音は嘘をつかない
《残響記録》を授かってから、エリオは暇さえあれば能力を試すようになった。
最初に分かったのは、教会で聞いた説明が間違ってはいないということだった。一度聞いた音であれば、かなり正確に記録できる。そして、その音を自分の意思で外へ再生することもできる。
鳥の鳴き声だけではない。
母が食器を重ねる音。父が薪を割る音。町の鐘。馬の蹄。鍛冶屋から聞こえてくる金属を叩く音。市場で商人が客を呼び込む声まで、エリオが意識して記憶したものなら、ほとんどそのまま再現できた。
面白かったのは、自分の喉を使っている感覚がほとんどないことだった。
人間の声を真似ようとすれば、本来なら自分の声帯で出せる範囲に限界がある。だが《残響記録》による再生は違った。低い男の声でも、甲高い鳥の鳴き声でも、金属がぶつかり合う音でも、同じように再現できる。
音量には限界があるようだったが、それもエリオ自身の声量とは関係がなかった。
試しに町の鐘を再現したときは、家中に大きな音が響き渡り、母に本気で怒られた。
「家の中でやるものじゃありません!」
「ごめんなさい」
「びっくりして針を落としたじゃない」
母のリディアはそう言いながら床へ落ちた縫い針を探し、父のガイルは横で肩を震わせて笑っていた。
「でも、本当に鐘そのものだったな」
「笑ってないで探して」
「はいはい」
二人の様子を見ながら、エリオは密かに満足していた。
少なくとも、音を再現する精度については申し分ない。
問題は、それを何に使うのかだった。
◇
十歳になる頃には、町の人間の多くがエリオの《恩恵》について知っていた。
珍しい能力ではあったため、最初のうちは面白がられた。
子どもたちから鳥の声を出してくれと頼まれたり、犬の鳴き真似をしてくれと言われたりした。市場の商人から自分の呼び込みを再現してくれと頼まれ、まったく同じ声を返したところ、腹を抱えて笑われたこともある。
けれど、それだけだった。
一度見れば驚く。
二度見れば面白い。
三度目には慣れる。
それが《残響記録》に対する周囲の評価だった。
この世界では、《恩恵》は仕事と密接に結びついている。
父の《頑健》は単純だが、長時間の肉体労働には非常に役立つ。近所のパン屋の主人が持つ《発酵促進》は、その名の通り生地の発酵を安定させることができるし、知り合いの農家には土の状態をある程度感覚で把握できる者もいる。
派手なものばかりではない。
むしろ大半は、その人間が生きていくうえで少し有利になる程度の能力だった。
だからこそ、《残響記録》は扱いに困る。
音を再現できることで、何の仕事ができるのか。
エリオ自身も考えた。
前世なら、いくらでも使い道は思いつく。
録音機材が不要になるだけでも大変なことだ。効果音の制作にも使える。音声の保存、確認、比較にも利用できるし、状況によっては証言の代わりにさえなる。
だが、この世界には録音という概念そのものがほとんど存在しなかった。
音は、その場で鳴って消えるもの。
人々にとって、それが当たり前だった。
「やっぱり吟遊詩人とかじゃないか?」
十二歳のある日、父が夕食を食べながら言った。
エリオはパンを千切る手を止める。
「僕、歌えないよ」
「音を出せるだろ」
「歌と効果音は違う」
「こうかおん?」
「……何でもない」
前世の言葉が出てしまった。
父は不思議そうな顔をしたが、それ以上追及しなかった。
「動物の鳴き声を使えば、狩人には便利かもしれないわよ」
母が言う。
「獲物を呼ぶのか」
「鳥ならできるかも」
「だったら悪くないじゃないか」
父はあっさりそう言ったが、エリオは曖昧に笑った。
狩人になるつもりはなかった。
嫌というわけではない。
ただ、せっかく異世界に生まれ変わったのだから、もう少し世界を見てみたいという気持ちがあった。
前世の律は、ごく普通の会社員だった。
毎朝ほぼ同じ時間に家を出て、同じような電車に乗り、仕事をして帰る。休日に音を集めることだけが、日常から少し外へ出る時間だった。
今の人生まで、同じ町だけで終わらせる必要はない。
この世界には魔法がある。
魔物がいる。
遠くには王都があり、そのさらに向こうには別の国もあるらしい。
どうせ二度目の人生なのだ。
少しくらい、前とは違う生き方をしてみてもいい。
そんなことを考えるようになっていた。
◇
《残響記録》に初めて明確な使い道を見つけたのは、十三歳の春だった。
その日、エリオは父に頼まれて市場へ向かっていた。
通りはいつもと変わらず賑わっていた。荷車が行き交い、店先では商人たちが声を張り上げ、子どもが人混みの間を走り回っている。
エリオはパン屋の前を通り過ぎようとして、足を止めた。
何かが気になった。
振り返る。
目の前を、一台の荷車がゆっくり通り過ぎていく。
馬が一頭。
木製の荷台には、大きな樽がいくつも積まれている。
特別珍しいものではない。
けれど、エリオはその荷車から聞こえる音に違和感を覚えた。
車輪が回るたびに、一定の間隔で小さな音が鳴っている。
ギッ。
少し間を置いて。
ギッ。
木材が軋む音そのものは珍しくない。
だが、その中に別の音が混じっていた。
ごく小さな、乾いた音。
前世で何度も録音したことのある、木が限界まで曲がったときに鳴る音に似ていた。
エリオは荷車を目で追った。
車輪を見る。
左側。
軸の付近が、わずかに揺れている。
「ちょっと待って!」
エリオは思わず声を上げた。
荷車を操っていた男が振り返る。
「なんだ?」
「その車、止めた方がいい」
「は?」
「左の車輪」
男は怪訝な顔をした。
「何言ってんだ。朝に確認したばかりだぞ」
「でも変な音がする」
その言葉を聞いた男は、露骨に面倒そうな顔をした。
「音?」
エリオは頷いた。
「軸のあたりから、割れかけた木みたいな音がする」
「そんなもん、荷車なんだから軋むに決まってるだろ」
言われてみれば、その反応は当然だった。
人の往来が多い場所で荷車を止めれば邪魔になる。
しかも、見知らぬ少年に音がおかしいと言われた程度で毎回確認していては仕事にならない。
男は再び馬を進ませようとした。
そのときだった。
エリオの耳に、先ほどよりも大きな音が入った。
パキッ。
「止めて!」
今度は考えるより先に叫んでいた。
男が驚いて手綱を引く。
馬が足を止めた直後だった。
左の車輪が大きく傾いた。
次の瞬間、車輪を固定していた木製の部品が折れ、荷台が片側へ沈み込んだ。
積まれていた樽が大きく揺れる。
「うわっ!」
男が慌てて荷台を押さえ、近くにいた人々が一斉に離れた。
幸い、荷車は停止していた。
走っている最中なら、車輪そのものが外れ、積荷ごと横転していたかもしれない。
男はしばらく呆然と壊れた部分を見つめていた。
やがて、エリオを見る。
「……お前、分かってたのか?」
「音が違ったから」
「違ったって……」
エリオは説明しようとして、少し迷った。
これまでに聞いた木材の音と比較した。
そう言ったところで、理解してもらえるかは分からない。
「割れる前の音を知ってたんだ」
結局、それだけ答えた。
男は壊れた車輪とエリオを何度か見比べた。
「変な《恩恵》持ってる坊主がいるって聞いたことあるけど……お前か?」
「たぶん」
「音を真似するやつだろ?」
「それ」
「真似するだけじゃなかったのか」
エリオは、その言葉に少し引っかかった。
真似するだけ。
町の人間は、ずっとそう思っている。
自分自身も、《残響記録》を「音を保存して再生する能力」だと考えてきた。
けれど。
記録できるということは、過去に聞いた音と比較できるということでもある。
さっきの荷車の音を聞いたとき、エリオは意識して過去の記録を探したわけではなかった。
似た音が、自然に浮かんできた。
前世で録った、古い木の枝が折れる直前の音。
この世界で聞いた、家具の脚が割れたときの音。
それらと目の前の音が重なったことで、危険だと分かった。
エリオは壊れた車輪を見つめた。
もしかすると、この能力は自分が思っていたより使えるのかもしれない。
◇
それからエリオは、意識的に音を集め始めた。
目的もなく記録するのではない。
意味のある音を覚える。
鍛冶屋では、職人に頼んで金属を叩く音を聞かせてもらった。
同じ鉄でも、厚さや形によって響き方が違う。
ひびが入れば音が変わる。
刃物も、状態が悪ければ澄んだ音がしなくなる。
馬を扱う人間からは、健康な馬と脚を痛めた馬の歩き方を教えてもらった。
狩人には、森にいる動物の鳴き声を聞いた。
毒を持つ虫。
縄張りへ入ったときだけ鳴く魔物。
遠くから近づいてくる大型獣の足音。
知れば知るほど、音には情報が含まれている。
前世でも分かっていたことだった。
だが、録音機材も解析ソフトも存在しないこの世界では、その情報を利用できる者がほとんどいない。
エリオには、それができた。
ただし。
それでも《残響記録》が優秀な《恩恵》として評価されることはなかった。
壊れかけた荷車に気づける。
魔物の鳴き声を覚えられる。
金属の異常を音から見つけられる。
便利ではある。
しかし、剣士の《剣術補正》のように敵を倒せるわけではない。
魔術師のように炎や雷を放てるわけでもない。
治癒術師のように人の傷を治せるわけでもない。
結局のところ、この世界で高く評価される力は、分かりやすく結果を出せるものだった。
エリオも、それを不満に思ってはいなかった。
周囲がどう評価しようと、自分にとって面白い力であることは変わらない。
そして十五歳を迎えた春。
エリオは一つの決断をした。
「冒険者になる」
夕食の席でそう告げると、父は口へ運びかけたスープの匙を止めた。
母はしばらく何も言わなかった。
「……本気か?」
やがてガイルが聞いた。
「うん」
「お前の《恩恵》で?」
父に悪意がないことは分かっている。
だからエリオも怒らなかった。
「だからこそ、かな」
「どういう意味だ?」
「町にいるだけじゃ、聞ける音に限界があるから」
父が黙った。
母もエリオを見る。
「もっといろんな場所へ行ってみたい。森とか、遺跡とか、他の町とか。魔物の音も聞いてみたいし、魔法についても知りたい」
「危険よ」
「分かってる」
「あなたは戦える《恩恵》を持っていないのよ」
「それも分かってる」
エリオは、二人の顔を順番に見た。
七歳で《残響記録》を授かってから八年。
自分なりに、この能力で何ができるのかを探してきた。
まだ分からないことの方が多い。
だからこそ、知りたかった。
この世界には、自分がまだ一度も聞いたことのない音がどれだけあるのだろう。
その中に、何が隠れているのだろう。
そして心の奥には、ずっと消えない疑問がある。
『――まだ、聞こえる?』
前世で聞いた少女の声。
その声と、この世界へ転生したことに関係があるのかどうか。
今のところ、手がかりは何一つない。
けれど、この町で十五年暮らしても答えが見つからなかったのなら、外へ出るしかない。
長い沈黙のあと、父が大きく息を吐いた。
「止めても行く顔してるな」
「たぶん」
「誰に似たんだか」
そう言いながら、父は母を見る。
「私を見ないで」
リディアが即座に返した。
エリオは思わず笑った。
父も小さく笑う。
それからガイルは、少し真面目な顔になった。
「だったら、剣くらい覚えてからにしろ」
「剣?」
「《恩恵》が何だろうと、身体は鍛えられる。冒険者になるなら、自分の身くらい自分で守れ」
エリオは頷いた。
「分かった」
このときのエリオは、まだ知らなかった。
冒険者として外の世界へ出ることで、《残響記録》が単に便利な能力では済まなくなることも。
やがて一つのパーティに加わり、その力を当たり前のように使われた末に、役立たずとして追い出されることも。
そして、その先で。
この世界から失われたはずの音を聞くことになることも。




