八匹の向こう
教会で《残響記録》の記録を調べた翌日、エリオたちは王都の冒険者ギルドへ来ていた。
目的は、次に受ける依頼を決めることだった。
セドリックは朝からいくつかの依頼書を見比べていたが、今回は古代遺跡の調査でも、領主からの特別依頼でもない。候補に残っているのは、王都から北西へ一日ほど進んだ地域で発生している魔物の討伐と、その周辺の安全確認を兼ねた仕事だった。
依頼書によれば、森と草原の境目にある農村の近くで、ここ数日になって牙狼が何度か目撃されているらしい。家畜が襲われた被害も出ているため、数が増える前に群れの位置を確認し、必要なら討伐することが求められている。
危険度そのものは、セドリックたちにとって高くない。
ただし、牙狼は単独よりも群れで行動することが多く、姿を見つけてから数を把握するのが難しい。森へ逃げ込まれれば追跡にも時間がかかるため、依頼書には「索敵技能を持つ者の同行を推奨」と記されていた。
「これでいいんじゃないか?」
シリルが依頼書を覗き込みながら言った。
「距離も近いし、終わったらその日のうちに村まで戻れるかもしれない」
「群れの規模が分からない」
セドリックは別の報告書を確認しながら答えた。
「目撃情報では三匹から七匹。家畜の被害だけを見ると、もう少しいてもおかしくない」
「七匹なら問題ないでしょう」
フィーナが言う。
「森へ散られる方が面倒ね」
「だからエリオがいる」
セドリックは特に強調することもなくそう言い、依頼書を机へ置いた。
その言い方があまりに自然だったので、エリオも最初は何も感じなかった。
少し前なら、「《残響記録》なら見つけられるかもしれない」といった説明が入っていただろう。今は、森で姿の見えない魔物を探すならエリオが音を聞くということが、最初から作戦の一部に組み込まれている。
「行きますか?」
エリオが尋ねると、セドリックは頷いた。
「ああ。ただし、討伐より先に群れの数を確認する。村の近くまで来ている理由があるなら、それも見たい」
「餌が減ったとか?」
「その可能性もある。繁殖期でもないのに群れが移動してきたなら、別の魔物に追われた可能性もあるからな」
討伐依頼だからといって、見つけたものをそのまま倒せば終わりというわけではないらしい。
エリオは依頼書へもう一度目を落とした。
牙狼。
森。
群れ。
どんな足音だったかは知っている。
以前、まだミラとルークと一緒に動いていた頃に何度か遭遇しているため、《残響記録》にも残っていた。大型の狼型魔物ほど重くなく、普通の狼よりもわずかに地面を強く蹴る。走ると爪が土へ当たる音も混じるため、条件がよければ他の獣とは区別できるはずだった。
「じゃあこれで出します」
セドリックが依頼書を持って受付へ向かう。
エリオも当然のようにその後をついていった。
◇
翌朝、五人は王都を出発した。
目的の農村までは馬車で半日ほどだったため、依頼主である村側が用意した荷馬車に乗せてもらうことになった。
街道を外れたあとも、しばらくは穏やかな農地が続いた。
王都周辺だけあって道は整備されており、人の往来も多い。エリオは最初こそ周囲の音を確認していたが、村に近づくまでは特に警戒すべきものもなく、途中からはフィーナと教会で見た資料について話していた。
「昨日の記号、やっぱり気になる?」
フィーナが尋ねる。
「気にはなる。でも、すぐ分かるものじゃないでしょう」
「珍しく我慢してるわね」
「セドリックに、想像で埋めるなって言われたから」
「それは正しいわね」
「フィーナも同じこと言うんですね」
「だって本当にそうだもの」
フィーナは少し笑ったあと、馬車の外へ目を向けた。
「でも、《残響記録》が五百年以上前から名前だけは残ってたっていうのは大きいわ。少なくとも、今の教会が適当に名付けた恩恵じゃない」
「昔の発現者が何してたか分かればいいんですけど」
「そこは連絡待ちね」
エリオも頷いた。
以前なら、気になることがあるとその場で答えを見つけたくなっていた。今も知りたい気持ちは強いが、調べる手段がない以上、考え続けても答えが増えるわけではないことくらいは分かってきている。
それより今は、これから受ける依頼の方が重要だった。
村へ近づくにつれて、畑の間に簡単な柵が増え始める。家畜を守るために急いで補強したらしく、新しい木材が使われている場所も多かった。
やがて馬車が村の入口へ入ると、数人の村人が待っていた。
セドリックが依頼書を見せると、村長らしい老人がすぐに頭を下げた。
「勇者候補の方々ですね。来ていただいて助かりました」
「被害の状況から確認させてください」
セドリックが答える。
話を聞くと、最初の被害は四日前だった。
村の北側にある羊小屋から一頭がいなくなり、翌朝、森の近くで食べられた跡が見つかった。その翌日には別の家の山羊が襲われ、昨日の夜には柵の外から複数の唸り声を聞いた者もいるという。
「人への被害は?」
「今のところありません。ただ、夜になると子どもを外へ出せなくて」
村長は不安そうに森の方を見た。
「猟師が二人で様子を見に行ったんですが、足跡が多すぎて数が分からなかったそうです」
「最近、森の中で別の魔物を見たという話は?」
「それが、特には」
「大型の獣が移動してきたとか、森の奥で木が倒れていたとか」
「聞いてませんな」
セドリックは何度か確認したあと、まず被害のあった場所を見ることにした。
◇
最初に案内されたのは、村の北端にある羊小屋だった。
柵の一部には新しい木材が使われており、そこだけ最近直したことが分かる。地面にはすでに多くの人間や家畜の足跡が重なっているため、シリルでも数日前の痕跡を正確に追うのは難しそうだった。
「こっちはあんまり期待しないでくれ」
しゃがみ込んで地面を確認しながら、シリルが言う。
「村の人が何度も歩いてる。古い足跡はほとんど潰れてるな」
「昨日の夜の音は、どこで聞いたんですか?」
エリオが村長へ尋ねた。
「この先です」
村長が指したのは、羊小屋からさらに北へ進んだ柵の近くだった。
「家の中にいた者が、森の方から何匹も唸る声を聞いたそうで」
「何時くらい?」
「夜半より少し前だったと思います」
エリオはそのまま柵の近くまで歩いた。
目の前には草地があり、その向こうから森が始まっている。距離は百メートルほどで、途中に大きな遮蔽物はない。
風は弱い。
今なら、森の手前にいるものならかなり聞きやすい。
「エリオ」
セドリックが呼ぶ。
その声だけで、何を求められているのかは分かった。
「聞いてみます」
エリオは柵へ手を置き、目を閉じた。
村の音を意識から外す。
後ろでは羊が鳴いている。
少し離れた家から、人が話す声がする。
風が草を揺らしている。
その先。
森。
鳥の声。
小型の獣。
枝が揺れる音。
すぐには牙狼らしいものは聞こえない。
「近くにはいないと思う」
「もっと奥は?」
「ここからだと分からない」
「じゃあ入るか」
セドリックが言った。
村長には村へ戻ってもらい、五人だけで森へ向かうことにする。
◇
森へ入って二十分ほど進んだところで、エリオは最初の足音を拾った。
「止まって」
小さな声だったが、四人はすぐに動きを止めた。
セドリックは振り返らず、そのまま低い声で尋ねる。
「方向」
「右前。まだ遠い」
「数は?」
エリオはしばらく耳を澄ませた。
一つ。
二つ。
少し離れて三つ。
さらに奥にも何かいる。
「最低四。たぶんもっといる」
「牙狼?」
「走ってないから確信はない。でも足の重さは近い」
「シリル」
セドリックが名前を呼ぶだけで、シリルは頷いた。
「見てくる」
以前なら、エリオが聞いたものを確認するためにシリルが向かうこと自体が、一つの手順として目立っていた。
今は違う。
エリオが方向と数を伝え、シリルが目で確かめる。その間にバルガスが後方を見て、フィーナが魔力の流れに異常がないか確認する。
誰も、それぞれが何をするのか相談しない。
同じことを何度も繰り返しているうちに、自然と形ができていた。
数分後、戻ってきたシリルが指を六本立てた。
「牙狼。見えたのは六」
「群れはそれだけ?」
「分からない。奥にまだ気配はある」
エリオはすぐに聞き直した。
シリルが戻ってきたことで一度乱れた森の音が、少しずつ元へ戻っていく。
足音。
呼吸。
草を踏む音。
聞こえている六匹とは別に、少し離れた場所からさらに二つ。
「八かもしれない」
「距離は?」
「六匹の後ろに二匹。かなり近い」
セドリックはすぐに全員を見た。
「八なら、このまま討伐できる。ただし、先に周囲を確認する。これが全部とは限らない」
「もう一群いる可能性?」
フィーナが尋ねる。
「ある。村へ近づいてる理由も分かってない」
エリオはその話を聞きながら、もう一度森へ意識を向けた。
牙狼の足音は確かに八匹分ある。
そのこと自体には、かなり自信があった。
ただ。
何かがおかしい。
すぐに説明できるほど大きな違和感ではない。
八匹の中に、歩き方の違うものがいる。
「待って」
エリオが言う。
セドリックがすぐに反応した。
「何だ?」
「一匹だけ、変です」
「怪我してる?」
「違うと思う」
エリオは聞こえている音を頭の中で一つずつ分けた。
牙狼の足音を、過去に記録したものと比べる。
体重。
歩幅。
爪が地面へ当たる位置。
七匹はほぼ同じ特徴を持っている。
だが、一匹だけ違う。
「歩幅が小さい」
「子ども?」
シリルが尋ねる。
「たぶん」
それだけなら不思議ではない。
群れの中に幼体がいる。
繁殖期でなくても、少し成長した個体が残っていることはあり得る。
ただ、エリオが気になったのはその先だった。
「もう一匹います」
「九匹?」
「違う」
エリオは眉を寄せた。
牙狼の八匹より、さらに奥。
ほとんど動いていないため、最初は木の軋みかと思っていた。
だが、時折確かに足が動く。
重い。
牙狼とは比べものにならない。
「もっと大きいのが一匹いる」
その言葉で、四人の表情が変わった。
「種類は?」
セドリックが尋ねる。
「分からない。まだ遠いし、動いてないから」
「牙狼より大きい?」
「かなり」
フィーナが杖を握り直す。
「魔力は?」
「ここからだと何も感じない。でも、森の奥は植物の魔力も多いから断定できない」
セドリックはすぐに討伐へ移らなかった。
依頼の対象は牙狼だが、なぜ群れが村の近くまで出てきたのかはまだ分かっていない。
そして、その奥に別の大型個体がいる。
「これが原因かもしれないな」
セドリックが低い声で言う。
「大型の魔物に縄張りを追われて、牙狼が村側へ出てきた?」
「可能性はある」
シリルが尋ねる。
「どうする?」
「先に確認する。ただし近づきすぎない」
セドリックはそう答えたあと、エリオを見る。
「音、追えるか?」
「たぶん」
「頼む」
それだけだった。
特別に期待を口にするわけでも、能力を褒めるわけでもない。
それでもエリオは、その一言を聞くと自然に森の奥へ意識を向けていた。
牙狼の群れ。
そのさらに向こうにいる、正体の分からない一匹。
どちらが動くのかを確かめながら、全員へ必要な情報を伝える。
それが今の自分の役割だということを、もう考え直す必要もなかった。




