姿のない荷馬車
翌朝、東門へ着いたときには、まだ朝の冷たい空気が町に残っていた。
門の外では、商人たちが荷車の積み荷を確かめ、護衛の冒険者たちが武器や水袋を点検している。昨夜のうちに雨が少し降ったらしく、石畳の隙間には濃い色が残り、馬が歩くたびに湿った土の匂いが混じった。
エリオは集合場所へ向かいながら、自然と周囲の音を拾っていた。
荷車の車輪が一台だけわずかに軋んでいる。
右手の厩舎では、繋がれた馬が前脚で地面を二度叩いた。
門番が書類をめくる音。
遠くでは、町を出る鐘が一度鳴った。
どれも特別なものではない。
それでも昨夜、セドリックから言われた言葉を思い出すと、普段聞き流していた音まで少し違って聞こえた。
『恩恵も含めてお前だろ』
今まで、《残響記録》は自分が持っている道具のように考えることが多かった。
便利な能力。
場合によっては役に立つ能力。
だが、自分そのものと言われると、不思議な感覚がある。
前世で音を集めていたことも。
この世界で《残響記録》を得たことも。
聞こえる音を無視できず、気になれば意味を知りたくなることも。
全部を切り離す必要はないのかもしれない。
「朝から難しい顔してるな」
声をかけられ、エリオは顔を上げた。
セドリックたちはすでに揃っていた。
バルガスは大きな荷物を背負い、シリルは腰の短剣や弓の状態を確認している。フィーナは片手にパンを持ったまま、もう片方で地図を眺めていた。
「別に難しいこと考えてません」
「本当か?」
「ちょっとだけ」
「やっぱり考えてるじゃない」
フィーナが地図から目を上げずに言う。
「昨日からずっとそんな感じよ。神殿のこと?」
「それもあるけど」
エリオはそこで言葉を止めた。
セドリックから誘われたことを、フィーナたちがどこまで知っているのか分からない。
その迷いが顔に出たのか、シリルがすぐに笑った。
「昨日セドリックに誘われた件なら、俺たちも知ってるぞ」
「知ってるんですか?」
「そりゃ勝手に一人で決めないだろ」
「そういう言い方をすると俺が普段勝手に決めてるみたいになる」
セドリックが言うと、シリルは肩をすくめた。
「実際、最後に決めるのはお前だし」
「相談はしてる」
「はいはい」
エリオは少し拍子抜けした。
「みんな、僕がしばらく一緒にいてもいいんですか?」
フィーナがようやく地図から顔を上げた。
「嫌だったら昨日のうちに言ってるわよ」
「俺は楽になる」
バルガスが珍しく口を開いた。
エリオが驚いてそちらを見る。
「楽になる?」
「後ろを気にしなくていい」
それだけ言って、バルガスはまた黙った。
短い言葉だったが、意味はすぐに分かった。
敵や異変を早く知らせる者がいれば、前衛は目の前の状況へ集中できる。
「俺も賛成」
シリルが続ける。
「斥候としては競争相手が増えるみたいで微妙だけどな」
「役割違わない?」
「違うけど、俺が頑張って足跡探してる横で『三百メートル先に四人います』とか言われると、ちょっと腹立つ」
「そんな遠くまで毎回分からないよ」
「毎回じゃなきゃいいって話でもない」
冗談なのは分かっていた。
そのやり取りを聞いているうちに、昨日から感じていた緊張が少し薄れる。
セドリック一人に誘われたのではない。
少なくとも、四人とも自分が同行することを受け入れている。
それはエリオにとって思っていた以上に大きかった。
「そろそろ出るぞ」
セドリックの声で、一行は町を離れた。
◇
リュネ村までは二日ほどかかる。
初日は街道を北西へ進み、途中にある宿場で一泊する予定だった。
町を出てしばらくは人通りも多かったが、昼前には周囲の景色が開け、畑と草原が広がり始めた。遠くには山々が連なり、その向こうに今回の目的地がある。
古代神殿へ向かったときとは違い、急ぐ旅ではない。
危険度も高くないと見られているため、道中では比較的余裕があった。
それでもセドリックたちは、移動中の役割を明確にしていた。
シリルが前方の地形や人の痕跡を見る。
バルガスが隊列の中央寄りを歩き、突然の襲撃に備える。
フィーナは魔力感知を必要な場面だけ使う。
そしてエリオには、周囲の音に違和感があればすぐ報告するよう言われた。
以前からやっていたことではある。
ただ、今回は最初から役割として組み込まれている。
「左の森に何かいます」
昼過ぎ、エリオがそう言うと、全員が自然に歩みを緩めた。
「距離は?」
セドリックが尋ねる。
「百五十くらい。たぶん一匹。四足です」
「大型?」
「そこまで大きくないと思う。足音が軽い」
シリルが森の縁へ目を向ける。
「こっちに近づいてる?」
「いや、平行に動いてる」
セドリックは少し考えたあと、そのまま進むことを選んだ。
結局、森の中にいたものは姿を見せなかった。
誰も「本当にいたのか」と確認しない。
それが今では自然になっている。
エリオ自身も、以前のように「外れていたらどうしよう」と考えることが減っていた。
聞こえたものを、そのまま伝える。
判断はセドリックがする。
自分の役割は、必要な情報をできるだけ正確に渡すことだ。
その分担がはっきりしているため、余計な不安を抱えずに済む。
「こういうの、前からやってたの?」
歩きながらフィーナが尋ねた。
「何が?」
「音で周囲を探すこと」
「冒険者になってからは」
「最初から?」
「最初はもっと適当でした。何かいるとか、音がするとか、それくらい」
「今は距離まで言うじゃない」
「慣れたから」
エリオは少し考えた。
「同じ音を何度も聞いてると、比べられるようになるんです。近いときと遠いときで、反響とか大きさが違うから」
「普通の人でもできる?」
「ある程度なら。でも僕は前に聞いた音をそのまま比べられるから」
フィーナが納得したように頷く。
「そこが強いのね」
「たぶん」
《残響記録》の本当の価値が古代魔術にあるかもしれない。
神殿ではそんな可能性が見え始めた。
それでも、今やっていることはずっと変わらない。
聞く。
比べる。
違いを見つける。
その積み重ねだけでも十分に役立つ。
「そういえば」
フィーナは歩きながら、ふとエリオを見た。
「あなた、音を記録する数に限界ってあるの?」
「今のところ分からない」
「十五年分全部残ってる?」
「意識して覚えてない音もあると思う。でも、ちゃんと聞いたものはかなり」
「前世まで含めたら?」
「それも残ってる」
「頭おかしくならない?」
「その言い方ひどくない?」
「だって何十年分も音が入ってるんでしょう?」
エリオは少し笑った。
確かに、すべてが同時に聞こえていたら耐えられない。
だが《残響記録》はそういう能力ではない。
「ずっと鳴ってるわけじゃないから。必要な音を探して思い出す感じ」
「本棚みたいなもの?」
「それが近いかも」
「ちゃんと分類されてる?」
「自分でしてます」
「そこは恩恵がやってくれないのね」
「やってくれたら楽なんだけど」
前世でも、録音した音をそのまま放置すると後で探せなくなった。
日付や場所を付け、用途ごとに整理する必要があった。
今も同じだ。
違うのは、保存場所が機械ではなく自分の中になったことくらいだった。
◇
夕方、宿場町へ着いた。
小さな町だったが、街道沿いにあるため宿と食堂は多い。馬車を泊める大きな厩舎もあり、行商人や旅人の姿が目立った。
一行はギルド指定の宿へ入り、二部屋を取った。
夕食まで少し時間があるというので、エリオは一人で宿の外へ出た。
目的があるわけではない。
旅先へ来ると、町ごとに音が違うことが気になる。
大きな都市では人の声や荷車が絶えない。
農村では家畜や風の音が多い。
ここは宿場なので、馬の蹄と車輪の音が圧倒的に多かった。
明日向かうリュネ村で聞こえるというのも荷馬車の音だ。
エリオは道沿いの柵へ寄り、通り過ぎる荷車を何台か意識して聞いた。
車輪が石を踏む音。
軸が軋む音。
荷台の中で木箱が揺れる音。
馬の蹄。
手綱についた金具。
一口に荷馬車と言っても、積み荷や車体によってかなり違う。
村人たちが聞いたものを詳しく説明してくれれば、何か比較できるかもしれない。
「仕事熱心だな」
後ろからセドリックの声がした。
「聞いてただけです」
「それを仕事熱心って言うんだ」
彼はエリオの隣へ来て、街道を眺めた。
「明日の件、何か考えてるか?」
「現地を見ないと何とも」
「正しい答えだな」
「でも、荷馬車って言ってもいろんな音があるから、村の人にできるだけ詳しく聞きたいです」
「車輪の数まで分かる?」
「音がちゃんと残ってれば」
「馬の数は?」
「たぶん」
「積み荷は?」
「さすがに中身までは無理ですよ」
「聞けば分かるのかと思った」
「僕を何だと思ってるんですか」
セドリックが笑う。
昨日までは勇者候補という肩書きを意識することも多かったが、こうして二人で話していると、それほど年上でもない普通の冒険者に見える。
「昨日の話」
セドリックが不意に言った。
エリオは何のことかすぐ分かった。
「一緒に組むって話?」
「ああ。急がなくていいと言ったが、一つだけ訂正しておきたい」
「何を?」
「神殿があるから誘ったわけじゃない」
エリオは彼を見る。
「昨日も言ってませんでした?」
「言った。ただ、お前があまり信じてない顔してたからな」
「そんな顔してた?」
「してた」
最近、顔に出ていると言われることが増えた気がする。
「お前が神殿の扉を開けられなくても、俺はたぶん同じ話をした」
「どうして?」
「便利だから」
「結局能力じゃないですか」
「便利なのは悪いことか?」
エリオは答えに詰まった。
セドリックは続ける。
「剣が上手いから前衛を頼む。魔術が使えるから術師を頼む。追跡ができるからシリルを斥候にしてる。それと同じだ」
「でも」
「能力を理由に必要とされることと、能力だけを見られることは違う」
エリオは黙った。
その違いを、これまで深く考えたことがなかった。
「お前は自分で考えて報告する。分からないときは分からないと言うようにもなった。危険だと思えば再生を断る。神殿で一番評価したのはそこだ」
「最初は結構鳴らしてましたけど」
「最初の失敗から学んだなら十分だ」
黒牙狼のことまで知られているわけではない。
それでも似たような失敗は、神殿でも起こしかねなかった。
意味の分からない音を再生すれば、何が起こるか分からない。
以前の自分なら、好奇心の方が先に立った可能性はある。
「だから、今すぐ答えを出す必要はない。俺たちがお前を見てるように、お前も俺たちを見ればいい」
「僕が?」
「パーティは片方だけが選ぶものじゃないだろ」
その言葉は、エリオには新鮮だった。
冒険者になったばかりの頃は、経験の浅い自分が誰かを選ぶ立場だとは考えなかった。
ミラとルークに助けられ、そのまま一緒に行動するようになったのも、最初から計画していたわけではない。
相手が自分を必要とするかどうか。
そこばかり考えていた。
自分が誰と行きたいのか。
誰なら命を預けられるのか。
それも同じくらい重要なのだろう。
「分かりました」
「なら、明日もしっかり見ろ」
「何を?」
「俺たちが失敗するところも含めて」
「失敗する予定なんですか?」
「しない予定で行く」
「じゃあ見られないじゃないですか」
セドリックが少し笑ったところで、宿の方からシリルの声が飛んできた。
「飯なくなるぞ!」
セドリックが振り返る。
「行くか」
エリオも街道から離れた。
そのとき、一台の古い荷馬車が目の前を通り過ぎた。
馬は二頭。
車輪は四つ。
右後ろの車輪だけ少し軸が緩んでいる。
荷台には金属製の道具らしい重いものが積まれていて、道の凹凸に合わせて低くぶつかり合っていた。
エリオは何となく、その音を《残響記録》へ残した。
明日、使うかもしれない。
その程度のつもりだった。
◇
翌日の昼過ぎ。
山道へ入り始めた頃から、空気は明らかに変わった。
街道は少しずつ狭くなり、左右に木々が増える。遠くから聞こえていた旅人や荷車の音も減り、一行以外の人間の気配はほとんどなくなった。
「この先で新道と旧道が分かれる」
セドリックが地図を確認する。
しばらく進むと、確かに道が二つへ分岐していた。
右側は比較的新しく整備された広い道で、轍も新しい。
左側は木々の間へ入っていく細い道だった。
古い標識が傾き、草がかなり伸びている。
「あれが旧道?」
「そうだ」
目的のリュネ村へは新道から向かえる。
旧道は山の中を大きく回り込み、村の北側へ下りてくるらしい。
夜になると、その旧道から荷馬車の音が聞こえる。
エリオは分岐点で足を止め、しばらく耳を澄ませた。
「何か聞こえる?」
フィーナが尋ねる。
「今は特に」
鳥。
風。
木の上を走る小動物。
ずっと奥に水の流れる音もある。
荷馬車はもちろん、馬の足音もない。
「今日は村へ行く。旧道の調査は村人から話を聞いてからだ」
セドリックの判断で、一行は新道を進んだ。
村が見えてきたのは夕方近くだった。
山の斜面に沿って家々が並び、その中央を細い川が流れている。小さな畑と牧草地があり、入口近くには古い石造りの祠が立っていた。
到着を知らせるため村長の家へ向かうと、すでに話が通っていたらしく、五人はすぐ中へ案内された。
村長は六十歳を過ぎた小柄な男だった。
「よく来てくださいました」
挨拶を交わしたあと、セドリックが早速本題へ入る。
「荷馬車の音について、最初から詳しく聞かせてもらえますか」
「もちろんです」
村長は頷き、最初に音が聞こえた夜の話を始めた。
一か月ほど前。
深夜。
旧道の方から、荷馬車が村へ向かってくる音がした。
最初に気づいたのは村外れに住む老人だった。
珍しい時間に誰か来たと思い、家の外へ出た。
音は確かに近づいてくる。
馬の蹄。
車輪。
荷台が軋む音。
ところが、道を見ても何もいない。
「その人は、どのくらい近くまで聞こえたと言ってます?」
エリオが尋ねる。
「村の北門のすぐ外まで来たように聞こえたそうです」
「そこで消えた?」
「はい。突然」
「少しずつ遠くなったんじゃなく?」
「消えた、と」
エリオは頷きながら記憶する。
「馬は何頭か分かります?」
村長は少し驚いた顔をした。
「そこまでは……」
「車輪が何個かとか、何か金属が鳴ってたとか」
「聞いた者を集めましょうか?」
「お願いします」
しばらくすると、その夜や別の日に音を聞いた村人が六人ほど集められた。
エリオは一人ずつ話を聞いた。
聞こえた方向。
時刻。
どんな音だったか。
どこで消えたか。
証言には多少の違いがあった。
だが、共通している部分も多い。
馬は一頭か二頭。
車輪は普通の荷馬車。
速度は速くない。
荷台から、ときどき硬いものがぶつかる音がする。
「硬いものって、金属?」
エリオが尋ねると、三人が似たような答えをした。
「鐘みたいな音だった」
「鐘?」
「大きな鐘じゃないですよ。カン、と鳴るような」
エリオは昨日宿場で聞いた荷馬車を思い出した。
金属製の道具を積んだ車。
似た音なら、積み荷の種類によって出る。
「あと」
一人の老女が遠慮がちに手を上げた。
「歌が聞こえたことがあります」
部屋の空気が変わった。
「歌?」
セドリックが確認する。
「はい。馬車の音の向こうから。ほんの少しだけ」
「人の声ですか?」
エリオが尋ねる。
「女の人だったと思います」
「言葉は?」
「分かりませんでした」
エリオは慎重に続けた。
「同じ夜に荷馬車を聞いた人で、その歌を聞いた人は?」
誰も手を上げなかった。
老女だけが聞いている。
「どんな歌だったか覚えてます?」
「歌というか……声を伸ばしていただけかもしれません。高くて、細い声でした」
フィーナがエリオを見る。
神殿の少女を連想したのだろう。
エリオも一瞬は考えた。
だが、すぐに切り離す。
似た要素があるからといって、何でも神殿へ結びつけるべきではない。
「今夜、音がするかは分からないんですよね」
「ええ」
村長が頷く。
「昨夜は聞こえませんでした。ですが、その前は二晩続けて」
セドリックは全員を見る。
「今夜は村の北側で待つ。音がしなければ、明日旧道を直接調べる」
全員が同意した。
◇
夜。
エリオたちは村の北端にある空き家を借り、旧道が山から下りてくる方向を監視していた。
灯りは最小限。
外にはシリルが出ている。
エリオは窓際に座り、目を閉じて耳を澄ませていた。
山の夜は静かだった。
川。
虫。
風。
家畜。
遠くで枝が折れる音が一度した。
それから長い時間、何も起こらない。
「今日は外れかもね」
フィーナが小声で言った。
「まだ分からない」
エリオは耳を澄ませたまま答える。
深夜に近づいた頃。
最初に聞こえたのは馬だった。
遠い。
山の上。
一定の間隔で、硬い地面を踏む蹄の音。
エリオはすぐに顔を上げた。
「来た」
全員が動きを止める。
セドリックが声を落とした。
「どこだ?」
「旧道。かなり上です」
エリオは集中した。
一頭。
いや。
「馬は二頭」
続いて車輪の音。
四輪。
木製。
速度はゆっくり。
荷台もある。
村人たちの証言と一致する。
「確かに荷馬車です」
「見える?」
外にいたシリルから小さな合図が入る。
姿は見えない。
それでも音は確実に近づいている。
エリオは《残響記録》へ一つずつ保存しながら、細かな違いを探した。
右前の車輪が少し高い音を出している。
荷台は重い。
そして。
カン。
小さな金属音。
村人が言っていたものだ。
「積み荷に金属がある」
セドリックが頷く。
「距離は?」
「まだ七、八百メートルくらい」
音は少しずつ近づく。
だが。
エリオの中に違和感が生まれた。
何かがおかしい。
荷馬車の音自体は自然だった。
車輪も。
蹄も。
積み荷も。
だからこそ気づく。
「……地面の音がない」
「何?」
フィーナが聞き返す。
「馬も車輪も鳴ってる。でも、道そのものの音が聞こえない」
セドリックが眉を寄せる。
「どういう意味だ?」
「普通、車輪が石を踏んだり土を削ったりする音が混ざる。蹄も地面によって響き方が変わる。でもこれは」
エリオはさらに集中した。
車輪だけが鳴る。
馬の蹄だけが鳴る。
荷台だけが軋む。
まるで、それぞれの音だけを別々に重ねたように。
「道を走ってる音じゃない」
その瞬間。
遠くから女の声が聞こえた。
老女の証言にあったものだ。
高い。
細い。
言葉ではないように聞こえる。
エリオはその音を記録しながら、無意識に息を止めた。
聞き覚えがあるからではない。
むしろ逆だった。
少女の声とはまったく違う。
古語でもない。
ただ。
声の下に、もう一つ音がある。
非常に低く。
規則的に。
同じ間隔を繰り返している。
エリオはその音だけを分離する。
そして、気づいた。
「これ……人が作ってる」
セドリックがすぐにこちらを見る。
「何が?」
「荷馬車の音です」
エリオは耳を澄ませたまま答えた。
「同じ部分が繰り返してる」
車輪の軋み。
馬の一歩。
金属がぶつかる音。
最初は自然な揺らぎに聞こえていた。
だが、一定時間ごとに。
まったく同じ音が。
同じ順番で戻ってくる。
エリオには分かる。
一度聞いた音を完全に覚えているからこそ。
自然に起きている音なら、ここまで同じにはならない。
「誰かが録った音を繰り返してるみたいだ」
前世の言葉が、思わず口から出た。
フィーナには意味が分からなかったらしく、すぐに尋ねる。
「つまり?」
「本物の荷馬車が走ってるんじゃない」
エリオは暗い旧道の先を見つめた。
「同じ荷馬車の音を、何度も鳴らしてる」
音は今も近づいている。
姿のない荷馬車が。
まるで決められた記録を再生するように。
山の中から、村へ向かって下りてきていた。




