評価より先に
声のする方向へ近づくにつれて、谷は思っていたより深いことが分かってきた。
街道から外れた斜面は途中から急になり、足場も悪い。ところどころに露出した岩があり、その間を細い獣道のようなものが谷底まで続いている。上から見るだけでは人がいる場所を確認できず、エリオは聞こえてくる声と呼吸を頼りに方向を絞っていた。
「もう少し左です」
エリオが言うと、前を進んでいたシリルが進路を変えた。
「足場悪い。走るなよ」
さっきまで急いでいたが、ここで転べば救助どころではない。セドリックも全員へ速度を落とすよう合図し、バルガスが最後尾から一人ずつ足元を確認しながら降りていく。
エリオは耳を澄ませたまま、谷底にいる二人の状態を追っていた。
一人は何度も助けを呼んでいる。
声量はまだある。
もう一人はほとんど話していないが、呼吸は聞こえる。ただし速く、一定ではない。ときどき短く息を止めるような間があり、そのたびにエリオは少し不安になった。
「リーナ」
「はい」
「一人、呼吸かなり速いです。途中で止まるみたいになる」
「痛みかもしれないし、胸を打ってる可能性もあります。着いたら先にそっち見ます」
リーナはそう答えながら、普段より少し前へ出た。
昨日までは五人の中でエリオが周囲を聞き、必要な情報を誰かへ渡すことが多かった。
今は、その情報を受け取る相手が一人増えている。
しかもリーナは、同じ「音」でもエリオとは違う意味を拾う。
呼吸の速さ。
痛がり方。
声の弱まり。
エリオが位置や数を判断するために聞いていたものを、リーナは身体の状態を判断するために使う。
それだけで、同じ音の意味が変わる。
「見えた!」
先行していたシリルが声を上げた。
谷底に、二人の人間がいた。
一人は三十代ほどの男性で、倒木に背を預けて座っている。もう一人はその数メートル先で横向きに倒れていた。
二人とも参加者用の装備ではない。
一般の旅人か、近くで作業をしていた人間らしい。
「管理局の課題じゃない」
フィーナが言う。
セドリックも一目見て分かったらしく、すぐに表情を変えた。
「リーナ、頼む。バルガスは倒木側。シリル、周囲確認。エリオも何か来てないか見てくれ」
「はい」
今度は誰も、これが推薦任務の一部かどうかを気にしなかった。
実際の負傷者なら、まず助ける。
それだけだった。
◇
リーナは横向きに倒れている男の横へ膝をついた。
「聞こえますか?」
反応はある。
目は開いているが、意識がはっきりしていない。
「名前、言えます?」
男の唇が動く。
声は小さい。
エリオには聞こえたが、意味までは取れなかった。
リーナはすぐに胸元と腹部を確認し、次に呼吸へ意識を向けた。
「胸を打ってますね」
「骨?」
セドリックが尋ねる。
「分かりません。少なくとも呼吸が浅い。あと左脚」
見ると、膝下が不自然な向きになっている。
「折れてる」
フィーナが顔をしかめる。
「たぶん」
リーナは杖を取り出した。
「まず呼吸を安定させます。骨は後。動かさないでください」
セドリックが頷き、すぐにもう一人の男の方へ向かった。
こちらは意識もはっきりしていた。
「何があった?」
「崖の上から……荷物が落ちてきて」
「荷物?」
「木材です。上で運搬してたやつが外れて」
男はそう答えながら、右腕を押さえている。
「二人で避けようとして、こいつが斜面から落ちた」
「ほかに人は?」
「上に三人いるはずです。でも……俺たちが落ちたあと、声が聞こえなくなって」
エリオはその言葉を聞いて、すぐに谷の上へ意識を向けた。
さっきまで自分たちが降りてきた方角とは少し違う。
さらに北側。
風。
木の葉。
遠くの鳥。
その下に、人の声らしいものがある。
「います」
全員がエリオを見る。
「上に人。たぶん二人か三人」
「動いてる?」
セドリックが尋ねる。
「一人は歩いてます。あと、何か大きいもの動かしてる音」
「木材か?」
「たぶん」
倒木に座っている男が息を吐いた。
「生きてるのか……」
「上の人たちは今すぐ危ない感じ?」
リーナが治癒を続けながら尋ねる。
エリオはもう一度聞いた。
叫び声はない。
走っている様子もない。
「今のところ、急いで逃げてる感じじゃないです」
「なら先にこの人を安定させます」
リーナは迷わなかった。
セドリックも頷く。
「そうしよう」
◇
数分後、男の呼吸は少し落ち着いた。
完全に治ったわけではない。
リーナによれば、胸部の損傷そのものをここで完全に直すのは難しく、今は痛みを抑えて呼吸を安定させただけらしい。
脚の骨折についても、移動できるよう最低限固定し、あとで正式な治療を受ける必要がある。
「運べます?」
バルガスが尋ねる。
「このままなら」
リーナは答えた。
「ただ、揺らしすぎない方がいいです」
「担架作るか」
セドリックが言うと、シリルが周囲の木を見た。
「枝ならある。布は?」
「予備の外套を使おう」
バルガスがすぐに自分の荷物から取り出す。
作業は早かった。
シリルが長さの合う枝を選び、セドリックとバルガスが組み、フィーナが紐を締める。
エリオも手伝ったが、その間も完全には周囲の警戒を外さなかった。
今の場所は谷底だ。
視界が悪く、上から何か近づいてきても気づくのが遅れる。
リーナが負傷者へ集中している以上、昨日話していた通り、周囲を見るのは自分の役目でもある。
「右奥に動物一匹」
エリオが小声で言う。
「危険?」
フィーナが尋ねる。
「小さいです。こっち来てない」
「ならそのまま」
それだけで終わる。
誰も作業を止めない。
必要な情報だけが流れ、必要な人だけが反応する。
六人になってまだ二日目なのに、少しずつ形ができている。
◇
担架が完成したところで、問題が一つ出た。
谷底から元の道へ戻るには、かなり急な斜面を登らなければならない。
負傷者を担架に乗せたまま運ぶには危険だった。
「別の道ない?」
セドリックがシリルへ尋ねる。
「南側に少し緩い斜面がある。ただ、かなり遠回りになる」
「時間は?」
「この人連れてなら、一時間以上」
フィーナが地図を出した。
「第二地点の制限、日没までよね」
「ああ」
「間に合わない可能性あるわ」
そこで初めて、推薦任務のことが全員の意識へ戻った。
現在地から第二地点までは、予定どおりならまだ十分余裕がある。
しかし負傷者二人を安全な場所まで運び、さらに上に残っている作業員の確認までしていれば、かなりの時間を使う。
「管理局へ知らせれば?」
シリルが言った。
「監督役は近くにいるはずだろ」
「位置が分からない」
「合図出す?」
推薦任務用に、緊急時の信号筒は渡されている。
使用すれば管理局側が介入し、負傷者の救助も引き継いでくれるだろう。
ただし、緊急介入を求めた場合、任務評価へ影響する可能性があると事前説明には書かれていた。
セドリックは信号筒を手に取らなかった。
「まず上の作業員を確認する」
「任務は?」
シリルが尋ねる。
「後だ」
答えは早かった。
「一般人の負傷者を見つけて、制限時間があるから置いていくなんて選択肢はない」
誰も反対しなかった。
エリオも、それが当然だと思った。
ただ、少しだけ気になった。
「評価、下がるかな」
口にすると、セドリックがこちらを見る。
「下がるかもしれない」
「いいんですか?」
「よくはない」
セドリックは担架の状態を確認しながら答えた。
「でも、推薦を取るために冒険者やってるわけじゃない」
その言葉に、エリオは一瞬返事ができなかった。
勇者候補。
推薦任務。
上位区分。
ここ数日は、その評価の話ばかりしていた。
紙の上では自分の価値が低く見えることも、編成に条件が付くことも、六人目としてリーナが入ったことも、すべてその仕組みの中で起きた。
それでも、セドリックの中では順番が変わっていない。
目の前に助ける必要のある人がいる。
なら、そちらが先。
「分かりました」
エリオは頷いた。
それ以上、評価のことを考える必要はないと思った。
◇
負傷者のうち、腕を痛めている男は自力で歩けた。
もう一人を担架へ乗せ、バルガスとセドリックが前後を持つ。
フィーナとリーナは負傷者の状態を確認しながら横につき、シリルが安全な道を探す。
エリオは少し後ろから全体を聞いた。
六人。
負傷者二人。
谷の上に残る作業員。
その位置を頭の中で分ける。
「上の人、動き始めました」
エリオが言う。
「こっちへ?」
セドリックが尋ねる。
「谷沿いに南へ。たぶん下りられる道探してる」
「なら合流できるかもしれないな」
シリルが先へ出る。
十分ほど進むと、谷の反対側から声が聞こえた。
「おーい!」
今度は全員にも聞こえる。
「こっち!」
セドリックが声を返した。
しばらくして、作業着を着た三人の男が斜面を降りてきた。
全員無事だった。
事故が起きた直後、落下した木材が道を塞ぎ、すぐには谷へ降りられなかったらしい。別の斜面を回って仲間を探していたところだった。
負傷者を見つけると、三人とも明らかに安心した。
「助けていただいたんですか」
「まだ途中です」
セドリックが答える。
「この人は治療が必要です。近くに人のいる施設は?」
「南へ二キロほど行けば、作業小屋があります。馬車もあります」
「ならそこまで運ぶ」
第二地点とは完全に逆方向だった。
それでも誰も迷わなかった。
◇
作業小屋へ着いた頃には、かなり時間が経っていた。
負傷者はすぐに馬車へ乗せられ、近くの町へ運ばれることになった。
リーナは最後まで状態を確認し、必要な治療内容を作業員へ説明していた。
馬車が出ていくのを見送ったあと、六人はようやく任務の地図を広げた。
太陽はすでにかなり傾いている。
「第二地点、無理だな」
シリルが言った。
「走れば?」
エリオが聞く。
「お前、今から山二つ越える気か?」
「無理?」
「着いても暗い」
フィーナも地図を見て首を振った。
「安全を考えたら、今日はここで野営する方がいいわ」
セドリックも同じ判断だった。
「そうする。管理局には信号を出して現在地を知らせる」
「失格になる?」
エリオが尋ねる。
「分からない」
「ならないんじゃない?」
リーナが言った。
全員が彼女を見る。
「何で?」
「推薦任務って、時間どおりに目的地へ着く人を選ぶだけじゃないでしょう」
「まあな」
「だったら、これも評価されるんじゃないですか?」
リーナはあっさり言った。
「もし人を助けたら失格になる試験なら、私は上の任務に行きたくないですけど」
シリルが少し笑った。
「意外と強いこと言うな」
「治癒術師なので」
「関係あるか?」
「あります」
リーナは真顔で答えた。
エリオも少し笑った。
この人が六人目でよかったかもしれない。
◇
夕方、管理局の監督官が作業小屋までやってきた。
事情は作業員側からもすでに伝わっていたらしく、セドリックが最初から細かく説明する必要はなかった。
「第二地点への到達は未達成ですね」
監督官が確認する。
「はい」
「負傷者救助のため進路変更。一般人五名と接触し、うち二名負傷。一名を治癒術師が応急処置。その後、作業小屋まで搬送」
「その通りです」
「分かりました」
監督官は記録用紙へ書き込んだ。
それだけだった。
「評価は?」
シリルが聞く。
「任務終了後に通知します」
「これ減点?」
「お答えできません」
「やっぱり」
シリルは少し不満そうだったが、セドリックは気にした様子もない。
「明日はどうなります?」
「第二地点は未到達として残っています。明日の行動は自由です。そこへ向かうか、第三地点を優先するかも含めて判断してください」
「分かりました」
監督官はそれ以上何も言わず、来た道を戻っていった。
結局、今日の判断が正しかったのかどうかは分からないままだった。
それでもエリオは、不安には感じなかった。
もし同じ状況へ戻れたとしても、きっと同じことをすると思う。
声を聞いた。
助けを求めている人がいた。
だから向かった。
それだけだ。
評価表にどう書かれるかは、その後の話だった。
そして今夜は、六人で初めての野営になる。
予定どおりではなかった。
けれど、エリオにはむしろ、その方が少しこのパーティらしいような気がしていた。




