聞く役
二日後の朝、エリオたちは街の南門近くにある荷馬車の集積所へ向かった。
今回の依頼は、街道を通って南東の町まで向かう商隊の護衛だった。荷馬車は全部で四台あり、一台目には布や染料、二台目には保存食と酒樽、三台目には農具や金属製品、最後の一台には依頼主である商会の帳簿や高価な小物類が積まれているらしい。
距離そのものはそれほど長くない。順調に進めば二日で到着できる予定で、途中で一度だけ野営し、翌日の午後には目的地へ着ける見込みだった。
依頼書だけを見れば、難しい仕事には思えなかった。
ただし、最近になって街道沿いで小型の魔物が増えているという報告があり、それが今回護衛を付けることになった一番の理由だった。
「討伐依頼じゃないんですよね?」
商隊が出発の準備を進めている様子を眺めながらエリオが尋ねると、セドリックは荷馬車の列を確認しつつ頷いた。
「目的は荷物と商人を無事に届けることだ。魔物が出ても、倒す必要がなければ避ける」
「いつもと違う」
「何が?」
「見つけたら倒すんじゃなくて、見つけたら避けることもある」
エリオがそう言うと、セドリックは少し笑った。
「冒険者の仕事は戦うことだけじゃない。護衛なら、何も起こさず目的地まで着く方がいい場合も多い」
その言葉を聞きながら、エリオは四台の荷馬車と周囲にいる人間の配置を改めて確認した。
護衛にはセドリックたち五人のほか、商会側から二人の警備員が同行する。どちらも戦闘経験のある男だったが、冒険者ではない。基本的には荷馬車の近くを守り、街道の外側や前方の警戒はセドリックたちが担当することになっている。
「隊列は?」
シリルが尋ねると、セドリックはほとんど迷わず答えた。
「俺とエリオが前。フィーナは中央。バルガスは最後尾。シリルは前後を動いてくれ」
「俺が固定じゃないの珍しいな」
「護衛対象が長いからな」
エリオは、自分が前方担当に入っていることに少し驚いた。
「僕、前でいいんですか?」
「むしろ前がいい」
「音を聞くから?」
「ああ。何かいるなら、荷馬車が近づく前に分かった方がいい」
セドリックは当然のようにそう答えた。
エリオはその言い方を聞いて、以前とは少し違うものを感じた。最初の頃なら、自分がどこまで聞き取れるのか、どんな条件では精度が落ちるのかを先に説明していたかもしれない。距離や風向き、地形、周囲の騒音によって聞き取れる範囲が変わることは今も同じだ。
それでもセドリックたちは、その前提ごと理解した上で役割を任せている。
「分かりました」
だからエリオも、それ以上の説明はせずに頷いた。
◇
街を出てしばらくのあいだ、街道は穏やかだった。
平坦な道が農地の間を続き、ところどころに小さな林がある。朝の空気はまだ涼しく、商隊の進みも順調だった。
ただ、エリオにとっては普段の移動よりかなり騒がしい。
荷馬車の車輪が土を踏む音。
馬の蹄。
御者の掛け声。
積み荷が揺れるたびに鳴る木箱や金具の音。
四台分が重なっているため、最初の一時間ほどはその騒音の中から必要な音だけを拾うことに集中していた。
森で魔物を探すときとは違う。
荷馬車のような大きな音が常に近くで続いていると、小さな物音は簡単に埋もれてしまう。
それでも聞き続けているうちに、少しずつ区別できるようになってきた。
「どう?」
隣を歩いていたセドリックが尋ねる。
「最初より慣れた」
「何に?」
「荷馬車の音」
エリオは一台目の車輪へ意識を向けながら答えた。
「四台とも音が違うんです」
「車輪?」
「それもあるし、積んでる物も違うから」
一台目は布が多いため、中の荷物がほとんど鳴らない。二台目は酒樽がわずかに揺れ、一定の周期で低い音が出る。三台目は金属製品が多く、道の凹凸を通るたびに細かな音が重なる。四台目は荷が少ない分、木箱そのものの振動がよく響いていた。
それぞれの特徴を覚えてしまえば、かえって異常な音だけを見つけやすくなる。
「じゃあ、それを全部覚えてるのか」
「だいたい」
「便利だな」
「最近それ、みんな言いますね」
「便利なものは便利だからな」
セドリックはあっさり答えた。
以前なら、《残響記録》を便利だと言われることに少し複雑な気持ちがあった。役に立たないと言われ続けてきた能力だからこそ、単純に評価されることに慣れていなかったのだと思う。
今は、そこまで気にならない。
便利なら便利でいい。
それをどう使うかは自分で決めればいい。
そんなふうに考えられるようになっていた。
昼前。
街道が少し細くなり、片側の林が道へ近づいてきたところで、エリオはわずかに歩調を落とした。
「セドリック」
「何か聞こえた?」
説明する前にそう聞かれたことに、エリオは一瞬だけ驚いた。
だがすぐに、右側の林へ意識を向けながら答える。
「小さいのが何匹かいる」
「距離は?」
「まだ遠い。たぶん五十メートル以上」
「数は?」
エリオは荷馬車の音を意識から外し、林の中だけを拾った。
葉が擦れる音。
細い枝を踏む音。
軽い足取り。
一匹ではない。
「四……いや、五」
「種類は?」
「分からない。足が軽い」
セドリックはそれだけ聞くと、後方へ手を上げた。少し離れていたシリルがすぐに意図を察し、前方へ寄ってくる。
「右の林、五匹。まだ距離あり」
「確認してくる」
シリルは街道を外れ、林の手前まで静かに移動した。
その間も商隊を完全には止めず、進む速度だけを少し落とす。相手がこちらへ向かっていると決まったわけではない以上、むやみに騒がせる必要はなかった。
数分後、戻ってきたシリルが低い声で報告する。
「灰尾狐。五匹で合ってる」
「近づいてるか?」
「いや。こっちを気にしてるだけだな」
灰尾狐は小型の魔物で、積極的に人間を襲うことは少ない。ただ、荷馬車に食料の匂いがあると後を追ってくる場合がある。
「このまま進む」
セドリックがそう決めると、フィーナに二台目の荷馬車周辺へ匂い消しの魔術を使うよう頼んだ。
結果として、魔物と戦うことなく一行はその場を離れた。
エリオはしばらく後方の音も確認していたが、灰尾狐たちは一定以上近づいてくることなく、やがて足音も遠ざかっていった。
「終わり?」
「ああ」
「戦わないんだ」
「言っただろ」
セドリックは少し笑った。
「護衛は何も起こさないのが一番だ」
エリオはその言葉を覚えておこうと思った。
◇
午後になると、街道は森の中へ入った。
木々が近くなったことで、今度は周囲の音そのものが一気に増える。
鳥の声。
虫。
枝。
風。
小型動物が草の間を動く音。
そこへ四台分の荷馬車の音が重なり、朝よりさらに複雑になっていた。
エリオは常にすべてを聞こうとはせず、歩きながら意識する方向を順番に変えていた。
右。
左。
前方。
後方。
必要な場所だけを確認する。
そうしなければ、いくら《残響記録》が音を残せるとしても、本人の集中力の方が先に尽きる。
「前、何かいる?」
少し後ろを歩いていたフィーナが尋ねた。
「今のところ何も」
「じゃあ、この辺で一度休憩できそうね」
商隊は街道脇の少し広くなった場所で止まり、馬へ水を与え、人間も簡単な食事を取ることになった。
エリオも木の根元へ腰を下ろした。
まだ半日しか歩いていないが、普段より疲労が強い。
「やっぱり疲れる?」
フィーナが隣へ来た。
「ちょっと」
「音が多いから?」
「たぶん」
エリオは水を飲みながら答える。
「森だけなら、必要ない音はだいたい分かる。でも荷馬車がずっと鳴ってるから、その下を聞く感じになる」
「意識して消してるの?」
「消してるというより、聞かないようにする」
「それって結構すごいことしてない?」
「普通の人もやってると思うけど」
騒がしい場所でも会話はできるし、雑踏の中で自分の名前を呼ばれれば気づくこともある。人間はもともと、ある程度必要な音を選んで聞いている。
エリオの場合、それを少し細かくやっているだけだ。
「でも、全部記録には残るんでしょう?」
「残る」
「頭の中どうなってるのよ」
「僕にも分からない」
フィーナは少し呆れた顔をしたあと、何かを思い出したように話題を変えた。
「そういえば、教会の記録を調べる話」
「《残響記録》の?」
「王都に戻ったら、セドリックが話を通してくれるって」
「本当?」
「たぶん閲覧できる範囲だけだけどね」
神殿以来、ずっと気になっていたことだった。
なぜ、ほとんど知られていない恩恵なのに《残響記録》という名前が最初から存在したのか。
鑑定術式は、どこからその名前を知っていたのか。
そこを調べれば、古代神殿との関係にも何か手がかりが見つかるかもしれない。
「王都、いつ戻るんですか?」
「この依頼が終わったら一度戻る予定よ」
「じゃあすぐ?」
「数日後には」
エリオは少し楽しみになった。
そのとき、遠くで枝が折れた。
ごく小さな音だったが、エリオの意識はすぐにそちらへ向いた。さきほどまで聞こえていた小動物の足音とは違う。地面へかかる重さが大きく、一歩ごとの間隔も長い。
会話を止めたエリオを見て、フィーナもすぐに表情を変えた。
「何か聞こえた?」
「左の奥」
エリオは立ち上がり、さらに耳を澄ませた。
一度目の枝。
少し間。
土を踏む重い音。
そして、もう一つ別の足取りが重なっている。
「大きい」
「魔物?」
「たぶん。二匹いる」
フィーナはすぐにセドリックを呼んだ。
エリオは音がしている方向へ意識を集中し続ける。
一匹目の歩き方は比較的安定していた。
だが二匹目には、片側だけ地面を擦るような音が混じっている。左右で足の着き方が違う。
「一匹、足がおかしい」
「怪我?」
「分からない。でも左右で音が違う」
シリルが確認へ向かった。
今度は先ほどより時間がかかった。
戻ってきた彼の表情は、灰尾狐のときとは明らかに違っていた。
「岩猪が二頭」
セドリックの顔が引き締まる。
「距離は?」
「百メートル弱。街道からは外れてる」
「怪我してる個体は?」
「片方が前脚を傷めてる。血の跡がある」
岩猪は灰尾狐とは比べものにならない。
体長は大型の牛ほどあり、興奮すると人間や荷馬車へ一直線に突進してくる。特に怪我をした個体は警戒心が強く、刺激しなくても暴れる場合がある。
「休憩終了」
セドリックは即座に判断した。
商人たちへ状況を簡潔に伝え、荷馬車を動かす。
戦う必要はない。
相手がこちらを狙っていないうちに距離を取る方が安全だった。
一行はそれまでより少し速度を上げて街道を進んだ。
エリオは歩きながら、後方の音を継続して追った。
岩猪たちの足音は、しばらく同じ場所に留まっていた。こちらを追っている様子はなく、このままなら接触せずに離れられるはずだった。
十分ほど経った頃。
その音が変わった。
「止まって」
エリオが声を出すと、セドリックはすぐに足を止めた。
「どうした?」
「一匹、走り始めた」
「こっちへ?」
エリオはさらに集中する。
連続する重い足音が、枝を折りながら方向を変えている。最初は街道と並行するように進んでいたが、少しずつこちらへ角度がついてきていた。
「……こっち」
その一言で、全員の空気が変わった。
セドリックはすぐに隊列を組み替える。
「バルガス、最後尾。フィーナ、荷馬車の左側。シリルは位置確認。エリオは音を追え」
誰も「本当に来ているのか」と確認しなかった。
エリオがそう言った時点で、全員がもう動いている。
そのことに気づきながらも、今は考えている余裕はなかった。
「距離、七十くらい」
エリオが伝えると、セドリックは剣へ手をかけた。まだ林の中に姿は見えない。それでもエリオの声に迷いがない以上、接近そのものを疑う者はいなかった。
バルガスは荷馬車の左後方へ移動し、いつでも盾を構えられる位置を取る。フィーナも杖を持ったまま、荷馬車と林の間へ入った。
「まだ荷馬車は進ませる」
セドリックの指示で、御者たちは速度を落とさず進み続ける。
エリオは足音の変化を追う。
岩猪は速い。
しかも、傷を負っているにもかかわらず速度がほとんど落ちていない。
「六十」
少しずつ音が大きくなる。
地面を蹴るたびに、細かな枝が折れる。
「五十」
その頃には、林の中から戻ってきたシリルも姿を見せた。
「怪我してる方だ! 完全にこっち見てる!」
セドリックはそこで初めて、荷馬車を止める判断をした。
「荷馬車止めろ!」
御者たちが手綱を引き、四台の荷馬車が順番に速度を落として停止する。
動いている荷馬車を守りながら迎撃するより、位置を固定した方が商人を守りやすい。
バルガスは林に近い側へ大盾を構え、フィーナはその後方で魔術の準備に入る。
セドリックも前へ出た。
「エリオ」
「四十」
「方向だけ言え」
「左。少し前」
エリオは余計な説明をせず、必要な情報だけを伝えた。
次の瞬間、大きな枝が折れる音が響く。
今度はエリオだけではなく、全員にもはっきり聞こえた。
林の奥で木々が揺れ、その間から巨大な影が現れる。
灰色の硬い皮膚。
太い牙。
右前脚には大きな傷があり、すでに乾きかけた血が残っている。
岩猪は林を出たところで一度だけ立ち止まり、荷馬車を見た。
その姿勢を見て、エリオはすぐに次の動きを予測しようと耳を澄ませた。
呼吸が荒い。
前脚の片方をかばっている。
だが逃げる気配はない。
次の瞬間、岩猪は地面を強く蹴り、そのまま荷馬車へ向かって突進した。
「来る!」
エリオが声を上げる。
バルガスは盾を地面へ固定し、フィーナも杖を前へ向ける。セドリックは剣を抜きながら、岩猪の進路と味方の位置を同時に確認していた。
エリオもただ距離を数えているだけではなかった。
走り始めたことで、岩猪の足音は先ほどよりはっきり分かる。
左右の接地。
蹴り出す強さ。
怪我をしている右前脚だけ、地面へ置く時間が短い。
身体を右側へ支える動きが弱い。
「右に曲がりにくい!」
エリオが叫ぶと、セドリックが一瞬だけこちらを見る。
「確かか?」
「右脚をかばってる!」
その情報だけで、セドリックはすぐに意図を理解した。
「バルガス、左へ誘導!」
「分かった!」
バルガスは真正面から受け止めるのではなく、盾の位置をわずかに左へずらした。
同時にフィーナが岩猪の左側へ小さな爆発を起こす。
強い攻撃ではない。
音と光で進路を変えさせるための魔術だった。
驚いた岩猪は反射的に右へ方向を変えようとする。
しかし、右前脚に十分な力をかけられない。
身体だけが先に傾き、踏ん張るはずの脚が滑った。
巨体が大きく体勢を崩す。
「今だ!」
セドリックの声と同時に、シリルが側面へ回り込む。
エリオはその一連の動きを見ながら、遅れて一つのことに気づいた。
自分は今、セドリックから細かな指示を受けて動いていたわけではない。
何を聞くべきかも。
何を伝えるべきかも。
自分で判断していた。
そして仲間たちは、その情報を聞いた瞬間に、自分たちの役割へ変換して動いた。
誰かが「エリオの音を確認しろ」と言ったわけでもない。
誰かが「本当にそうなのか」と疑ったわけでもない。
最初から。
エリオが聞くことも。
その情報を使って全員が動くことも。
すでにこのパーティのやり方の一部になっていた。
その事実に気づいたとき。
エリオは初めて、自分がただ勇者候補のパーティへ同行しているだけではなく、その中で役割を持って動いているのだと実感した。




