聞こえてはいけない音
相沢律には、音を集める趣味があった。
とはいっても、音楽をやっているわけではない。学生時代に楽器へ触れたことはあるものの、人前で演奏できるほど続けたこともなく、仕事も音響関係とは無縁の、ごく普通の会社員だった。それでも休日になると、小型のレコーダーとマイクを鞄へ詰め込み、気になった場所へ足を運ぶ。そんなことを、気づけば十年近く続けていた。
律が好んで録るのは、誰もが知っているのに、わざわざ残そうとは思わないような音だった。
雨粒が古いトタン屋根を叩く音。早朝の地下道に響く、一人分だけの靴音。真冬の朝、固く締まった雪を踏みしめたときに鳴る乾いた音。古びた商店街でシャッターが順番に下りていく音や、風の強い日に電線が低く唸る音も好きだった。
気になった音を見つければ、その場でマイクを向ける。録ったものを家へ持ち帰り、不要なノイズを削り、必要な部分だけを切り出して音量を整える。そうして短い効果音に仕上げたものを、自分で作った小さなウェブサイトへ公開していた。
扉が軋む音、雨音、雑踏、足音、衣擦れ、食器同士が触れ合う小さな音。自分でも誰が使うのか分からないような素材まで含めれば、公開した数はいつの間にか千を超えていた。
別に有名なサイトではないし、それで収入を得ているわけでもない。それでも、ときどき動画制作をしているらしい人から「使わせてもらいました」と短いメッセージが届くことがあった。自分の録った音が、知らない誰かの作品の片隅で鳴っているのを偶然見つけたこともある。
律にとっては、それで十分だった。
本来ならその場で鳴って消えてしまうものが、ほんの少しだけ先まで残る。それが何となく嬉しかったし、誰も気にしなかった音を自分だけが拾えたような感覚も好きだった。
「今日は駄目かな」
日曜日の午後、律は川沿いに立ちながら、片耳だけヘッドホンを外した。
目の前には大きな橋があり、その下を川が緩やかに流れている。数日前、仕事帰りにここを通ったとき、橋脚とコンクリート壁の隙間へ吹き込んだ風が、妙な低い音を鳴らしていることに気づいたのだ。
笛とも機械音とも違う。遠くで誰かが低く唸っているようにも聞こえた。
面白い素材になるかもしれないと思い、わざわざ休日に機材を持って戻ってきたのだが、どうやら今日は風向きが違うらしい。レコーダーのメーターを確認しても、拾えているのは川の流れる音と、橋の上を通過していく車の走行音、それに、ときおり風がマイクの周囲を撫でる程度だった。
「昨日の方がよかったかもな」
そう呟きながらも、律は録音を止めなかった。
環境音の収録が思い通りにならないことには慣れている。目的の音を狙って出かけたのに、まったく違う音の方が面白かったということも少なくない。予定外の音が偶然紛れ込むからこそ、こんな趣味を十年近く続けても飽きないのかもしれなかった。
結局、その日は三十分ほど粘ってから機材を片づけた。
目当ての音は録れなかった。わざわざ休日を使って来た割には、ほとんど成果がなかったと言っていい。
少なくとも、そのときの律はそう思っていた。
◇
異変に気づいたのは、その日の夜だった。
夕食と風呂を済ませ、翌日の仕事の準備まで終えてから、律は自室のパソコンの前へ座った。デスクの横には用途の違うイヤホンやヘッドホンがいくつも掛けられている。環境音を細かく確認するときには、普段音楽を聞くものとは別のヘッドホンを使うのがいつものやり方だった。
昼間録ったデータをパソコンへ移し、編集ソフトを立ち上げる。
波形を表示して順番に確認していくが、やはり大半は使えそうにない。一定の川音に、遠くを走る車、自転車のベル、犬の鳴き声、風の音。そのどれも素材として珍しいものではなく、わざわざ残しておくほどでもなかった。
倍速で確認しながら不要なファイルを削除していると、途中で律の指が止まった。
「……ん?」
録音開始から十三分四十二秒付近。
そこだけ波形が、ほんの一瞬、不自然に膨らんでいた。
現場で大きな音が鳴った記憶はない。それでも何かが記録されている以上、確認しない理由はなかった。律は再生位置を少し戻し、ヘッドホンを両耳につける。
再生ボタンを押すと、川の音が流れ始めた。一定の水音の奥を車が一台走り抜け、タイヤがアスファルトを擦る音が徐々に遠ざかっていく。そのあとに風が入り、さらに何でもない環境音が続く。
その中に、ほんの一瞬だけ何かが混じった。
律はすぐに再生を止めた。
「今の……声か?」
位置を戻して、もう一度聞く。
川の音、車の走行音、風。その隙間に、ごく小さな人間の声らしきものが確かに入っている。
何と言っているかまでは聞き取れない。
律はその部分だけを切り出し、音量をわずかに上げ、川の低音を少し削った。処理を強くかけすぎれば元の音まで変わってしまうため、手を加えるのは最低限に留める。
もう一度再生する。
『――――』
やはり、声だった。
男性ではない。女性、というより若い少女の声に聞こえる。
しかし、どうにも距離感がおかしかった。
遠くから入った声ではない。むしろマイクのすぐそばで、静かに何かを囁いたような近さがある。
「誰か通ったっけ……」
律は昼間の様子を思い返した。
橋の上には何人か人がいた。しかし、自分が録音していた河川敷まで降りてきた人間はいなかったはずだ。少なくとも、マイクのすぐ近くまで誰かが来ていれば覚えている。
もっとも、現場では気づかなかった声や物音が後から録音に入っていること自体は珍しくない。人間は意識していない音を簡単に聞き流す。だから、たまたま誰かの声を拾っただけだと考えることもできた。
律は一度ヘッドホンを外し、椅子の背もたれへ体重を預けた。
不思議ではある。
だが、まだ説明できないと決まったわけではない。
そう考えてから、再びヘッドホンをつけた。
今度は再生音量を少しだけ上げる。
『――こえ――』
律は眉を寄せ、すぐに位置を戻した。
『――きこえ――』
「聞こえ……?」
そこまでは分かった。
問題は、その先だった。語尾が川の音に重なって潰れている。
律は波形をさらに拡大し、左右のチャンネルを別々に確認した。右よりも左の方が、わずかに声が明瞭だった。録音に使ったマイクの向きから考えれば、音源は川側にあったことになる。
そこで律は手を止めた。
川側には誰もいなかった。
正確には、人が立って声を出せるような場所そのものがない。
「……なんだ、これ」
普通なら、ここで怖がるべきなのかもしれない。
だが律が最初に覚えたのは、恐怖よりも好奇心だった。分からないものに遭遇すると、逃げるより先に仕組みを確かめたくなる。昔からそういうところがあり、その性格がこの趣味を長く続けている理由の一つでもあった。
律は再生音量をもう少しだけ上げた。
これで聞き取れなければ、今日は諦めよう。
そう決めて、再生ボタンを押す。
川の音が流れ、風が重なり、その奥から少女の声が浮かび上がった。
『――まだ、聞こえる?』
今度は、聞き間違えようがないほどはっきりしていた。
律の背筋を冷たいものがゆっくりと走る。
反射的に再生を止め、画面の波形を見つめた。
「まだ、聞こえる……?」
誰かと会話していたのだろうか。
そう考えれば、不自然な言葉ではない。
だが、その前にも後にも別の声は入っていなかった。少女の声だけが、二秒ほど切り取られたように記録されている。
録音された音には、必ず発生源がある。
声なら、そこには声を発した人間がいる。
それは律にとって疑う余地もないほど当たり前のことだった。だから、この声にも何かしらの理由があるはずだった。
反響なのか、遠くの音が偶然妙な形で入ったのか。それとも、昼間の自分が単に誰かの存在を見落としていただけなのか。
律はもう一度確かめようと、再生ボタンへ指を伸ばした。
その瞬間だった。
鋭い高音が、突然耳を突き抜けた。
「っ……!」
思わず顔をしかめる。
ほんの一瞬だけ鳴ったその音は、通常のハウリングとはまるで違っていた。ヘッドホンから大きな音が出たというよりも、細い金属の針を耳の奥から直接差し込まれたような感覚に近い。
律は慌ててヘッドホンを外そうとした。
しかし、指がイヤーカップへ届くよりも先に、さらに強烈な高音が鳴った。
キィィィィィィン――。
「ぁ……っ!」
音として認識できたのは、そこまでだった。
次の瞬間には、それは痛みに変わっていた。鼓膜を突き抜け、頭蓋骨の内側を走り、そのまま脳の中心まで一直線に貫いてくる。身体が反射的にのけぞり、椅子が大きく傾いた。
床へ何かが落ちる音がしたが、それを確かめる余裕はなかった。
視界の端が急速に白く染まり始めていた。
パソコンの画面も、机も、壁も、自分の手さえも、強い光へ溶け込むように輪郭を失っていく。目を閉じようとしているのに、瞼が動いているのかどうかすら分からない。
何が起きているのかは分からなかった。それでも、このまま意識を失えばまずいということだけは直感的に理解できた。
耳を塞ごうとしても、腕が思うように動かない。もう音がヘッドホンから聞こえているのか、自分の頭の中で鳴っているのかさえ分からなくなっていた。
高音はなおも律の意識を貫き続け、視界はほとんど完全な白へ変わっていく。
その白の中で、今度は少女の声が聞こえた。
録音を通したものではない。
すぐ隣に誰かがいるような近さで。
『見つけた』
その一言を最後に、相沢律の意識は途切れた。
◇
次に意識が戻ったとき、最初に律が認識したのは大きな泣き声だった。
随分と近い。耳元どころか、自分の頭の中から響いているような近さで、しかも容赦なく大きい。朦朧とした意識の中で、律はうるさいなと思いながら眉をひそめようとした。
ところが、顔が思うように動かない。
身体も妙に重く、手足へ力を入れたつもりなのに、ほとんど動いた感覚がなかった。目を開けようとしても、視界にはぼんやりと明るいものが広がるだけで、焦点が合わない。
周囲では誰かが話していた。
女性の声と、男性らしき低い声。それ以外にも何人かいるようだった。誰もが慌ただしく声を交わしているのに、その響きにはどこか喜びが混じっている。
ただし、何を言っているのかはまるで分からなかった。
聞いたことのない言葉だった。
律は混乱した頭で状況を整理しようとした。
さっきまで自宅にいた。録音データを確認していて、妙な声を見つけた。その直後に耳を貫くような音がして、意識を失った。
だとすれば、ここは病院だろうか。
誰かが自分を見つけて救急車を呼んでくれたのかもしれない。そう考えれば、ひとまず筋は通る。
「……ぁ」
誰かに状況を聞こうとして、声を出そうとした。
ところが、口から出てきたのは言葉ではなかった。
「ふ、ぁ……あぁっ!」
甲高い泣き声が響く。
そこで律は、ようやく違和感の正体に気づいた。
先ほどから耳元で鳴っている、このやたらとうるさい泣き声。
泣いているのは、近くにいる誰かではない。
自分だった。
理解が追いつくより先に、身体がふわりと浮き上がった。
誰かに抱き上げられたらしい。
その動きに合わせて視界が大きく揺れ、目の前に一人の女性の顔が現れた。
まだぼやけてはいるが、少しずつ輪郭が見える。
金色に近い淡い髪と、涙を浮かべた目。女性は律を見つめながら、心底嬉しそうに笑っていた。
その肩越しに見えるのは、病院の白い壁ではない。
粗い石を積み上げた壁に、見覚えのない形の灯り。木製らしい大きな家具も見える。少なくとも、律が知っている現代日本の病室には到底思えなかった。
女性は律を大切そうに抱きながら、何度も何かを語りかけてきた。
意味は分からない。
ただ、その中で何度も繰り返される一つの音だけは、妙にはっきり耳に残った。
「エリオ」
律はぼんやりと考えた。
エリオ。
誰の名前だ。
女性は涙を拭いながら、もう一度同じ言葉を口にした。
「エリオ」
今度は律を抱きしめながら、はっきりと。
そこでようやく、一つの可能性が頭に浮かんだ。
まさか。
いくら何でも突拍子がなさすぎる。
けれど、自分の身体は異様に小さく、言葉を話すこともできない。目の前にいる人間の言葉は理解できず、周囲の景色には見覚えがない。そして、この女性が「エリオ」と呼んでいる相手は、どう考えても自分だった。
相沢律は、まだまともに焦点すら合わない視界の中で、どうにか状況を理解しようとした。
その結果、導き出された答えは一つしかなかった。
どうやら自分は、とんでもなく面倒なことになったらしい。




