五人で進む
翌朝、空が白み始めるより少し前に、エリオたちは野営地を出た。
夜のあいだに大きな異常はなく、見張りの途中で小型の獣が水場へ近づいてきた程度だった。昨日の岩猪が戻ってくることもなく、商隊の人間たちも十分に休めたらしい。馬にも目立った疲労は見られず、御者たちは薄暗いうちから荷台の固定具や車輪を確認し、予定していた時刻より少し早く出発の準備を終えていた。
今日の行程は昨日より短い。街道をそのまま南東へ進み、森を抜ければ目的地の町までは半日ほどで着く見込みだった。
それでも、エリオは出発してすぐに周囲の音を確認し始めた。
昨日までなら、四台の荷馬車が同時に動き出すだけで、かなり意識を集中しなければならなかった。車輪が地面を踏む音、馬の蹄、荷台の軋み、金具同士が触れる細かな音が一度に重なり、その中から街道の外側にある音を拾うには、まず近くの騒音を一つずつ頭の中で分ける必要があった。
だが二日目になると、その作業にもかなり慣れていた。
一台目は布や染料が中心だから、荷台内部から出る音が少ない。二台目は酒樽が揺れるたびに低い音が一定の間隔で混じり、三台目は農具や金属製品が多いため、道が荒れている場所を通ると細かな金属音がまとまって鳴る。最後の一台は荷物が軽い分、車体そのものの振動が大きく響いていた。
それぞれの音が頭の中で別々のものとして整理されてしまえば、むしろ昨日より聞きやすい。
いつもの音が分かっているからこそ、その中へ違うものが混ざったときに気づける。
「今日は昨日より楽そうだな」
隣を歩いていたセドリックに言われ、エリオは前方から聞こえる鳥の声を確認してから頷いた。
「荷馬車の音、もうだいたい覚えたから」
「一日で?」
「昨日ずっと聞いてたし」
「それを普通みたいに言うな」
少し後ろからフィーナの声が飛んできたため、エリオは振り返った。
「普通じゃないの?」
「普通の人は、四台分の荷馬車の音を一台ずつ聞き分けて、その違いまで覚えたりしないわよ」
「でも、聞いてれば違うの分かるよ」
「あなたの場合、その『聞いてれば』の範囲がおかしいの」
フィーナは呆れたように言ったが、エリオにはいまひとつ実感がなかった。
前の世界にいた頃から、似たようなことはしていた。
雨の音一つでも、屋根に当たるものと道路を叩くものではまるで違うし、同じ踏切でも場所によって警報音の響き方が変わる。電車の走行音も、線路や車両、録音する位置によって聞こえ方が違った。そんな差を見つけること自体が好きで、わざわざ録音しては家へ持ち帰り、何度も聞き比べていた。
《残響記録》を持った今は、その頃なら何度も再生して確かめていた差を、一度聞いただけで残せるようになっただけとも言える。
もっとも、その「だけ」が普通ではないのだろう。
以前のエリオなら、そんなことを考えたあとで、自分の恩恵がどれほど特殊なのかを気にしていたかもしれない。しかし今は、その違いをあまり悪いものとして捉えなくなっていた。
他の人間と同じように聞こえなくてもいい。
自分にしか聞き取れないものがあるなら、それを使えばいい。
少なくとも、今一緒にいる四人はそう考えている。
◇
午前中の街道は穏やかだった。
森は昨日より少しずつ薄くなり、道の両側に生えていた木々の間隔も広がっている。ところどころから朝の光が差し込み、見通しのいい場所ではかなり先まで街道を確認できた。
それでも、全員が警戒を解くことはなかった。
シリルは隊列より少し前へ出て、道の状態や人の痕跡を目で確認する。フィーナは中央の荷馬車付近を歩きながら、前後の状況を見ている。バルガスは最後尾を守り、セドリックは先頭で全体の速度を調整する。
その中でエリオは、周囲にいるものを耳で探していた。
誰かが毎回指示を出すわけではない。
シリルが前方へ出れば、エリオはその間少し広い範囲を聞く。街道が曲がって視界が悪くなれば、前方へ意識を集中する。逆に開けた場所では、荷馬車の後方や林の中にいるものを確かめる。
いつの間にか、そうやって役割を補い合うことが自然になっていた。
「前から馬車が来る」
車輪の音を拾ったエリオが声をかけると、セドリックは歩調を変えずに尋ねた。
「何台?」
「一台。馬は二頭。こっちより速い」
「距離は?」
「まだ遠い。たぶん五分くらい」
「分かった」
それだけ聞くと、セドリックは後方へ合図を送り、商隊を街道の左側へ少し寄せた。
エリオはそのやり取りをしながら、自分が詳しい説明をほとんどしていないことに気づいた。
車輪の回転数がどうだったとか、馬の蹄が何頭分だったとか、なぜ一台だと思ったのかといった根拠を、以前ならもっと細かく説明していたはずだ。
今は必要ない。
セドリックが知りたいのは、前から何が来るか、どの程度で接触するかという情報であり、それを伝えれば十分だということをエリオ自身も理解している。
しばらくして、街道の先から一台の荷馬車が姿を見せた。
向こうの御者もこちらの商隊に気づき、速度を落としている。道幅は馬車一台なら余裕があるものの、四台の商隊と安全にすれ違うには少し狭い場所だったため、互いに端へ寄れば問題なく通れるはずだった。
そのまますれ違って終わる。
エリオも最初はそう思っていた。
だが距離が縮まり、向こうの荷馬車の音がはっきりしてくるにつれて、他とは違う一つの音が耳に引っかかった。
車輪が回るたびに、ごく小さな金属音が混じっている。
カッ、と一度。
少し間が空く。
もう一度、同じ音。
不規則に荷物がぶつかっている音ではない。車輪の回転とほぼ同じ周期で鳴っているため、同じ場所が一周するたびに何かへ触れている可能性が高かった。
「待って」
エリオが言うと、セドリックはすぐにこちらを見る。
「何かある?」
「向こうの馬車。車輪の音がおかしい」
「どこが?」
「右側。たぶん前輪」
エリオは近づいてくる荷馬車の音へさらに意識を向けた。
木そのものの軋みなら、地面の凹凸に合わせて音の強さが変わるはずだ。しかし今聞こえている音は、道の状態に関係なく一定の周期で続いている。
以前、ミラたちと行動していた頃にも、似た音を聞いたことがあった。
車軸か、その近くの金具。
完全に外れてはいないとしても、このまま走り続けるのは危険かもしれない。
「止めた方がいいと思う」
エリオがそう判断すると、セドリックは理由を細かく聞き返すことなく街道の中央へ出て手を上げた。
向こうの御者は突然止められたことに驚いたようだったが、すぐに手綱を引いた。
「何だ?」
荷馬車が近くで止まり、中年の御者が怪訝そうにセドリックを見る。
「すみません。こちらの仲間が、車輪から異常な音が出ていると言っています」
「異常な音?」
御者は振り返って自分の荷馬車を見た。
「今朝からずっと走ってきたが、特に何もなかったぞ」
「走れてはいます。でも、右の前から金属音がします」
エリオが答えると、御者は今度はこちらを見た。
「聞こえるのか?」
「止まってると分からないです。少しだけ動かしてもらえますか?」
「少し?」
「ゆっくりでいいです」
御者は半信半疑の顔をしていたが、セドリックたちが冒険者であることもあってか、言われたとおり馬を数歩だけ進ませた。
車輪が一度回る。
何もない。
二度目。
まだ鳴らない。
三度目の途中で、エリオが聞いていたものと同じ乾いた金属音がした。
「今です」
御者が馬を止める。
シリルがすぐにしゃがみ込み、右前輪の車軸周辺を確認した。
「……あった」
「何が?」
「留め金。少し浮いてる」
指された場所を見れば、金属製の留め具が本来収まる位置からわずかにずれていた。
見ただけでは、すぐに外れそうなほど危険には見えない。それでも車輪が回るたびに金具へ負荷がかかっているらしく、同じ状態で長時間走り続ければ、緩みがさらに大きくなる可能性はあった。
御者の表情が変わった。
「昨日、車輪を交換したばかりなんだ」
「じゃあ締めが甘かったのかもな」
シリルは留め具を触って確認したあと、御者へ尋ねる。
「工具ある?」
「ああ。ある」
荷台から道具を取り出すと、バルガスが車体を支え、シリルが留め具を締め直した。大がかりな修理ではなく、作業そのものは数分で終わった。
その間、エリオは横で見ているだけだったが、昨日の岩猪のときとはまた別の意味で、《残響記録》が役に立ったことを感じていた。
危険な魔物を見つけたわけでも、古い装置を動かしたわけでもない。
ただ、他の音に混ざった小さな違和感を拾っただけだ。
それでも、そのまま走って車輪が外れていたら、御者や馬が怪我をしていたかもしれない。
「これで大丈夫だと思う。ただ、町に着いたら一度ちゃんと見てもらった方がいい」
シリルがそう言うと、御者は何度も頷いた。
「助かった。本当に聞こえたのか?」
「回るたびに一回、同じ金属音がしてたので」
「俺には全然分からなかったぞ」
「荷馬車自体がうるさいから、普通は分かりにくいと思います」
エリオがそう答えると、御者は改めて感心したように彼を見た。
「変わった恩恵だな」
「よく言われます」
思わずそう返すと、横にいたシリルが小さく笑った。
以前なら、この言葉のあとに続くものを身構えていた。
変わっている。
珍しい。
それで何ができる。
戦えないなら意味がない。
そんな評価へ繋がることの方が多かったからだ。
だが今は、「変わった」という言葉を聞いても、以前ほど引っかからない。
変わっていてもいい。
その力でできることを、自分自身がすでに知っている。
◇
昼を過ぎる頃には、目的地の町が街道の先に見えるようになった。
遠くに低い城壁と石造りの門があり、その向こうには屋根が連なっている。商隊の人間たちも目的地が見えたことで安心したらしく、昨日から張り詰めていた雰囲気が目に見えて和らいでいた。
「もう少しですね」
エリオが言うと、セドリックも町の方を見ながら頷いた。
「ああ。ここまで来れば大きな問題はないだろう」
「それ言って何か出てきたらどうする?」
シリルが後ろから口を挟む。
「そのときはお前が全部倒せ」
「何で俺なんだよ」
「自分で言い出したからだ」
セドリックが平然と答え、フィーナが笑う。
エリオもつられて笑った。
昨日までなら、目的地が見えても最後まで気を抜かないように意識していただろう。もちろん今も警戒をやめたわけではない。それでも、こうして仲間同士で軽口を交わしながら歩ける程度には余裕がある。
結局、その後は本当に何も起こらなかった。
町の門を抜けると、商隊はそのまま商会の倉庫へ向かった。四台の荷馬車を指定された場所へ止め、積み荷の数と状態を確認し、馬にも怪我がないことを確かめる。
昨日岩猪と接触しかけたにもかかわらず、荷物には一つも被害がなかった。
商会の代表であるグレンは、倉庫前で依頼完了の書類へ署名したあと、セドリックへそれを渡し、そのままエリオの方へ歩いてきた。
「昨日も今日も助かった」
「僕は聞いてただけですけど」
反射的にそう答えると、グレンはすぐに首を振った。
「それで助かったんだよ。昨日は岩猪が姿を見せる前に分かったし、今日はあの馬車まで止めた。護衛っていうのは、剣を振って敵を倒すだけじゃないんだな」
昨日も似たようなことを言われた。
だが今回は、エリオもすぐに自分の役割を小さく言い直そうとはしなかった。
「そうみたいです」
自分で口にしてから、それが以前よりずっと自然に言えたことに気づく。
グレンは満足そうに頷いた。
「またこの道を使うことがあれば、同じ面子に頼みたいくらいだ」
同じ面子。
その中に自分も含まれている。
そう理解するまでに、今はもう時間がかからなかった。
「依頼が合えば」
「そのときはよろしく頼む」
グレンと別れたあと、一行は町の冒険者ギルドへ向かった。
依頼完了の書類を提出し、商会側から問題がなかったことを確認してもらう。報酬の受け取りまで終わると、今回の護衛依頼は正式に完了となった。
それほど長い仕事ではなかった。
魔物との大きな戦闘もない。
古代神殿のような発見も、監視塔のような謎もない。
それでもエリオにとっては、この二日間が妙に印象へ残っていた。
何か特別なものを見つけたからではない。
むしろ、何も特別ではない依頼だったからこそ、自分がこのパーティの中でどう動いているのかがよく分かった。
◇
ギルドを出ると、セドリックは宿へ向かう前に全員を振り返った。
「明日は王都へ戻るぞ」
「もう?」
エリオが聞く。
「予定どおりだ。教会の記録も調べたいんだろ?」
「調べたいです」
「だったら王都へ戻った方が早い。こっちでできることはもうない」
フィーナも頷いた。
「私も神殿で見た術式について確認したいものがあるし、王都なら魔術院の資料も使えるかもしれない」
「俺は?」
シリルが尋ねる。
「何が?」
「俺だけ調べ物ないんだけど」
「付き合えばいいでしょ」
「ひどくない?」
「暇なら手伝って」
「もっとひどくなった」
二人が言い合いながら歩き始め、バルガスも何も言わずその後へ続く。セドリックはいつものように苦笑しながら、少し遅れてその後を追った。
エリオは数歩だけその場に残り、四人の背中を見た。
神殿へ向かったときのことを思い出す。
あの頃の自分は、まだこの四人に一週間だけ同行する冒険者だった。
珍しい恩恵を持っているから。
普通の人間には聞き取れない音を聞けるから。
古代神殿の調査に使えるかもしれないから。
理由はそれだけだった。
自分自身も、そう思っていた。
だから何かを聞くたびに、それが役に立つことを証明しなければならないような気がしていたし、自分の判断が間違えば「やはり外れスキルだった」と思われるのではないかと、どこかで警戒していた。
それからいくつもの場所へ行った。
古代神殿では、誰にも読めなかった音を聞いた。
監視塔では、記録に残されていなかった信号を見つけた。
今回の護衛では、林の中にいる魔物を知らせ、仲間たちがそれを前提に動いた。故障しかけていた馬車の小さな異音も拾った。
その一つ一つで《残響記録》そのものが変化したわけではない。
能力は最初から同じだった。
一度聞いた音を忘れず、必要ならそのまま再生できる。
変わったのは、それを使うエリオ自身と、その力を受け取る周囲の方だった。
セドリックは、エリオが「分からない」と言ったときには無理に答えを求めず、「聞こえた」と言えばその情報を判断材料として扱う。
シリルは、エリオが数と方向を伝えることで、自分が確認する範囲を絞れるようになった。
フィーナは、聞こえた音を魔術的な現象と照らし合わせる。
バルガスは多くを言わないが、エリオの情報を受ければ必要な位置へ迷わず盾を運ぶ。
そしてエリオ自身も、彼らがどう使うかまで考えながら情報を渡せるようになってきた。
誰か一人だけで完結していない。
五人で一つの判断を作っている。
「エリオ」
少し先から名前を呼ばれ、エリオは顔を上げた。
セドリックたちが立ち止まっている。
「何してる?」
「何も」
「何もしてないなら来い。置いてくぞ」
「今行きます」
エリオは小走りで追いついた。
そのまま五人で町の中を歩く。
誰が先頭になるかは、そのときによって変わる。セドリックが宿を探して前へ出ることもあれば、シリルが店を見つけて勝手に方向を変えることもある。フィーナが資料の話を始めれば、いつの間にか全員がその話を聞いている。
それでも、誰か一人が遅れれば自然と歩調が落ちる。
エリオが追いつくまで待っていたことを、誰も特別なことだとは思っていない。
「王都に戻ったら、まず教会ですか?」
エリオが尋ねると、セドリックはすぐに首を振った。
「いや、まず依頼の報告。それが終わったら休め」
「でも、教会の記録は早く見たいです」
「一日遅れて消える資料じゃないだろ」
「たぶん」
「お前、昨日も今日もずっと周りの音を拾ってたんだから、少し耳を休ませろ」
「耳は寝てても使うものですよ」
「そういう意味じゃない」
今度はフィーナが笑った。
「本当に休むの下手ね」
「普通だと思うけど」
「普通の人は寝てる間まで音を記録しないわよ」
「それは僕が決めてるわけじゃないし」
言い返すと、シリルまで笑い出した。
そんなやり取りをしながら歩いているうちに、エリオは先ほどまで考えていたことが少しだけ馬鹿らしくなった。
ここにいていいのか。
自分が役に立っているのか。
そんなことを、毎回確かめる必要はもうないのかもしれない。
勇者候補のパーティへ入ったからといって、エリオ自身が急に強くなったわけではない。剣の腕が上がったわけでも、使えなかった魔法を突然使えるようになったわけでもなく、《残響記録》も相変わらず、一度聞いた音を覚えて再生するだけの恩恵のままだ。
それでも、その変わらない力を必要としてくれる人間がいる。
エリオが何かを聞けば、それを前提に次の行動を考えてくれる仲間がいる。
そして自分もまた、四人が何をできるのかを知り、誰にどの情報を渡せば動きやすいのかを考えるようになっている。
最初は、自分だけがこの四人の後ろを追っているような気がしていた。
今は違う。
五人で進んでいる。
外れと呼ばれた恩恵を持っていることも、戦える力が少ないことも変わっていない。
それでも、そのままの自分で役割を持てる場所がある。
エリオはようやく、自分で選んだこのパーティを、誰かに認めてもらうための場所ではなく、自分自身が帰ってこられる場所の一つだと思えるようになっていた。




