五人で動く
岩猪の巨体が大きく傾いた。
右へ進路を変えようとした瞬間、傷めていた前脚が地面を捉えきれず、勢いを残したまま肩から街道脇へ滑り込む。土と枯れ葉が巻き上がり、近くにいた馬たちが驚いて嘶いたが、御者たちはすぐに手綱を引き締め、荷馬車をその場から動かさなかった。
完全に倒れたわけではない。
岩猪は低い唸り声を上げながら、すぐに身体を起こそうとしていた。
「バルガス、正面を塞げ!」
セドリックの声に、バルガスが大盾を構えたまま一歩前へ出る。
岩猪が立ち上がるより早く、シリルが側面へ回り込み、フィーナも杖を向けた。ただし、すぐに強い魔術を撃つことはしない。荷馬車がすぐ近くにある以上、爆発や火炎を使えば、魔物を倒せても護衛対象へ被害を出す可能性がある。
エリオも岩猪から目を離さず、耳だけでなく動きそのものを追った。
荒い呼吸。
地面を掻く前脚。
そして、立ち上がろうとするたびに右側へ一瞬だけ体重が逃げる。
怪我をしているのは間違いない。
だが、それだけで安心できるほど弱ってはいなかった。
「まだ走れます!」
エリオが声を上げる。
セドリックは岩猪から視線を外さずに答えた。
「分かってる。荷馬車へ向かわせるな」
岩猪が身体を起こした。
先ほどの転倒でさらに興奮したのか、鼻息は荒く、牙の先が何度も上下する。逃げる様子はなく、目の前に立つバルガスを敵と認識したらしい。
次の瞬間、岩猪は再び地面を蹴った。
今度は最初から距離が近い。
バルガスは盾を正面へ構えたまま、突進を真正面から受けるのではなく、わずかに角度をつけていた。
岩猪の牙が盾へ当たる。
重い衝撃音が街道へ響き、バルガスの身体が半歩だけ後ろへ押された。それでも盾は倒れず、岩猪の頭が横へ流れる。
「シリル!」
「分かってる!」
できた隙へシリルが入り込み、短剣で岩猪の後脚付近を浅く切りつける。
致命傷を狙った攻撃ではない。
さらに体勢を崩し、荷馬車から意識を逸らすためのものだった。
岩猪が大きく身体を振り、シリルを追おうとする。
その動きの途中で、エリオは一つの違和感に気づいた。
「セドリック!」
「何だ?」
「左は普通に動ける!」
岩猪は右へ曲がるときだけ大きく速度を落とすが、左へ向きを変えるときにはほとんど迷いがない。
単に右前脚を傷めているというだけではない。
戦い方そのものに偏りができている。
「じゃあ左へ回す!」
セドリックは迷わず判断した。
「フィーナ、右を塞いでくれ!」
「任せて!」
フィーナが地面へ杖を向け、小さな土壁を岩猪の右側へ作る。
高さは膝ほどしかない。
それでも、右側へ逃げる道が狭くなれば、岩猪は自然に動きやすい左へ向かう。
予想どおり、魔物は土壁を避けて左へ身体を振った。
その先には荷馬車がない。
空いた街道脇だった。
「今なら離せる!」
エリオが言うと、セドリックは一瞬だけ考えた。
倒すことはできる。
しかし、こちらから深追いする必要はない。
今回の目的は岩猪の討伐ではなく、商隊を無事に届けることだ。
「バルガス、下がれ! 道を開ける!」
バルガスが盾を少しずつ引く。
シリルも距離を取った。
突然目の前が開いたことで、岩猪は一瞬だけ戸惑ったように立ち止まった。
フィーナが土壁をさらに伸ばし、荷馬車側と魔物の間を分ける。
岩猪はしばらくその壁と一行を睨んでいたが、再び突進してくることはなかった。
やがて鼻を鳴らし、ゆっくりと森の方へ向きを変える。
エリオはその足音を追い続けた。
林の奥へ入っていく。
まだ近い。
少しずつ遠ざかる。
そして、やがて音が木々の間へ消えていった。
「……行きました」
エリオがそう言うと、張り詰めていた空気が少しだけ緩んだ。
バルガスは盾を下ろし、フィーナも杖を戻す。
シリルは岩猪が消えた方向を見ながら、大きく息を吐いた。
「結局、倒さなかったな」
「倒す必要がなかったからな」
セドリックは剣を鞘へ戻しながら答えた。
「怪我をした個体を追って森へ入る方が危険だ。それに、もう一頭いる」
「ああ、そうだった」
エリオはその言葉を聞いて、もう一度遠くへ意識を向けた。
最初に聞いたもう一頭の足音は、かなり離れた場所に残っている。
こちらへ近づく様子はない。
「もう一匹は動いてないです。たぶん大丈夫」
「なら出発する」
セドリックがそう言うと、商隊の人々もようやく動き始めた。
荷馬車に異常がないか確認し、馬を落ち着かせる。先ほどの衝撃で積み荷が少しずれたらしく、三台目の御者と警備員が荷台へ上がって固定し直していた。
戦闘そのものは短かった。
けれど、エリオには今までの戦いとは少し違って感じられた。
誰かが倒すために前へ出て、自分は後ろから危険を知らせただけではない。
岩猪の動きの癖を見つけ、それを仲間が使い、全員で進路を作った。
その結果、戦わずに済むところまで持っていけた。
セドリックが言っていた「護衛は何も起こさないのが一番」という言葉が、少しだけ分かった気がした。
◇
再出発してしばらくすると、商隊の先頭を歩いていた中年の商人がエリオの近くへ来た。
今回の依頼主である商会の代表者で、名前はグレンという。
「さっきの魔物なんだが」
「はい」
「姿が見える前から分かっていたのか?」
「足音は聞こえてました」
「どのくらい前から?」
エリオは少し考えた。
「最初にいた場所なら、百メートル近く離れてたと思います。でも木が多かったし、荷馬車も動いてたので正確ではないです」
グレンは驚いた顔をした。
「そんな遠くから?」
「いつも全部聞こえるわけじゃないですよ」
誤解されないように説明する。
「風とか地形で変わります。今日は岩猪が大きかったから、足音も分かりやすかっただけで」
「それでも十分だ」
グレンはそう言ったあと、前を歩くセドリックたちへ目を向けた。
「勇者候補の一行だから、もっと派手に魔物を倒すものだと思っていた」
「僕も最初はそう思ってました」
「違うんだな」
「みたいです」
エリオが答えると、グレンは少し笑った。
「商人からすれば、派手に戦われるより荷物が一つも壊れない方がありがたい」
確かにそうだろう。
討伐数を競う依頼ではない。
岩猪を倒したとしても、その戦闘で荷馬車が壊れたり、馬が怪我をしたりすれば、護衛としては失敗に近い。
「お前さんの耳も、護衛向きだな」
そう言われ、エリオは少しだけ返事に迷った。
以前なら、「耳じゃなくて恩恵です」と訂正していたかもしれない。
だが今は、わざわざ言い直す必要もない気がした。
「役に立ったならよかったです」
そう答えると、グレンは満足したように頷き、先頭の荷馬車へ戻っていった。
その背中を見送っていると、横からシリルが近づいてくる。
「また評価されてるな」
「何が?」
「お前の耳」
「聞こえたから言っただけだけど」
「それで十分なんだよ」
シリルは軽い調子で言った。
「俺が斥候やってても、森の中の全部が見えるわけじゃない。お前が先に音で拾って、俺が確認する。結構やりやすいぞ」
「そうなの?」
「そうなのって、お前今まで気づいてなかったのか」
エリオは考えてみた。
自分の中では、《残響記録》を使って情報を集めることは自然になっていた。
だが、シリルにとってもその情報が役に立っているとは、あまり考えたことがなかった。
「前は、お前が何か聞くたびに俺が確認しに行ってただろ」
「うん」
「最近は、だいたい何がいるか分かってから確認できる。方向も数も聞いてから行けるから、かなり楽だ」
「じゃあ僕、シリルの仕事減らしてる?」
「違う」
シリルは即座に否定した。
「失敗する確率を減らしてる」
その言葉は、エリオの中に少し残った。
誰かの役割を奪うのではない。
その人が仕事をしやすくする。
それもパーティで役に立つということなのかもしれない。
◇
夕方、一行は予定していた野営地へ到着した。
街道から少し外れた場所にあり、旅人が何度も使っているらしく、簡単な焚き火跡と石組みが残っている。近くには小さな水場もあり、荷馬車四台を止めても十分な広さがあった。
商会側が馬の世話をしている間に、セドリックたちは周囲の安全確認を行った。
シリルが目で確認し、エリオが音を聞く。
日中と違って荷馬車が止まっているため、周囲の音はずっと分かりやすかった。
森の奥に小型動物が数匹。
鳥。
水音。
それ以外に大きな足音はない。
「大丈夫そう」
エリオが報告すると、セドリックは野営を決めた。
食事の準備が始まり、暗くなる前に見張りの順番も決める。
「エリオは最初、俺とだ」
セドリックが言った。
「僕も見張りするんですか?」
「何でしないと思った?」
「いや、するけど」
これまで複数人で泊まる依頼はあったが、セドリックたちと正式なパーティになってからの野営はまだそれほど多くない。
「耳がいいから夜中ずっと起きてろとか言わないから安心しろ」
「それは無理です」
「分かってる」
セドリックは笑った。
日が落ちると、一行は焚き火を囲んで簡単な夕食を取った。
商人たちは岩猪の話を何度もしていたが、セドリックたちは特に武勇談として語る様子もない。フィーナは明日の天気を気にし、バルガスは黙々と食事をし、シリルは商会の警備員から別の街道の話を聞いていた。
エリオはその様子を見ながら、少し不思議に思った。
勇者候補のパーティ。
最初にその言葉を聞いたときは、もっと特別な人間たちだと思っていた。
実際、戦えば強い。
セドリックの剣も、フィーナの魔術も、バルガスの防御も、シリルの身のこなしも、自分とは比べものにならないほど経験がある。
それでも彼らがやっていることは、派手な戦いだけではなかった。
危険を避ける。
荷物を守る。
馬を驚かせない。
商人を無事に町へ届ける。
そういう地味な判断の積み重ねで仕事をしている。
自分がここにいることも、少し似ているのかもしれない。
大きな魔法を撃つわけではない。
剣で魔物を倒すわけでもない。
けれど、聞こえたものを伝える。
それによって他の誰かが、少しだけ安全に動ける。
それでいいのだと思えた。
◇
夜。
最初の見張りについたエリオは、焚き火から少し離れた場所でセドリックと並んで座っていた。
商隊の人々はすでに休んでいる。
仲間たちも、それぞれ毛布に包まれて眠っていた。
昼間とは違い、夜の森には静かな音が多い。
虫の声。
水の流れ。
ときどき風が枝を揺らす。
その中に異常がないかを確認しながら、エリオはぼんやり前を見ていた。
「疲れたか?」
セドリックが小さな声で尋ねる。
「少し」
「今日はずっと聞いてたからな」
「でも、前より楽です」
「何が?」
エリオはすぐには答えなかった。
何が変わったのか、自分でもまだうまく言葉にできない。
「最初は、聞こえたことを説明しないといけないと思ってたんです」
「説明?」
「何でそう思ったかとか。本当に聞こえたのかとか。間違ってないかとか」
セドリックは黙って聞いていた。
「でも最近は、方向とか距離だけ言えばみんな動くでしょう」
「ああ」
「それが楽なのかもしれない」
言葉にしてみると、自分でも納得できた。
信じてもらえるから楽なのではない。
自分の情報が、パーティの判断材料として普通に扱われている。
そのことが楽だった。
セドリックはしばらく何も言わなかったが、やがて静かに口を開いた。
「俺たちも慣れたんだよ」
「僕に?」
「お前が聞くことに」
エリオはセドリックを見る。
「最初は、どこまで正確なのか分からなかった。神殿でもそうだった。でも一緒に動いて、お前がどういうときに確信を持って、どういうときに『分からない』と言うのかも分かってきた」
「……そんなところ見てたんですか?」
「リーダーだからな」
セドリックは当然のように答えた。
「お前、分からないときはちゃんと分からないって言うだろ」
「言いますけど」
「だから、確かだと言ったときは信用できる」
エリオは少し黙った。
能力そのものを信用されているのだと思っていた。
だが、どうやらそれだけではなかったらしい。
《残響記録》が正確だからではない。
それを使っているエリオ自身の判断も含めて信頼されている。
「それに」
セドリックが続ける。
「俺たちは五人で動いてるんだから、それぞれ全部できる必要はない」
その言葉を聞いて、エリオは少し笑った。
「五人って普通に言いましたね」
「何が?」
「いや」
セドリックは本当に気づいていないらしい。
以前なら、セドリック、フィーナ、バルガス、シリル。
そこへエリオが加わる、という感覚がどこかにあった。
だが今、セドリックは何の迷いもなく「五人」と言った。
たったそれだけのことだった。
それでもエリオには、その言葉が妙に嬉しかった。
「何笑ってるんだ?」
「別に」
「変な奴だな」
セドリックがそう言って、再び森へ視線を戻す。
エリオも前を向いた。
夜の森から聞こえる音は、いつもと変わらない。
それでも今夜は、その中で自分の居場所だけが、少し前よりはっきりした気がした。




