職員は依頼板を見る。
「じゃあ、しばらく単独で?」
「十日くらい」
「無理に一人向けを選ばなくても、臨時同行ありますよ」
「臨時?」
「人手が一人足りないパーティに入るやつです」
エリオは少し考えた。
そういう形があること自体は知っていたが、自分で利用したことはほとんどない。
「僕でも?」
「むしろ今のエリオさんなら声かかると思いますけど」
「なんで?」
「索敵できるから」
やっぱりそこへ入るらしい。
エリオが少しだけ笑うと、職員は不思議そうにこちらを見た。
「何か?」
「いや、何でもないです」
「ちょうど一件ありますよ」
職員が依頼板の端にある紙を指した。
王都南西の森林で、薬草採取を行う三人組の冒険者が護衛兼索敵役を一人募集している。期間は一日。危険度は高くなく、主な目的は採取場所まで安全に往復することだった。
「三人?」
「前衛一人、採取担当二人。普段の斥候が怪我で休んでるそうです」
「僕が入ると四人?」
「はい」
エリオは依頼書を読んだ。
難しくはない。
少なくとも、一人で小型魔物を討伐する依頼を選ぶよりは、自分の役割も分かりやすい。
「これ受けます」
「分かりました」
職員が依頼書を外した。
◇
依頼主の三人と合流したのは、一時間ほど後だった。
一人目はゴードという三十代半ばの男で、短槍を使う前衛。残り二人は姉妹で、姉がメル、妹がアニカ。二人とも採取師としてギルドへ登録しており、薬草だけでなく、魔力を含む苔や菌類も扱うらしい。
「エリオって、あの勇者候補の?」
最初に名前へ反応したのはアニカだった。
「僕は勇者候補じゃないです」
「でも一緒にいる人たちでしょう?」
「パーティにはいます」
「今日は?」
「五人は別の任務」
「それでこっち来たんだ」
アニカは納得したように頷いたが、ゴードは少しだけ警戒するようにエリオを見ていた。
「得意なのは?」
「音で周りを探すことです。足音とか、呼吸とか」
「先行偵察は?」
「できますけど、痕跡追跡はあんまり」
「足跡は見ない?」
「見ても、シリルほど分からないです」
「シリル?」
「普段一緒にいる斥候」
エリオはそこで、自分が無意識に比較していることに気づいた。
以前なら、「自分にできること」だけを説明していたはずだ。
今は、できない部分を説明するときに、誰かの名前が自然に出る。
「じゃあ遠くにいる魔物を見つけるのが得意?」
ゴードが確認する。
「そうです。数と方向は結構分かります。種類は音によります」
「十分だな」
話はそれで決まった。
誰も《残響記録》の珍しさについて長く聞かなかった。
依頼で必要なことだけ確認し、すぐに出発する。
それも、エリオには少し新鮮だった。
◇
南西の森林までは、徒歩で二時間ほどだった。
三人の歩き方は、セドリックたちとはかなり違う。
ゴードは前衛だが、バルガスほど重くはない。歩幅は広く、槍の柄が一定の間隔で装備へ当たる。メルとアニカは互いによく話すため、位置は声だけでも分かりやすい。
エリオは歩きながら、それぞれの音を自然に覚えていた。
別に《残響記録》へ意識して保存する必要はない。
いつものように聞いていれば、それだけで残る。
「すごいですね」
しばらくしてメルが言った。
「何が?」
「ずっと後ろ見ないのに、私たちの位置分かってますよね」
「音してるから」
「私、結構静かに歩いてるつもりなんですけど」
「アニカさんよりは静かです」
「え、私?」
「瓶鳴ってる」
アニカが腰の小袋を押さえた。
「これか」
「それ」
「リーナさんと同じだ」
言ってから、エリオは少し止まった。
「誰?」
アニカが尋ねる。
「パーティの治癒術師」
「その人も瓶鳴らすの?」
「結構」
「じゃあ私と仲良くなれそう」
エリオは少し笑った。
会ったことのない人間同士を、音だけで似ていると思うのは変かもしれない。
でも今は、そのくらい五人の音が自分の中へ馴染んでいる。
◇
採取場所へ着くまでは、特に問題は起きなかった。
途中で小型の牙鼠を三匹聞いたが、こちらへ近づく様子はなく、わざわざ追う必要もなかった。ゴードへ数と方向だけ伝えると、彼も「ならそのまま」で終わらせた。
採取地点は、森の奥にある湿った斜面だった。
木々の根元に青緑色の苔が広がり、その間から細い銀色の葉を持つ植物が生えている。
「ここから二時間くらい採ります」
メルが言った。
「エリオさんとゴードは周囲をお願いします」
「はい」
エリオは斜面の少し高い場所へ移動した。
見晴らしがいいわけではない。
むしろ木が多く、視界は悪い。
ただ、音を拾うにはそれほど問題なかった。
ゴードは反対側へ立つ。
普段なら、この程度の広さを二人で警戒することはない。シリルとエリオが別方向を見ながら、必要ならセドリックが位置を調整する。
今日は自分で決める。
「僕、少し北側見ます」
「分かった。俺は南」
それだけで配置が決まった。
エリオは周囲へ意識を広げた。
鳥。
小動物。
採取する姉妹の手。
植物を切る小さな刃。
ゴードの足。
風。
それらを一度に聞きながら、違う音だけを待つ。
しばらくして、北東に足音が混じった。
「来ます」
エリオが声を上げる。
ゴードがすぐに振り向く。
「何?」
「四足。二匹。まだ遠い」
「種類」
「ちょっと待って」
歩幅は小さい。
ただ、普通の動物より重い。
ときどき鼻を鳴らすような低い音がある。
「森豚かも」
「距離?」
「百二十くらい。こっち向いてる」
ゴードは槍を取った。
「メル、アニカ。手止めて」
二人もすぐに採取を中断する。
「逃げる?」
アニカが尋ねる。
「まだ」
ゴードがエリオを見る。
「どうするのがいい?」
その質問に、エリオは一瞬だけ止まった。
セドリックへ渡すはずの判断が、そのまま自分へ返ってきたからだ。
「どうするって?」
「このまま来るなら場所変えるか、追い払うか」
エリオはもう一度足音を聞いた。
二匹。
速度は速くない。
こちらに気づいているというより、同じ方向へ歩いているように聞こえる。
それなら、今すぐ戦う必要はない。
「少し西へ移動した方がいいと思います」
「理由は?」
「まだこっち狙ってない。進む方向がたまたま同じだけかもしれないから」
「分かった」
ゴードはすぐに頷いた。
四人は採取場所を少し外れ、西側へ移動した。
エリオはその間も二匹の音を追う。
やがて森豚は元の採取地点付近を通り、そのまま南へ抜けていった。
「行きました」
「戻れる?」
「大丈夫」
ゴードが槍を下ろす。
「助かった」
エリオは少しだけ違和感を覚えた。
「何が?」
「戦わずに済んだ」
「それだけ?」
「それ大事だろ」
ゴードは普通に答えた。
「採取護衛で討伐数増やしても報酬上がらないし、怪我したら損だ」
「そうですね」
言われてみれば当然だった。
セドリックたちと動いていても、必要のない戦闘は避ける。
それが特別な考え方だと思っていたわけではない。
ただ、別のパーティでも同じように判断する人間がいることを、エリオは改めて知った。
◇
採取は予定どおり終わった。
帰り道では、一度だけ問題が起きた。
森を出る少し前、アニカが足を滑らせて斜面を数メートル転がった。大きな怪我ではなかったが、左足首を捻ったらしく、立つと顔をしかめる。
「歩ける?」
メルが尋ねる。
「ゆっくりなら」
エリオは足首を見た。
腫れ始めている。
「治癒薬ある?」
聞いてから、すぐに自分で気づいた。
リーナはいない。
もちろん薬は携帯している。
でも、普段ならこういうとき、まずリーナが状態を見る。
「あります」
メルが小瓶を出した。
「軽傷用だけど」
「使う?」
「たぶん捻挫だから、痛みは減ると思う」
ゴードがアニカの荷物を持ち上げる。
「俺が持つ。歩けなくなったら背負う」
「大丈夫」
「無理するなよ」
エリオはその様子を見ながら、少し変な気分になった。
リーナがいなくても、対処はできる。
治癒術師がいないパーティなら、治癒薬を使い、荷物を分け、必要なら誰かが背負う。
当たり前だ。
セドリックが行動不能だった推薦任務でも、残った五人で役割を分けた。
誰かがいなければ、ほかの人間が埋める。
完全に同じことはできなくても、止まるわけではない。
「エリオさん?」
メルに呼ばれた。
「何?」
「どうしました?」
「いや」
少し考えてから答える。
「パーティって、誰かいなくても動くんだなって」
三人が不思議そうにこちらを見る。
「そりゃ動くでしょう」
ゴードが言った。
「一人休んだだけで全部止まってたら、冒険者なんてやってられない」
「ですよね」
「でも、いつもの斥候いないから今日はお前を頼んだ」
「ああ」
「いない人の分、誰かがやる。それだけだ」
ゴードは何でもないことのように言った。
エリオは、その言葉をしばらく考えていた。
それだけ。
確かにそうなのかもしれない。
誰かがいない。
その分を、別の誰かがやる。
できないところは、別の方法で補う。
それは「いない人が必要なかった」という意味ではない。
今日の三人も、普段の斥候が不要だからエリオを呼んだわけではない。必要だからこそ、その穴を埋める人間を探した。
なら、自分が今回の派遣にいないことも、同じなのかもしれない。
五人は動く。
当然だ。
自分がいないから困って動けなくなる必要なんてない。
それでも、自分の役割がなくなったわけではない。
エリオは少しだけ気持ちが軽くなった。
◇
王都へ戻り、依頼の報告を終えた頃には夕方になっていた。
報酬を受け取り、ゴードたちと別れる。
「また斥候足りなかったら頼んでいいか?」
ゴードが言った。
「僕でよければ」
「今日くらいできれば十分」
「じゃあ」
軽く手を上げて、三人は去っていった。
エリオはギルドの入口に立ち、一人になった。
朝とは少し違う。
一人で依頼を選び、一日だけ別のパーティに入り、役割を果たして戻ってきた。
それだけなのに、久しぶりに自分が「セドリックたちの一員」以外の形でも冒険者だったことを思い出した気がした。
宿へ戻れば、今日は誰もいない。
夕食も一人になる。
明日も、自分で依頼を選ぶことができる。
十日という時間は、思っていたより長いかもしれない。
けれど、それをただ待つだけの時間にする必要はなかった。
エリオは依頼板を一度振り返った。
明日、また来ればいい。
誰かと組んでもいいし、一人でもいい。
五人がいない間にも、自分にはできることがある。
そう思いながらギルドを出ると、夕方の王都には朝とは違う音が広がっていた。




