音を忘れない子ども
自分が死んだのかどうか、律には最後まで分からなかった。
あの夜、耳を貫いた高い音のあとに何が起きたのか。心臓が止まったのか、それとも意識だけがどこかへ飛ばされたのか。確かめる方法などあるはずもなく、気がつけば律は見知らぬ世界で、エリオという名前を与えられた赤ん坊になっていた。
最初のうちは、さすがに夢ではないかと疑った。
けれど、何日経っても目は覚めない。
眠って起きても同じ天井があり、同じ女性が自分を抱き上げ、聞いたことのない言葉で話しかけてくる。腹が減れば勝手に泣き、眠くなれば意識が落ちる。自分の意思とは関係なく動く小さな身体にも、少しずつ慣れていくしかなかった。
どうやら母親らしい女性の名前がリディアだと分かったのは、生まれてからかなり経ってからだった。
父親はガイル。
この二人が夫婦で、自分はその子どもらしい。
家はそれほど裕福ではなさそうだったが、貧しいというほどでもない。石造りの二階建てで、父親は朝になると外へ働きに出て、母親は家の中で布を縫ったり、時折近所の人間と品物を交換したりしていた。
少なくとも、律の知っている日本ではなかった。
電気はない。
水道もない。
夜になれば灯りは火を使うし、料理も薪で行われている。外を通る荷車は馬のような動物に引かれており、通りを歩く人間の服装も現代とはかけ離れていた。
そして何より決定的だったのは、言葉だった。
最初は何一つ理解できなかった。
母親がどれだけ優しく話しかけてきても、律にとっては意味のない音の連なりにしか聞こえない。前世で海外旅行へ行ったときに似た感覚を味わったことはあったが、今回はそれ以上だった。
知っている言語の系統にすら思えない。
それでも律は、退屈しなかった。
むしろ面白かった。
言葉の意味は分からなくても、音としてなら聞ける。
母親が自分を抱き上げるときには、決まって同じ短い言葉を使う。食事の前にも別の言葉を使い、父親が帰宅すると母親は必ず似た響きで声をかける。
律はそれを一つずつ覚えていった。
発音。
アクセント。
語尾の変化。
声を出せるようになる前から、頭の中には大量の音が残っていた。
前世でも、人の声を覚えるのは得意だった。
一度聞いた独特な話し方を、何年経っても覚えていることがあった。仕事先で一度電話しただけの相手の声に気づいたこともある。
だから最初のうちは、それほど不思議には思わなかった。
赤ん坊の脳は言語を覚えるのが早い。
その程度に考えていた。
けれど、生後半年を過ぎた頃から、少しおかしいと思い始めた。
忘れないのだ。
母親が数週間前に一度だけ口にした言葉も、父親が外で誰かと交わした短い会話も、聞こうと思えば頭の中でそのまま再生できた。
曖昧な記憶ではない。
声の高さまで同じだった。
母親の声を思い浮かべれば、耳元で話しているように聞こえる。父親が笑った声も、扉を閉めた音も、食器を置いた音も、頭の中に残っている。
律はある日、それを確かめようとした。
母親が台所で木の器を机へ置いた。
コトン。
乾いた、小さな音だった。
律はその音を意識して覚えた。
それから一時間ほど経って、母親に抱かれながら目を閉じる。
さっきの音を思い出す。
コトン。
聞こえた。
あまりにも鮮明だったため、律は思わず目を開けた。
当然ながら、近くには器などない。
母親が不思議そうにこちらを覗き込む。
「エリオ?」
律は答えられない。
ただ、頭の中でもう一度音を思い出した。
コトン。
同じ音がする。
再生するたびに変わらない。
記憶の中で多少誇張されたり、ぼやけたりする普通の思い出とは違う。
まるで録音したデータを再生しているようだった。
そのとき初めて、律は自分の身に起きていることが、単なる転生だけではないのかもしれないと思った。
◇
三歳になる頃には、エリオはかなり言葉を話せるようになっていた。
「エリオは、本当に言葉を覚えるのが早いわね」
母親のリディアは、何度もそう言った。
父親のガイルも最初は喜んでいたが、次第に少し不思議そうな顔をするようになった。
「この前、商人が来たときの言葉まで覚えていたぞ」
「聞いていたんでしょう?」
「俺だって聞いていたが、あんなに正確には覚えていない」
二人がそう話しているのを、エリオは部屋の隅で木の玩具をいじりながら聞いていた。
正確なのは当然だった。
あのとき商人が何と言ったか、今でも完全に覚えている。
声の調子まで。
けれど、それを両親へ説明するつもりはなかった。
三歳児が「前世で音を録る趣味がありまして」などと言い出せば、いくらこの世界でも何かがおかしいと思われるだろう。
そもそも、転生したこと自体を誰かに話すつもりはなかった。
前世の記憶を持っているからといって、今の両親を他人だと思っているわけでもない。むしろ三年も世話をされれば、嫌でも情は湧く。
リディアは優しかった。
ガイルは少し無口だったが、エリオをよく抱き上げた。
この世界でどう生きることになるのかはまだ分からないが、少なくとも二人に不安を与えたいとは思わなかった。
だからエリオは、自分が妙に物覚えのいい子どもである程度に振る舞っていた。
ただ一つだけ、どうしても気になっている音があった。
前世で最後に聞いた少女の声。
『まだ、聞こえる?』
そして。
『見つけた』
あれだけは、今でも忘れていなかった。
何度思い出しても、同じ声だった。
少し高く、けれど幼すぎない。
不思議なくらい静かな声。
この世界へ来てから何千、何万という音を聞いたはずなのに、そのどれとも似ていない。
そして、もう一つ。
耳を貫いたあの高音。
キィィィィィィン――。
それもまた、完全な形で頭の中に残っていた。
試しに思い出すだけなら痛みはない。
ただの音として再生できる。
だが、エリオはその音をなるべく思い出さないようにしていた。
理由は単純だった。
怖いからだ。
あの音を聞いたあと、自分はここへ来た。
偶然だとは思えなかった。
けれど、三歳の身体で考え続けても答えが出るはずもない。
この世界について知っていることすら、まだあまりにも少なかった。
◇
その日、エリオは初めて魔法を見た。
父親に連れられて町へ出たときのことだった。
家から少し離れた広場に人だかりができており、その中心に、一人の男が立っていた。
派手な青い外套。
腰には短い杖のようなものを差している。
エリオが興味を示したことに気づいた父親が、足を止めた。
「あれは魔術師だ」
「まじゅつし?」
「ああ」
父親はそれ以上説明しなかった。
だが、エリオにはその一言だけで十分だった。
魔術師。
つまり。
本当に魔法がある。
男は人々に囲まれながら、地面へ置かれた小さな金属板へ手を向けた。
何かを口にする。
短い言葉だった。
意味は分からない。
けれどエリオは、その音を一度で覚えた。
次の瞬間。
男の手のひらの先に、小さな炎が灯った。
エリオは目を見開いた。
赤ん坊として転生したことより、言葉の通じない世界へ来たことより、目の前で火が何もないところから生まれたことの方が、よほど異世界へ来た実感があった。
「すごい……」
思わず声が漏れた。
父親が笑った。
「大きくなれば、お前にもできるかもしれないぞ」
「ぼくにも?」
「七歳になれば教会で《恩恵》を調べてもらえる。そのときに魔術の才があればな」
エリオは父親を見上げた。
「おんけい?」
「神様から与えられる力だ」
そこで父親は、少し考えてから続けた。
「剣が得意になる者もいれば、魔術を使いやすくなる者もいる。商売に向く者だっている。それぞれ違うんだ」
エリオは再び、炎を出した男へ目を向けた。
恩恵。
七歳になれば、自分にも何かが与えられる。
いや。
もしかすると、すでに持っているのではないか。
聞いた音を、一つも忘れない。
それどころか、いつでも正確に思い出すことができる。
これが前世から持ち越したただの特技なのか、それともこの世界でいう《恩恵》なのかは分からない。
だが初めて、エリオは思った。
もしこれが能力なのだとしたら。
自分には、いったい何ができるのだろう。
その答えを知るまで、あと四年。
七歳になったエリオが教会で告げられることになる《恩恵》の名前を、このときの彼はまだ知らなかった。
《残響記録》。
それが、この世界で誰一人として価値を見出さなかった力の名だった。




