エリオとして、一緒に来てほしい
坑道の入口付近に立ち込めていた土埃が少しずつ薄くなっても、中へ戻ろうとする者はいなかった。
入口から見える範囲だけでも、天井の一部が崩れ、先ほどまで通れていた場所が岩と土砂で塞がれている。完全に坑道全体が潰れたわけではなさそうだが、内部の状態が分からない以上、今ここで再び入るのは危険だった。
フィーナが杖を使って周辺の魔力と地盤の状態を確認し、シリルは救出された二人から坑道内の構造を聞き取っていた。バルガスは念のため入口付近に立ち、さらに崩落が起きた場合に備えている。
エリオは少し離れた場所で、岩盤の音を聞き続けていた。
大きな崩落は止まっている。
ただ、内部ではまだ小さな石が落ちる音が続いていた。奥のどこかで砂が流れ、別の場所では細い亀裂が伸びている。
今すぐ全体が崩れるような気配ではない。
しかし、安全だとも言えない。
「どうだ?」
セドリックが隣へ来た。
「まだ動いてます。大きくはないけど、奥で小さい崩れが何回か続いてる」
「入れる状態じゃないな」
「少なくとも今はやめた方がいいと思います」
以前なら、そう答えたあとに「たぶん」と付けていたかもしれない。
自分の判断に自信がなかったからだ。
だが、さっき聞こえた音は、過去に廃坑で聞いた崩落前の音とよく似ていた。
完全に同じではない。
岩質も坑道の形も違う。
それでも、音の変化が危険な方向へ進んでいることは分かる。
「分かった」
セドリックはそれ以上確認しなかった。
そのままシリルたちの方へ向かい、村へ戻って正式に報告することを決めた。
無許可採掘をしていた男たちは、すでに逃げる気力を失っているようだった。
一人は何度も崩れた坑道を振り返っている。
「昨日までは何ともなかったんだ」
男が小さく言った。
誰に向けた言葉なのか分からなかった。
「支柱だって見た。危ない場所には入ってない」
エリオは男を見る。
「昨日と今日で音が違ったんだと思います」
「音?」
「岩の中で割れる音が増えてた」
「そんなの、俺たちには聞こえなかった」
「かなり小さいから」
男はしばらくエリオを見ていた。
納得したのかどうかは分からない。
ただ、最後には視線を落とした。
「……助かった」
声は小さかった。
エリオは一瞬だけ返事に迷った。
「間に合ってよかったです」
それだけ答えた。
◇
村へ戻った頃には、東の空がわずかに明るくなり始めていた。
夜通し待機していたこともあり、全員かなり疲れていたが、まずは村長へ状況を説明する必要があった。
幽霊の荷馬車だと思われていた音は、現代の魔道具である音石を使って作られたものだったこと。
旧道へ人を近づけないための偽装だったこと。
その目的が、閉鎖された旧坑道での無許可採掘だったこと。
そして坑道内部で崩落が発生したこと。
村長は最初から最後まで、ほとんど口を挟まずに聞いていた。
「では……幽霊ではなかった、と」
「少なくとも荷馬車の音については」
セドリックが答える。
村長は長く息を吐いた。
「それだけでも、村の者は安心するでしょう」
この一か月、村人たちは夜になると旧道を避け、家の外へ出ることさえ恐れていたらしい。
実際には怪異ではなかった。
ただし、だからといって問題が小さいわけでもない。
「採掘については、ギルドと領主側へ報告します」
「お願いします」
「旧坑道には近づかないよう、村の方にも伝えてください。崩落は一部で止まっていますが、内部の安全は確認できていません」
その説明を聞きながら、エリオは村長の家の外から聞こえてくる声に気づいた。
村人が何人か集まり始めている。
夜中に冒険者たちが村を出ていき、朝になって知らない男たちを連れて戻ってきたのだから、気になるのも当然だろう。
しばらくすると、昨夜話を聞いた老女もやってきた。
「歌は?」
彼女は開口一番、それを尋ねた。
エリオが答える。
「人が歌ってました」
「人?」
「荷馬車の音を本物っぽくするために」
老女は目を丸くした。
「じゃあ、あれも幽霊じゃなかったのね」
「はい」
「そう……」
少し残念そうにも聞こえた。
エリオは思わず笑いそうになる。
「怖かったんじゃないんですか?」
「怖かったわよ。でも、正体が分かると少し拍子抜けするものね」
フィーナが隣で小さく笑った。
「そういうものなんですね」
「分からないものが一番怖いのよ」
老女はそう答えた。
エリオはその言葉を聞きながら、古代神殿のことを思い出した。
分からない音。
意味の分からない少女の声。
どこから来るのか分からない「七つ」という言葉。
確かに、正体が分からないからこそ怖い。
ただ、自分の場合は。
怖いと同時に、知りたくなる。
そこが少し違うのかもしれない。
◇
正式な報告と拘束した男たちの引き渡しについては、最寄りのギルド支部から人員が来ることになった。
その日の昼過ぎまでは村で待機する必要がある。
ほとんど眠っていない一行は、村長が用意してくれた宿で休むことになった。
エリオも横になったが、すぐには眠れなかった。
静かな部屋だった。
窓の外から鶏の鳴き声が聞こえる。
少し離れた場所では誰かが薪を割っている。
村の中央を流れる川。
普段なら、気になる音を一つずつ聞き分けてしまう。
今日は耳を休めた方がいい。
そう思って目を閉じた。
それでも、頭の中には昨夜から今朝にかけて聞いた音が残っている。
繰り返される偽物の荷馬車。
生きた女の声。
坑道で石を叩く音。
亀裂。
崩落。
どれも《残響記録》の中に保存されている。
古代神殿で聞いた音と比べれば、ずっと単純だった。
だが今回の依頼で、一つだけはっきりしたことがある。
音が残っているからといって、それが真実とは限らない。
音石に保存されていた荷馬車は、本物の音だった。
実際の馬。
実際の車輪。
実際の荷台。
だが、それを別の場所で繰り返し鳴らせば、存在しない荷馬車を作ることができる。
《残響記録》も同じだ。
自分が保存した音を再生すれば、それを聞いた者には本物と区別できないかもしれない。
今まで、それを深く考えたことはなかった。
エリオは天井を見上げた。
音は嘘をつかない。
以前は、そう思っていた。
木材を叩けば、内部の状態が音に出る。
人が歩けば、足音が残る。
岩が割れれば、崩れる前に音がする。
音そのものは、その瞬間に起きたことを確かに伝えている。
けれど。
その音を誰かが別の場所へ持っていけば。
意味は変わる。
「難しいな」
小さく呟いた。
音は嘘をつかない。
でも。
音を使って、人は嘘をつける。
その違いを覚えておかなければならない。
古代神殿で聞いた声だって同じかもしれない。
少女の声が残っているからといって、そこで実際に少女が話しているとは限らない。
過去の記録。
仕組まれた反応。
誰かが意図的に残した音。
いくつもの可能性がある。
今回の小さな依頼が、思いがけず神殿の謎を見る視点を一つ増やしてくれた気がした。
そう考えているうちに、ようやく眠気が来た。
◇
目を覚ましたのは昼をかなり過ぎてからだった。
宿の一階へ下りると、すでにセドリックとバルガスが食事をしていた。
フィーナはまだ寝ているらしい。
シリルはギルドから来る人員を迎えに村の入口へ行っているという。
「よく寝てたな」
セドリックが言った。
「どのくらい?」
「四時間くらい」
「全然寝てないじゃないですか」
「夜通し起きてた割には十分だ」
エリオも向かいに座り、用意されていたスープへ手を伸ばした。
しばらくは普通に食事をしていた。
その途中で、セドリックが不意に口を開く。
「今回、どうだった?」
「依頼?」
「ああ」
エリオは少し考えた。
「面白かったです」
「やっぱりそこなんだな」
「いや、ちゃんと仕事としても」
セドリックが少し笑う。
「具体的には?」
「神殿みたいに何でも古代魔術につながってるわけじゃないって分かったのはよかったです」
「そこ?」
「あと、音が本物でも、その使い方で嘘になるって分かった」
セドリックが少しだけ表情を変えた。
「音石のことか」
「はい。荷馬車の音自体は本物だった。でも、実際にはそこに荷馬車はいなかった」
「なるほど」
「《残響記録》も同じことができる」
その言葉に、セドリックはすぐ反応した。
「やろうと思えば?」
「できます」
「人の声も?」
「かなり似せられると思う」
「誰かの声で嘘の命令を出すことも?」
エリオは頷いた。
「たぶん」
言葉にすると、思っていたより危険な能力に聞こえた。
今まで主に索敵や確認のために使っていたから、悪用する方向を考えたことがほとんどなかった。
セドリックは少し考えたあと、静かに言った。
「なら、使わない方がいいな」
「そう思います」
「必要になる場面はあるかもしれないが、その場合も全員で相談して決める」
エリオは少し驚いた。
「僕の能力なのに?」
「だからこそだ」
「どういう意味?」
「一人で判断させるには重い使い方だから」
セドリックはそう言った。
「戦闘で剣を振るのとは違う。誰かの声を偽装するなら、その後に何が起きるかまで考えないといけない」
エリオは納得した。
そういう判断を一人で背負わなくていい。
そのことに、少しだけ安心した。
「今回の依頼で」
セドリックが続ける。
「お前が俺たちと組んだ場合の役割も、かなり見えてきた」
「役割?」
「索敵だけじゃない」
エリオは手を止めた。
「異常の発見と、状況の確認。それから、他の連中が見落とす情報を拾うこと」
「斥候とは違う?」
「重なる部分はある。でもシリルとは違う」
「どう違うんですか?」
「シリルは痕跡を見る。人が通った道、足跡、折れた枝、罠。お前は痕跡が残る前に気づくことがある」
確かに。
敵がまだ姿を見せていなくても、歩いていれば聞こえる。
坑道が崩れる前でも、岩が割れ始めれば聞こえる。
「俺たちは、今まで見えてから判断することが多かった。お前がいると、その少し前に判断できる」
「少し?」
「その少しが大きい」
セドリックの言葉は、いつものように淡々としていた。
だからこそ、エリオには素直に入ってきた。
「フィーナもバルガスもシリルも、今のところお前が同行することに異論はない」
昨日も似た話を聞いた。
だが今度は、少し違う予感がした。
「つまり?」
「正式に一度、うちのパーティへ入ってみないか」
エリオはすぐには答えなかった。
昨日までの「しばらく同行してみないか」とは違う。
パーティへ入る。
それは、セドリックたちと同じ依頼を継続して受けるという意味だ。
「ミラとルークは?」
「もちろん話す必要がある」
「二つのパーティに同時に入るのは?」
「ギルド上は可能だが、長期的には難しいだろうな」
セドリックは隠さず答えた。
「依頼の日程が重なれば、どちらかを選ばなきゃいけない」
エリオはスープへ視線を落とした。
いつか考えなければならないと思っていたことが、思ったより早く目の前へ来た。
ミラとルーク。
冒険者になったばかりの自分を助けてくれた二人。
一緒にDランクまで上がった。
自分にとって、最初の仲間だ。
セドリックたち。
神殿で初めて、自分の能力がもっと大きな場所で必要とされる可能性を見せてくれた。
今回の依頼でも、自分の報告を最初から役割として組み込んでいた。
どちらが上とか。
どちらが大事とか。
そういう話ではない。
ただ。
今のままずっと両方というわけにはいかない。
「すぐ決めろとは言わない」
セドリックが言った。
「町へ戻ってから、二人と話せ」
「……はい」
「ただ、一つだけ覚えておいてくれ」
エリオが顔を上げる。
「俺たちは、お前の《残響記録》だけを借りたいわけじゃない」
以前も似たことを言われた。
能力も含めて自分だと。
だからこそ。
「エリオとして、一緒に来てほしいと思ってる」
エリオは少しだけ目を見開いた。
セドリックはそれ以上何も言わず、食事へ戻った。
エリオもスプーンを持ち直した。
答えはまだ出ない。
それでも。
自分の中で何かが少しずつ変わり始めていることだけは、分かった。
◇
夕方にはギルドの人員が到着し、無許可採掘をしていた者たちと音石は正式に引き渡された。
坑道については後日、専門の調査員を入れることになるという。
村人たちにも、夜の荷馬車の正体が説明された。
その日の夜。
旧道から荷馬車の音が聞こえることはなかった。
村の灯りはいつもより遅くまで残っていた。
家の外で話す声。
笑う子ども。
久しぶりに夜道を歩く人の足音。
エリオは宿の窓から、それらを聞いていた。
同じ村なのに。
昨日までとは音が違う。
怪異そのものを倒したわけではない。
魔物もいなかった。
ただ、音の正体を見つけただけだ。
それでも、人が外へ出られるようになった。
聞こえることが。
誰かの役に立つ。
そのことを、エリオは改めて実感していた。
明日、町へ戻る。
戻ったら。
ミラとルークに話さなければならない。
セドリックから、正式に誘われたことを。
その先で何を選ぶのかは。
まだ決まっていなかった。




