追い払うだけでいい
牙狼の群れを村から離すため、エリオたちはまず八匹の位置関係を整理した。
牙狼は灰背熊のいる森の奥へは近づかず、その手前を半円状に行き来している。群れの中央付近には歩幅の小さい若い個体がいて、その周囲を大きな個体が囲むように動いていた。完全に統率された隊列ではないが、ばらばらに動いているわけでもない。
村側へ最も近い三匹は、何度も同じ辺りを往復していた。
反対に、灰背熊から離れる方向には二匹しかいない時間が長い。
「そっちが薄いです」
エリオが小声で伝えると、セドリックはすぐに地形を確認した。
「南西か」
「その先は少し開けてる」
シリルが補足する。
「森を抜けたあと、小さな谷になってる。村とは逆方向だ」
「なら、そこへ流す」
セドリックはそう決めた。
討伐するだけなら、正面から群れへ入って数を減らす方法もある。
しかし今の目的は、まず村への接近を止めることだった。牙狼が灰背熊に押し出されているのであれば、逃げ道を作らず戦えば、かえって村側へ散らす可能性がある。
そこでフィーナが低威力の魔術で進路を制限し、バルガスが村側を塞ぎ、シリルが群れの外周を動く。セドリックは逃げずに向かってくる個体だけを止める。
エリオは全体の位置を聞き続ける。
「始めるぞ」
セドリックの合図で、フィーナが杖を振った。
群れの右側で土が小さく弾ける。
大きな爆発ではない。
驚かせて方向を変えるためのものだった。
牙狼が一斉に反応し、数匹が森の奥へ逃げようとする。しかし、その先には灰背熊がいる。
すぐに足が止まる。
「二匹、こっち!」
エリオが言う。
群れの端にいた二匹が、村側へ抜けようとしていた。
バルガスが盾を構えて進路へ入る。
牙狼は正面からぶつかろうとはせず、左右へ分かれた。
「左、シリル!」
「見えてる!」
シリルが一匹の前へ回り込み、短剣を地面へ突き立てる。
牙狼は反射的に方向を変えた。
もう一匹はバルガスの盾を避け、森の内側へ戻る。
「今、南西が開いてる!」
エリオが伝える。
セドリックはすぐにフィーナを見る。
「左側を押せるか?」
「やる」
今度は群れの北側で地面が弾けた。
牙狼たちは驚き、互いに距離を取りながら南西へ動き始める。
最初の数匹が走り出すと、ほかもそれに続いた。
その中で、一匹だけ足を止めた。
若い個体だった。
「一匹残った!」
エリオが声を上げる。
若い牙狼は周囲を見回し、群れの後を追おうとしている。
しかし、近くにいた大きな個体が戻ってきた。
「親か?」
シリルが言う。
「たぶん」
エリオは足音を聞く。
大きな個体は若い牙狼の周囲を回り、外側へ押すように動いている。
そのまま二匹とも南西へ走り出した。
「全部動いた」
エリオが言う。
「数は?」
セドリックが尋ねる。
「八。全員同じ方向」
「追うぞ。ただし距離を取る」
五人は群れを追った。
完全に追い立てるのではなく、村側へ戻らないことだけを確認する。
しばらく進むと、牙狼たちは森を抜け、谷の方へ降りていった。
足音は少しずつ遠ざかる。
エリオは最後まで数を数え続けた。
八匹。
途中で分かれていない。
戻ってくる個体もいない。
「このままなら、すぐ村へは戻らないと思います」
「今日はな」
セドリックが答える。
「灰背熊がこの場所にいる限り、また押し出される可能性はある」
結局、原因は残っている。
牙狼の群れを動かしただけでは、依頼の問題を完全に解決したことにはならない。
「熊、まだいます」
エリオが森の奥を聞きながら言う。
「動いてない?」
「少し場所を変えた。でも遠くには行ってない」
セドリックは頷いた。
「なら戻る」
◇
灰背熊のいた場所へ戻る途中、シリルが牙狼の痕跡を確認した。
何度も往復していたため足跡は多いが、村側へ向かうものだけでなく、森の奥から押し戻されているような跡も残っているらしい。
「やっぱり、最近ここへ来た感じだな」
シリルが言う。
「前からこの辺を縄張りにしてた群れじゃない」
「熊も最近来たのかな」
エリオが尋ねる。
「たぶん」
セドリックが答えた。
「傷のこともある。何かから逃げて移動してきた可能性もある」
少し前までなら、ここでさらに森の奥へ原因を探しに行っていたかもしれない。
しかし今回は、セドリックもすぐにはそうしなかった。
「まず熊を見る。傷の原因が分かれば、それ以上追う必要があるか決める」
エリオはその判断を聞いて頷いた。
調査は、広げようと思えばどこまでも広げられる。
牙狼がなぜ来たのかを調べれば灰背熊が見つかり、灰背熊がなぜ来たのかを追えば、さらに別の何かが出てくるかもしれない。
けれど、依頼には範囲がある。
今この村にとって必要なのは、近くの危険を減らすことだった。
そこを見失わないようにするのも、冒険者の仕事なのだと思う。
◇
灰背熊の近くまで戻ると、今度は先ほどより離れた位置で止まった。
エリオが耳を澄ませる。
熊はまだ倒木の近くにいる。
呼吸は変わらない。
ただ、先ほどより体勢を変える回数が増えていた。
「起きてます」
「こっちを警戒してる?」
フィーナが聞く。
「たぶん。でも向かっては来てない」
セドリックはシリルへ目を向けた。
「傷、もう一度見られるか?」
「正面からは無理だな。少し回る」
「一人で行くな」
「分かってる」
今回はシリルだけでなく、フィーナも同行する。
エリオは二人の動きを聞きながら、灰背熊の反応を追った。
距離が縮まるにつれて、呼吸のほかにも音が増える。
毛が倒木へ擦れる音。
爪が土を掻く音。
時折、低い唸り声。
「止まって」
エリオが言う。
二人の足音がすぐに止まった。
「熊、頭上げました」
セドリックが手で戻るよう合図する。
フィーナとシリルは無理に近づかず、ゆっくり後退した。
熊も追ってこない。
「もう十分だ」
戻ってきた二人に、セドリックが言う。
「傷は?」
「やっぱり変」
フィーナが答えた。
「魔力の残り方が細すぎる。攻撃魔術を直接受けたなら、もっと周囲に散るはずなのに、傷の線に沿って残ってる」
「魔導具?」
エリオが聞く。
「その可能性はある」
シリルが腰の袋から何かを取り出した。
小さな金属片だった。
「熊の近くに落ちてた」
「それ何?」
「たぶん矢尻の一部」
セドリックが受け取り、フィーナへ渡す。
フィーナはしばらく見たあと、指先へ弱い魔力を集めた。
「……これ」
「分かる?」
「簡単な追跡術式が入ってる」
「追跡?」
エリオが聞き返す。
「獲物に刺さると、しばらく魔力の印を残すタイプ。狩猟用の魔導具で使われることがあるわ」
そこで全員が一度黙った。
灰背熊の傷。
細く残る魔力。
落ちていた矢尻。
少なくとも、何か未知の現象ではないらしい。
「じゃあ人が傷つけた?」
エリオが尋ねる。
「可能性は高い」
フィーナが答える。
「誰かが灰背熊を狩ろうとして、仕留めきれなかった。そのあと熊が逃げてここまで来た、と考えるなら筋は通る」
「それで牙狼が押し出された」
セドリックが言う。
話がようやく一つに繋がった。
人間が灰背熊を傷つける。
熊が移動する。
移動先で牙狼の縄張りを圧迫する。
牙狼が村側へ出てくる。
村では突然牙狼が増えたように見える。
最初に依頼書を見ただけでは分からなかった原因が、少しずつ見えてきた。
「密猟者?」
シリルが尋ねる。
「まだ分からない」
セドリックが答える。
「正規の狩人が失敗しただけかもしれない。追跡術式入りの矢が違法というわけでもない」
「じゃあ誰が撃ったかまでは追わない?」
「村周辺に別の危険がないならな」
フィーナも頷いた。
「この矢尻は持ち帰って、村かギルドに確認してもらえばいいと思う。製造元の印があれば、誰が使ったか分かる可能性もあるし」
エリオは少し拍子抜けするような感覚を覚えた。
灰背熊の傷を見つけたときは、また何か大きな謎が出てきたのかと思った。
実際には、今のところは人間が使う狩猟用の魔導具で説明できる。
それでいい。
むしろ、何でも古代神殿や失われた魔法に繋がる方がおかしい。
「じゃあ、熊はどうする?」
エリオが尋ねる。
セドリックはしばらく灰背熊のいる方向を見た。
「傷を負ってる以上、村へ向かう可能性はある。ただ、今すぐ動けないくらい弱ってるわけでもない」
「追い払う?」
「森のさらに奥へ向かわせたい。ただし無理に刺激すると危険だ」
少し考えたあと、フィーナが提案した。
「匂いと音で進路を限定する?」
「できる?」
「強い魔術を使わなくても、嫌がる刺激を村側に置けば、反対へ動く可能性はある」
エリオはその言葉を聞いて、すぐに一つ思いついた。
「音ならできます」
全員の視線が集まる。
「何を鳴らす?」
セドリックが尋ねた。
「灰背熊が嫌がる音を知ってれば、それを村側から鳴らせる」
「知ってるのか?」
「灰背熊そのものは分からない。でも、大型の熊型魔物が警戒する音なら何個か記録があります」
以前、別の依頼で聞いた大型魔物の威嚇声。
金属が強くぶつかる音。
狩人が熊避けに使っていた特殊な笛。
どれが効くかは分からない。
ただ、直接攻撃するよりは試す価値がある。
「やってみるか」
セドリックが言った。
「効かなければすぐやめる。熊がこっちへ来たら退避だ」
エリオは頷いた。
◇
村側と灰背熊の間へ、エリオたちは位置を取った。
フィーナが風向きを確認し、熊が森の奥へ逃げやすいよう、反対側には何もしない。
バルガスは万が一に備えて前へ立つ。
セドリックとシリルも武器は抜かず、すぐ動ける状態だけ作っていた。
「まず弱いやつから」
エリオはそう言って、《残響記録》から一つの音を選んだ。
以前、猟師が使っていた熊避けの笛。
高く、細く、耳に刺さるような音。
そのまま再生する。
森の中へ音が伸びた。
灰背熊の呼吸が止まる。
次の瞬間、身体を起こす音がした。
「反応した」
エリオが言う。
「方向は?」
「まだその場」
もう一度。
少し長く鳴らす。
熊が動いた。
重い足音が二歩。
ただし、村側ではない。
「奥へ向きました」
「続けろ。ただし刺激しすぎるな」
エリオは間隔を空けて音を鳴らした。
灰背熊は一度低く唸ったが、こちらへ向かっては来ない。
少しずつ。
森の奥へ進む。
そのたびに、重い足音が遠ざかっていく。
エリオは距離を追った。
途中で止まれば、また短く笛を鳴らす。
やがて、音はかなり遠くなった。
「もういい」
セドリックが言う。
エリオも再生を止めた。
しばらく全員でその場に残り、灰背熊が戻ってこないか確認する。
十分ほど経っても、足音は遠いままだった。
「成功?」
エリオが尋ねる。
「今のところはな」
セドリックが答えた。
「村へ戻ろう。牙狼も熊も、しばらくは近くにいないはずだ」
それで今回の依頼は、ほぼ終わった。
牙狼を何匹倒したわけでもない。
灰背熊を討伐したわけでもない。
それでも、村の周囲から危険を離し、原因になっていた状況もある程度確認できた。
エリオは森を戻りながら、少し前までの自分なら「討伐依頼なのに一匹も倒さなくていいのか」と考えていたかもしれないと思った。
今は、それほど不思議ではなかった。
必要なことをする。
そのために、自分が聞けるものを使う。
それで依頼が安全に終わるなら、十分なのだろう。
◇
村へ戻ると、セドリックが村長へ状況を説明した。
牙狼の群れは八匹。
灰背熊に縄張りを圧迫され、村側へ出てきていた可能性が高いこと。
牙狼は南西側へ移動させ、灰背熊も森の奥へ追い払ったこと。
さらに、灰背熊の傷から狩猟用と思われる魔導具の一部が見つかったこと。
村長は驚きながら話を聞いていたが、最後には大きく息を吐いた。
「では、今夜は少し安心してよいのですな」
「少なくとも昨日までよりは。ただ、数日は夜間の警戒を続けてください」
セドリックが答える。
「牙狼が完全に別の縄張りへ移るかは、まだ分かりません。戻ってくるようならギルドへ連絡を」
「分かりました」
セドリックは矢尻の破片も見せた。
「これに見覚えはありますか?」
村長はしばらく見たあと、首を振った。
「うちの猟師が使うものではありませんな。村の外から来た狩人かもしれません」
「なら、こちらはギルドへ持ち帰ります」
それ以上は追わない。
今の依頼で確認できるところまで確認し、残りは正式な報告として渡す。
監視塔のときと同じだった。
エリオはそのやり取りを見ながら、少しずつ自分たちの仕事の終わらせ方も分かってきた気がした。
「そういえば」
村長がエリオを見る。
「森の中の魔物の数を聞き分けたのは、あなたですかな?」
「はい」
「熊まで追い払ったと聞きましたが」
「音を鳴らしただけです」
答えると、村長は感心したように何度も頷いた。
「いや、それがありがたい。討伐となれば森も荒れますし、怪我人が出るかもしれん。何も壊れずに済んだなら、それが一番です」
「そうですね」
エリオは今度は素直に頷いた。
少し前までなら、自分の働きを説明するときに「聞いただけ」「音を鳴らしただけ」と、どこかで小さく見せていた。
今も口にはしたが、それを役に立っていないという意味では言っていない。
聞くことも。
音を使うことも。
自分の仕事だった。
そのことを、もうわざわざ確かめなくてもよくなってきていた。




