音を、次へ渡す
一番目の観測地点で見つかった刻印は、その場ですぐに意味を読み解けるものではなかった。
短い線が一本だけのもの。
短い線が二本並んだもの。
短い線と長い線を組み合わせたもの。
長い線だけのもの。
柱の根元や裏側には、少なくとも十種類以上の組み合わせが残っている。どれも文字ではなく、長さの違う線だけで構成されており、昨夜エリオが聞いた高音の長さと対応しているように見えた。
ただし、それが何を意味していたのかまでは分からない。
「全部写しておこう」
セドリックの指示で、シリルが刻印の位置と並びを記録していく。
フィーナは柱に残る魔力の流れを調べ、エリオは地中から聞こえる短い高音を何度も確認した。昼間は反応が弱く、かなり集中しなければ聞き取れない。それでも一定の間隔で短音が一度だけ鳴っていることは確かだった。
「少なくとも、今ここから送られてるのはこれだけですね」
エリオが言うと、フィーナが振り返った。
「昨日の夜も同じだったのよね?」
「うん。一番目は短いのが一回」
「じゃあ、この刻印のどれかが今の状態を表してる可能性は高そう」
「でも意味が分からない」
「それを調べるための記録が、塔に残ってるといいんだけど」
監視塔で見つかった記録簿には、八つの鐘によって方向を知らせる仕組みは詳しく書かれていた。しかし、短音と長音を組み合わせた信号については一度も触れられていない。
正式な設備ではなかったのか。
あるいは、当時の見張りにとって説明する必要すらないほど一般的な合図だったのか。
その違いは大きい。
エリオは柱に刻まれた線を見ながら、前世で知っていたモールス信号のことを思い出していた。
短い音と長い音を組み合わせて情報を伝える。
考え方そのものはよく似ている。
ただし、昨夜聞いた音を前世の方式に当てはめても意味は通らなかった。世界が違う以上、符号まで同じである方がおかしい。
「これ、昔の軍隊とかで使ってた合図だった可能性は?」
エリオが尋ねる。
セドリックは少し考えてから答えた。
「ある。騎士団にも、鐘や角笛で簡単な命令を送る方法はある。ただ、俺が知っているものとは違う」
「地方ごとに違ったりする?」
「昔ならあり得るな。特にここは王国の中心から離れている」
フィーナも同意する。
「監視塔が作られた時代の資料を調べれば出てくるかもしれないわね。この設備を作った領主か、当時この一帯を管理していた騎士団の記録とか」
「じゃあ、今ここで答えは出ない?」
「たぶんね」
エリオは少し残念に思ったが、以前のように焦りはしなかった。
聞こえた音は残っている。
刻印も写した。
今分からないなら、あとで調べればいい。
それに、もう一か所確認すべき場所がある。
「三番目も、刻印をちゃんと見た方がいいですよね」
「もちろん」
セドリックはすぐに移動を決めた。
◇
三番目の観測地点へ着いたのは、昼を少し過ぎた頃だった。
昨日、高音を最初にはっきり聞き取った場所。
尾根に近いため風が強く、地面には低い草しか生えていない。古い石組みの中央に金属柱が残り、その横に小さな鐘が取り付けられている。
エリオは近づく前から、地中の信号を聞き取ることができた。
短い音が二回。
続いて長い音が一回。
一定の間隔を置き、また同じ並びが繰り返される。
一番目よりも明らかに強い。
「やっぱり昨日と同じです」
「変化なし?」
「ない」
シリルが金属柱の周囲へしゃがみ込み、一番目で刻印が見つかった位置を参考に泥と苔を取り除いていく。
今回は、それほど時間はかからなかった。
「あった」
柱の裏側。
地面すれすれの高さに、三本の線が刻まれている。
短い。
短い。
長い。
聞こえている信号と完全に一致した。
「ここは分かりやすいな」
シリルが言う。
だが、さらに調べると、一番目と同じように別の刻印も見つかった。
短い一本。
長い一本。
短・長。
長・短。
ほかにもいくつかある。
「やっぱり信号の一覧みたいね」
フィーナが記録を見比べた。
「一番目とほぼ同じ組み合わせがある」
「全部同じ?」
「少なくとも今見つけた分は」
それなら、この刻印は各地点固有の印ではない。
信号の意味を忘れないために、見張りが参照できるよう刻んだものだと考える方が自然だった。
「でも」
エリオは柱の刻印を眺めながら言った。
「一覧なら、意味も一緒に書かない?」
「読める人間には必要なかったのかも」
シリルが答える。
「新人が覚えるまで、音の形だけ確認するためとか」
「なるほど」
確かに。
短音と長音の並びさえ分かれば、意味そのものは口頭で教わっていた可能性もある。
前世でも、職場ごとの略語や符号は、外部の人間が見ただけでは意味が分からないことがあった。
その場にいる人間だけが知っていれば、それで十分だったのだ。
「じゃあ、当時ここにいた誰かの記録を探すしかないな」
セドリックが言う。
「塔の記録簿、もう一度全部見ましょう」
フィーナがすぐに答えた。
エリオも賛成した。
◇
監視塔へ戻ると、一行は残されていた紙類をもう一度最初から確認した。
昨日までは、設備の用途を知るために比較的状態の良い記録を中心に読んでいた。今回は目的が違う。
正式な記録簿ではなく。
余白。
個人的なメモ。
紙の裏。
信号を使っていた者なら何気なく書き残していそうな場所まで探す。
最初に見つかったのは、シリルだった。
「これ、違うか?」
彼が持っていたのは、半分ほど破れた薄い紙だった。
もともとは勤務表か何かだったらしく、人名と日付が縦に並んでいる。
その端。
余白に小さな線が書かれていた。
短い線一本。
その横に文字。
「……了解?」
フィーナが読む。
エリオが近づいた。
「短い一回が『了解』?」
「そう見える」
さらにその下。
短い線が二本。
横に、
「確認中」
次。
長い線一本。
「異常あり」
全員の表情が変わった。
「これだ」
エリオは思わず言った。
破れた紙の余白には、全部で六種類の信号と意味が書かれていた。
短音一回。
了解。
短音二回。
確認中。
長音一回。
異常あり。
短・長。
応援要請。
長・短。
撤収。
そして。
短・短・長。
その横だけ。
文字が途中で消えていた。
紙が破れている。
「肝心なところだけないな」
シリルがため息をつく。
「でもかなり進んだ」
エリオは記録を見ながら答えた。
一番目の地点で聞こえている短音一回は「了解」。
それなら、設備の定期試験に対して正常な応答を返しているだけかもしれない。
問題は三番目。
短・短・長。
意味が欠けている。
「ほかの紙にないか探そう」
セドリックが言った。
全員でさらに記録を調べる。
一時間ほど探したところで、今度はフィーナが古い帳面の後半に似た記述を見つけた。
「見て」
そこには、正式な報告とは関係なさそうな短い文章が残っていた。
『第三観測点、再び地下音あり。符号は二短一長。前任者記録と同じ。異常なしとして処理せず、次回巡回時確認のこと』
エリオはその一文を二度読んだ。
「地下音」
「今聞こえてるやつじゃない?」
フィーナも同じところを指した。
「第三観測点って書いてある」
「昔から鳴ってた?」
シリルが言う。
記録の日付を確認する。
監視塔がまだ現役だった頃。
少なくとも八十年以上前。
当時から。
三番目の観測地点では、地下から同じ信号が聞こえていた。
「その下」
セドリックが指す。
続きがある。
『旧坑道由来の可能性。南側入口は崩落済み。立入禁止区域につき領主府へ照会』
「旧坑道」
エリオは声に出した。
フィーナが地図を広げる。
「この辺に鉱山があったって話、聞いた?」
「依頼書にはなかった」
セドリックが答える。
「でも監視塔が百年近く前なら、それ以前に使われてた坑道があってもおかしくない」
「じゃあ三番目の下にあるのは、古代施設じゃなくて昔の鉱山?」
「可能性が一気に高くなったわね」
フィーナは記録の続きを読む。
だが、領主府からどんな返答があったのかは残っていなかった。
別の帳面へ移されたのか。
あるいは、そのまま調査されなかったのか。
ただ。
少なくとも短・短・長という信号は、監視塔が放棄されるより前から存在していた。
「信号の意味は?」
エリオが尋ねる。
「まだ分からない」
フィーナは破れた紙と帳面を並べる。
「でも、この文章を見る限り、普通の『異常あり』とは区別されてる。地下から音がしたときに使ってた符号なのかもしれない」
「地下確認、とか?」
「可能性はある」
セドリックは腕を組んだ。
「少なくとも、誰かが最近追加したものではなさそうだ」
エリオは三番目の観測地点で聞いた音を思い返した。
短い二回。
長い一回。
八十年以上前にも。
同じ場所から。
同じ信号が聞こえていた。
そして、その下には旧坑道がある可能性がある。
これでかなり説明できる。
古代神殿のようなものではない。
おそらく、昔の鉱山設備か何かが今もわずかに動いている。
ただ一つ。
まだ分からないことがある。
「なんで坑道の設備が、監視塔の信号につながってるんだろ」
エリオが言うと、誰もすぐには答えなかった。
大型魔物を監視する設備。
昔の鉱山。
本来なら別の目的を持つ二つのものが、どこかで接続されている。
「監視塔を作るときに、昔の魔導線を再利用したとか?」
シリルが言う。
「それはありそう」
フィーナが頷く。
「一から山中に魔導線を通すより、すでに地下にある設備を利用した方が楽だったかもしれない」
「それなら、坑道側の古い信号まで一緒に残った?」
「考えられる」
ずいぶん現実的な答えだった。
エリオは少し笑った。
「また、普通に説明できそう」
「何でちょっと残念そうなのよ」
フィーナが言う。
「残念じゃないです」
「今ちょっとだけ残念だったでしょう」
「少しだけ」
認めると、シリルが笑った。
だが、エリオは本当に嫌ではなかった。
すべてが古代魔法である必要はない。
昔の人間が設備を作り。
別の時代の人間がそれを再利用し。
さらに何十年も経ったあとまで、一部だけが動き続けている。
それもまた、音に残された歴史だった。
◇
その日の夕方。
セドリックは今回の依頼をここで終了することを決めた。
監視塔の鐘が鳴る理由は判明した。
八か所の観測設備も確認した。
第三観測点の地下に旧坑道らしい設備が存在する可能性については、記録とともに領主側へ報告する。
ここから先は、調査許可と専門の技師が必要になる。
「これ以上は俺たちの仕事じゃない」
セドリックがそう言ったとき、エリオは以前ほど強く続きを追いたいとは思わなかった。
もちろん、気にはなる。
旧坑道の中で何が鳴っているのか。
なぜ八十年以上も信号が残っているのか。
知る機会があるなら聞いてみたい。
だが。
今回は答えがかなり見えている。
分からないものを、分からないまま次へ渡す理由も理解できた。
「報告書には、音も入れられないかな」
エリオが言うと、セドリックが首を傾げた。
「音を?」
「文字だけだと、長さの違いが分かりにくいでしょう。僕が聞いたのと同じ音を、報告するときに再生できます」
フィーナが少し驚いたあと、すぐに頷いた。
「それ、かなり便利ね」
「現地に行かなくても確認できる」
「そういう使い方もできるのか」
セドリックが感心したように言った。
エリオにとっては特別な発想ではなかった。
前世なら、調査した音を録音して人に聞かせるのは当たり前だった。
文章で説明しにくければ、実物を聞いてもらえばいい。
《残響記録》なら。
録音機器すら必要ない。
「じゃあ帰ったら、領主側にも聞かせてもらおう」
セドリックが言った。
その言葉を聞いて、エリオは少しだけ嬉しくなった。
自分が謎を最後まで解く必要はない。
それでも。
自分が聞いた音を、次に調べる人間へ渡すことはできる。
相沢律だった頃。
消えてしまう音を残したくて、自分の小さなサイトへ録音を置いていた。
誰かが使うかもしれない。
誰かが聞くかもしれない。
そう思って。
今やっていることも、それほど違わないのかもしれない。
エリオは監視塔の外へ出て、山の向こうへ耳を向けた。
昼の鐘は鳴らない。
風と。
鳥と。
遠くを流れる沢の音だけがある。
その下では。
まだ、短い二音と長い一音が鳴っているはずだった。
けれど今回は。
その続きを追わない。
聞いた音を残し。
次の人間へ渡す。
それもまた、《残響記録》の使い方なのだと。
エリオは少しずつ分かり始めていた。




