外れスキル《残響記録》
七歳になったエリオは、教会の長い石段を見上げながら、思っていたよりも緊張している自分に気づいていた。
この日を待っていなかったわけではない。
むしろ、父から《恩恵》の話を聞いて以来、ずっと気になっていたと言っていい。
この世界では、七歳になると教会で《恩恵》を調べてもらう。
剣に優れた者、魔術に秀でた者、商売や農作業に向いた力を得る者。内容は人によってさまざまで、人生を大きく左右することも珍しくないらしい。
だからこそ、町では子どもが七歳になることを一つの節目として扱っていた。
今日も教会の前には、エリオと同じくらいの年齢の子どもが何人も集まっている。きれいな服を着せてもらった子もいれば、落ち着かずに親の手を握っている子もいた。その表情には期待と不安が入り混じっていて、自分だけが特別に緊張しているわけではないらしい。
「大丈夫よ」
隣に立つ母のリディアが、エリオの肩へ手を置いた。
「どんな《恩恵》でも、エリオはエリオだから」
「そうそう。俺なんて《頑健》だぞ」
父のガイルが胸を張る。
エリオは父を見上げた。
「それ、いい恩恵じゃないの?」
「まあな」
「じゃあ慰めになってないよ」
そう返すと、リディアが笑った。
七年もこの世界で暮らせば、言葉にはすっかり慣れた。
今では日常会話に困ることはほとんどない。文字も簡単なものなら読めるし、町の暮らしについても大体は分かるようになった。
それでも、自分が前世では相沢律という日本人だったことを忘れたことはない。
むしろ、七年経った今でも前世の記憶は不自然なほど鮮明だった。
家の間取り。
通勤に使っていた道。
パソコンの画面。
録音機材。
そして、最後に聞いた少女の声。
『――まだ、聞こえる?』
何度思い返しても、その声だけはまったく色褪せなかった。
もちろん、それだけではない。
この世界で聞いた音も、ほとんど忘れていなかった。
幼い頃に母が歌ってくれた子守歌。父が初めて町へ連れていってくれた日に聞いた鐘の音。三年前、隣家の老人が玄関先で派手にくしゃみをした音まで、意識を向ければ頭の中へ呼び戻すことができる。
最初は単に記憶力がいいのだと思っていた。
しかし、普通ではないことには、とっくに気づいていた。
音だけが、妙に正確なのだ。
言葉の内容を忘れていても、そのとき相手がどう発音したのかは覚えている。顔が曖昧になっても、声の高さは思い出せる。
まるで頭の中に、録音した音だけを保管する場所があるようだった。
それが《恩恵》と関係しているのではないか。
エリオはずっとそう考えてきた。
もし本当にそうなら、今日、その答えが出る。
「次の方、どうぞ」
教会の中から声が聞こえた。
エリオたちの番だった。
◇
教会の内部は、エリオが想像していたよりも簡素だった。
高い天井と石造りの柱。正面には大きな像が置かれているが、派手な装飾はほとんどない。
部屋の中央には、小さな台があった。
その上に置かれているのは、透明な石。
両手で抱えられるくらいの大きさで、内部には白い霧のようなものが揺れている。
「こちらへ」
白い法衣を着た年配の神官が、エリオを呼んだ。
父と母は少し離れた場所へ下がる。
エリオは台の前まで進んだ。
「名前を」
「エリオ・アルディスです」
「七歳ですね」
「はい」
神官は頷くと、透明な石を示した。
「手を置いてください。力を抜いて、そのままで結構です」
エリオは言われた通り、石の上へ右手を置いた。
ひんやりとしている。
一瞬、何も起こらなかった。
やがて石の内部にあった白い霧がゆっくりと動き始める。
細い光がエリオの手のひらから石の中へ流れ込み、霧が一度大きく渦を巻いた。
神官が目を細める。
「……これは」
声の調子が変わった。
エリオは思わず神官を見た。
「何か、変ですか?」
「いえ。少し珍しいだけです」
珍しい。
その言葉に、少し期待が膨らむ。
もしかすると、本当に特別な能力なのかもしれない。
石の中に文字のようなものが浮かび上がった。
エリオにはまだ読めない古い文字だったが、神官はそれを見つめながら、ゆっくりと読み上げた。
「《残響記録》」
教会の中が静かになった。
エリオは、その名前を頭の中で繰り返した。
残響。
記録。
意味は、何となく想像できる。
「どんな《恩恵》なんですか?」
エリオが聞くと、神官は石の横に置かれていた古い本を開いた。
何ページかめくり、指を止める。
「一度聞いた音を記憶し、再現できる力……とあります」
エリオは目を見開いた。
やはりそうだった。
七年間ずっと感じていた違和感に、初めて名前がついた。
「再現?」
後ろから父の声が聞こえた。
神官は少し困ったような顔をする。
「記録した音を、自らの声や魔力を介して再び鳴らすことができる、と」
「それは……」
父はそこで言葉を止めた。
期待していた反応とは違った。
エリオは振り返る。
母も、少し戸惑った顔をしていた。
「珍しい力ではあるんですよね?」
リディアが聞く。
「ええ。私も実際に見るのは初めてです」
神官はそう答えたものの、声に興奮はなかった。
むしろ、どう説明したものか迷っているように見える。
「ただ……戦闘や生産に直接役立つ種類の《恩恵》ではないかもしれません」
その言葉で、エリオはようやく理解した。
珍しい。
だが、評価は高くない。
「例えば?」
エリオは聞いた。
神官は少し考えた。
「鳥の鳴き声を覚えれば、それを再現できるでしょう。鐘の音を聞けば、同じような音を出せるかもしれません」
「それだけ?」
エリオが思わず聞き返すと、神官は申し訳なさそうに頷いた。
「記録には、その程度しか」
父が腕を組んだ。
「まあ、変な力ではあるな」
「あなた」
「悪い意味じゃない」
母に睨まれ、父はすぐに言い直した。
エリオはもう一度、透明な石を見た。
《残響記録》。
一度聞いた音を記憶し、再現する。
確かに、剣が強くなるわけではない。
火を出せるわけでもない。
作物がよく育つわけでもない。
この世界の価値観で考えれば、微妙な能力なのだろう。
だが。
エリオは、どうしても神官たちと同じ感覚にはなれなかった。
音を完全に記録できる。
しかも、それを自分で再現できる。
前世で何年も音を集めていた律にとって、それは決して価値のない能力には思えなかった。
「どのくらい正確に再現できるんですか?」
エリオが尋ねる。
神官が首を傾げた。
「正確に?」
「音の高さとか、大きさとか。聞いた通りに出せるんですか?」
「そこまでは記録にありませんね」
「何回でも?」
「……分かりません」
「人の声も?」
「おそらくは」
「魔物の声は?」
「それも音である以上、可能でしょう」
質問を重ねるたび、神官の表情が少しずつ困惑していく。
父が後ろで笑った。
「お前、楽しそうだな」
「だって気になるよ」
エリオは素直に答えた。
本当に気になっていた。
能力の限界。
再現できる音の種類。
距離。
音量。
どこまで複雑な音を保存できるのか。
そして何より。
魔法の詠唱は、音ではないのか。
三歳のとき、初めて魔術師を見た日のことを思い出す。
あの男は、炎を出す前に何かを唱えていた。
意味は当時分からなかった。
だが、音そのものは覚えている。
今でも。
完全に。
エリオは神官を見上げた。
「魔術の詠唱も、音ですよね?」
その瞬間。
神官の眉がわずかに動いた。
「……そうですね」
「じゃあ、僕が詠唱を覚えたら?」
神官はすぐには答えなかった。
横で聞いていた父も、少し真面目な顔になる。
「魔術は、詠唱だけで発動するものではありません」
やがて神官が答えた。
「魔力が必要ですし、術式への適性も必要です。言葉を真似ただけで魔術が使えるわけではありません」
「そうなんだ」
エリオは少しだけ残念に思った。
だが、それでも十分面白い。
たとえ自分が魔法を使えなくても、詠唱を完全に再現できること自体には何か使い道があるかもしれない。
エリオは石から手を離した。
神官は本へ何かを書き込むと、最後にもう一度《残響記録》という文字を確認した。
「珍しい《恩恵》です。ですが、あまり期待しすぎないように」
「はい」
エリオは素直に返事をした。
期待しすぎない方がいい。
たぶん、この世界ではそうなのだろう。
◇
教会を出たあと、父と母は何度もエリオを気遣った。
「落ち込んでない?」
「全然」
「本当に?」
「うん」
母はまだ心配そうだったが、エリオは本当に落ち込んでいなかった。
むしろ早く試してみたかった。
家へ帰る途中、道端の木に一羽の鳥が止まった。
青い羽を持つ、小さな鳥だった。
この辺りではよく見かける種類で、エリオも鳴き声を何度も聞いたことがある。
鳥が鳴いた。
高く、短い三音。
エリオは立ち止まった。
「どうした?」
父が振り返る。
「ちょっと試してみる」
「何を?」
エリオは目を閉じた。
さっき聞いた鳥の声を思い出す。
音はすぐに見つかった。
いつもと同じように、頭の中では完全な形で再生できる。
違うのは、その音を外へ出せると分かったことだった。
どうやればいいのかは、不思議と感覚で分かった。
声を出すのとは少し違う。
胸の奥にある何かへ触れて、それを音へ変える。
エリオは、その感覚に任せた。
次の瞬間。
鳥とまったく同じ鳴き声が、エリオのいる場所から響いた。
父と母が固まった。
木の上にいた鳥まで動きを止める。
エリオ自身も、思わず目を開いた。
「……え?」
自分の声ではなかった。
子どもの喉で真似した音でもない。
さっき聞いた鳥の鳴き声が、そのまま再生された。
高さも。
長さも。
音の癖まで。
同じだった。
木の上の鳥が、首を傾げる。
エリオはもう一度試した。
同じ三音が鳴った。
すると今度は鳥が返事をするように鳴いた。
「……すごいじゃない」
母が呟いた。
「便利なのか、それ?」
父はまだ分からないという顔をしている。
エリオは答えなかった。
頭の中では別のことを考えていた。
神官は言った。
鳥の声を再現できる。
鐘の音を再現できる。
その程度だと。
けれど、この精度なら。
鳥だけではない。
人間の声も。
動物の鳴き声も。
複雑な音も。
おそらく全部、そのまま残せる。
エリオは七年間で聞いてきた音をいくつか思い浮かべた。
父の声。
母の声。
町の鐘。
鍛冶屋の槌。
魔術師の詠唱。
そして。
前世で最後に聞いた、あの少女の声。
『――まだ、聞こえる?』
試してみようとして。
エリオはやめた。
なぜか、それだけは再生してはいけないような気がした。
理由は分からない。
ただ、あの声を聞いた直後に起きたことを思い出すと、胸の奥に冷たいものが残った。
今はまだいい。
エリオはそう考え、再び歩き始めた。
自分が手に入れた《残響記録》という能力を、周囲は外れだと思っている。
けれど、本当にそうなのだろうか。
少なくともエリオには、まだ確かめたいことが山ほどあった。




