群れを押すもの
牙狼の群れから距離を保ったまま、エリオたちは森の奥へ進んだ。
先ほど確認した八匹は、すぐにこちらへ向かってくる様子を見せていない。村側へ戻るでもなく、森のさらに奥へ入るでもなく、一定の範囲を行き来しているようだった。群れとして落ち着きがないのは確かだが、何かを待っているのか、それとも周囲を警戒して動けずにいるのかまでは分からない。
その奥にいる一匹は、さらに動きが少なかった。
エリオは歩きながら何度も耳を澄ませ、その重い足音が途切れていないことを確かめた。正確には、足音と呼べるほど頻繁に動いているわけではない。数十秒、あるいはもっと長い間隔を置いて、地面へ体重がかかる音が一度だけ聞こえる。そのたびに、牙狼とは明らかに違う大きさが伝わってきた。
「距離、少し縮まってます」
エリオがそう言うと、セドリックは前方の木々を見ながら歩調を落とした。
「向こうが動いた?」
「たぶん僕たちが近づいた分です。大きい方は、ほとんど同じ場所にいます」
「牙狼は?」
「八匹とも大体同じ範囲。二匹だけ少しこっち寄り」
セドリックはそこで一度立ち止まり、全員へ手で待つよう合図した。
「ここからはシリルが先に確認する。ただし、姿が見えなくても深追いするな」
「了解」
シリルは短く答え、木々の間へ消えていった。
その間、エリオたちはその場で周囲を警戒する。
フィーナは木の幹へ手を触れ、森の魔力の流れを確認していた。植物や土の中にも弱い魔力はあるため、大型魔物の反応があっても距離が遠ければ判別しづらいらしい。
バルガスは後方を向き、牙狼がこちらへ回り込んでこないかを見ている。
エリオは先ほどと同じ場所へ意識を集中した。
牙狼の足音はまだ聞こえる。
その奥に、重い音。
さらに耳を澄ませると、今度は足音とは別のものが混じっていることに気づいた。
低い呼吸。
一度。
少し間を置いて、もう一度。
かなり大きい。
「呼吸も聞こえる」
エリオが小さな声で言うと、フィーナが顔を上げた。
「どんな感じ?」
「遅いです。寝てるのかもしれない」
「寝てる?」
「動かなさすぎるから」
もちろん断定はできない。
ただ、歩き回っている魔物なら、もっと身体が動く音があるはずだった。
今聞こえるのは、時折体勢を変える音と、低く長い呼吸だけ。
エリオがそう説明すると、セドリックは少し考え込んだ。
「牙狼が近づかないのも、それが原因かもしれないな」
「怖がってる?」
「可能性はある」
そのとき、シリルが戻ってきた。
足音は抑えていたが、表情を見るだけで何か見つけたことは分かった。
「いた」
セドリックがすぐに尋ねる。
「何だ?」
「灰背熊」
フィーナの表情が少し変わった。
「成体?」
「かなり大きい。たぶん雄」
灰背熊は、森に棲む大型魔物の中でも比較的よく知られている種類だった。
普段は人里へ積極的に近づくことはなく、単独で行動することが多い。ただし、縄張り意識が強く、巣や餌場へ近づいた相手には容赦なく襲いかかる。
牙狼より危険度は高い。
正面から戦えば、バルガスでも突進を完全に受け止めるのは難しい。
「何してた?」
セドリックが尋ねる。
「倒木の根元で伏せてる。寝てるようにも見えたけど、右肩に傷がある」
「傷?」
「ああ。浅くはない。血はもう乾いてた」
エリオはその言葉を聞きながら、先ほどの岩猪を思い出した。
怪我をした大型魔物。
それだけで警戒する理由にはなる。
「牙狼にやられた?」
エリオが聞くと、シリルは首を振った。
「傷の大きさが違う。牙狼の牙じゃないと思う」
「じゃあ別の魔物?」
「分からない」
セドリックは少し黙った。
依頼の目的は、村の近くに出ている牙狼の群れを確認し、必要なら討伐することだ。
灰背熊は依頼対象ではない。
しかも今のところ、村へ向かっているわけでもない。
「位置関係は?」
「熊の手前に牙狼がいる。正確には、熊のいる場所を避けながら周りをうろついてる感じだ」
「やっぱり追われたのかな」
フィーナが言う。
「縄張りから?」
「そう考えるのが自然ね」
群れの本来の縄張りに灰背熊が入り込んだ。
あるいは、別の場所で争ってこちらへ押し出された。
結果として牙狼が村側へ近づいた。
少なくとも、今の情報だけならそう考えることはできる。
「でも、それなら熊をどうにかしないと、牙狼だけ倒してもまた別の魔物が押し出されるかもしれない」
エリオが言うと、セドリックは頷いた。
「そこが問題だ」
依頼書には牙狼の討伐としか書かれていない。
灰背熊まで倒せば、追加の危険を排除したことにはなるが、必要のない戦闘を増やすことにもなる。
まして、傷を負っている理由も分からない。
ここで倒していい相手なのかどうか、判断材料が足りなかった。
「もう少し見たい」
セドリックが言った。
「熊の周囲と、牙狼の動きを確認する。群れが本当に熊を避けてるなら、先に追い払う方法を考える」
「倒さずに?」
シリルが聞く。
「できるならな」
その答えを聞いて、エリオは少しだけ安心した。
護衛依頼のときと同じだ。
強いから倒す。
依頼対象だから倒す。
それだけで判断しない。
必要なことだけをする。
セドリックたちと動くようになってから、その考え方が少しずつ自分にも馴染んできていた。
◇
五人はさらに少しだけ位置を変え、牙狼の群れと灰背熊の両方を確認しやすい場所を探した。
エリオは音を頼りに進み、シリルが地形を見て安全な場所を選ぶ。
やがて、大きな岩と倒木が重なった場所の陰から、牙狼の一部を目視できる位置へ出た。
六匹が見える。
少し離れて二匹。
数はエリオが聞いたとおりだった。
群れは森の中を落ち着きなく動いているが、一定以上奥へ進もうとはしない。
「確かに避けてる」
フィーナが小さな声で言う。
「熊の方に近づくとすぐ戻るわね」
「熊の縄張りに入れないって感じだな」
シリルも同意する。
しばらく見ていると、牙狼のうち一匹が少しだけ奥へ進んだ。
その直後。
森のさらに向こうから、低い唸り声が響いた。
エリオには、その前から灰背熊が身体を起こした音が聞こえていた。
牙狼はすぐに後退する。
ほかの個体も一斉に距離を取った。
「決まりだな」
セドリックが低く言った。
「少なくとも今は、熊が群れを村側へ押してる」
「じゃあ熊を追い払う?」
エリオが尋ねる。
「その前に傷を確認したい」
「近づくんですか?」
「近づきすぎない。シリルが見た範囲でいい」
セドリックはシリルを見る。
「傷の状態、何か変だったか?」
「んー……」
シリルは少し考えた。
「裂けてるっていうより、抉られてる感じだった」
「爪?」
「それも違う気がする」
フィーナが眉を寄せた。
「魔法の跡は?」
「見ただけじゃ分からない」
そこで全員の視線がフィーナへ集まる。
「少し近づけば分かるかもしれない。でも、熊が起きてるなら危険ね」
「エリオ、動きは追えるか?」
「追えます」
「なら、熊がこっち向いたらすぐ言ってくれ」
「分かりました」
それだけで役割は決まった。
フィーナとシリルが少しだけ前へ出る。
セドリックとバルガスはその後方。
エリオはさらに少し離れた位置から、灰背熊の音を追い続ける。
大型魔物の呼吸は、さきほどより分かりやすくなっていた。
ゆっくり。
重い。
時々身体を動かす。
今はまだこちらを警戒していない。
「まだ大丈夫」
エリオが小声で伝える。
フィーナたちは少しずつ距離を詰めた。
しばらくして、フィーナがその場でしゃがみ込み、杖の先を地面へ向ける。
直接熊へ魔術を使うのではなく、周囲に残っている魔力の痕跡を拾っているらしい。
数十秒。
フィーナが顔を上げた。
その表情が変わっていた。
「セドリック」
「何だ?」
「傷に魔力が残ってる」
エリオはその言葉を聞いた瞬間、少し嫌な予感がした。
「自然なものじゃない?」
「少なくとも、牙狼に噛まれた傷じゃない」
「魔法?」
「たぶん」
フィーナはさらに慎重に言葉を選んだ。
「でも、普通の攻撃魔術とも少し違う」
セドリックが目を細める。
「どう違う?」
「魔力が散ってない。傷の周りに、細く残ってる」
「何かを刻んだみたいに?」
「そう見える」
エリオは灰背熊の呼吸を追いながら、その説明を聞いていた。
依頼は牙狼の討伐だった。
その原因らしい灰背熊を見つけた。
そして、その熊には何者かによって付けられた可能性のある傷がある。
少しだけ、話が変わってきた。
「熊、動きます」
エリオが言う。
フィーナとシリルがすぐに下がる。
灰背熊は身体を起こしたものの、こちらへ向かってくる様子はなかった。ただ、立ち上がったことで肩の傷がさらに見やすくなったらしい。
シリルが戻ってきながら、低い声で言う。
「傷の形、変だぞ」
「どういうふうに?」
「真っ直ぐすぎる」
フィーナも頷いた。
「偶然ついた傷には見えない」
セドリックはすぐには答えなかった。
牙狼の群れは依然として周囲をうろついている。
灰背熊もいる。
村は近い。
ここで無理に謎を追えば、依頼の本来の目的を見失う。
「まず牙狼を村から離す」
しばらく考えたあと、セドリックはそう決めた。
「熊の傷は、そのあとだ」
エリオも頷いた。
今すぐ全部を調べる必要はない。
監視塔でもそうだった。
分からないことを見つけても、まず今やるべきことを終える。
それでも、《残響記録》には覚えておける。
灰背熊の重い呼吸も、牙狼の動きも。
必要なら、後からもう一度確かめられる。
「エリオ」
「はい」
「群れを動かしたい。熊から離れる方向で、一番薄いところを教えてくれ」
エリオはすぐに牙狼の足音へ意識を戻した。
八匹の位置を一つずつ分ける。
密集している場所。
幼い個体の位置。
移動しやすそうな方向。
その情報を、セドリックたちが使える形にして渡す。
今は、それが先だった。




