帰ってきた場所
階段の下から聞こえた『七つ』という言葉が消えてからも、エリオはしばらくその場を動かなかった。
耳を澄ませれば、地下施設を満たすさまざまな音は今までと変わらず聞こえている。床のさらに下を流れる水。どこかで空気を送り続けている装置の低い振動。石壁の奥を伝っている、魔力によるものらしい細かな音。その中に、先ほどまで確かに存在していた低い脈動だけがなくなっていた。
聞き間違いだったのかと疑いたくなるほど、痕跡がない。
だが、《残響記録》には残っている。
エリオは頭の中で、最後に聞いた一瞬だけを取り出した。低い振動が一度あり、その直後に誰かの声が重なっている。発音は明瞭で、現在この国で使われている言葉と変わらない。
『――七つ』
少女の古語を意味として理解したときとは違う。翻訳された感覚もなければ、意味だけが頭へ直接入ってきたわけでもない。
音そのものが、現代語だった。
「もう聞こえないの?」
フィーナが声を落として尋ねた。
「はい。さっきの一回だけです」
「位置は?」
「この下なのは間違いないと思います。でも、かなり深い」
エリオは階段の途中でしゃがみ、石床へ耳を近づけた。
こうすると、水の音がさらに明瞭になる。だが、声が聞こえた場所は水路とは違う。反響の仕方から考えると、現在いる地下層よりさらに下に、比較的大きな空間がある可能性が高かった。
廃坑で壁の向こうを探ったときと同じように、短い音を出して反響を調べれば、ある程度の形を推測できるかもしれない。
そう考えたところで、エリオはすぐには試さなかった。
この神殿では、音を鳴らすこと自体が何らかの装置を動かす場合がある。何のために作られた場所か分からない以上、以前と同じ方法を無条件に使うのは危険だった。
「下に空間があるかだけなら、別の方法でも確認できるかもしれない」
セドリックがフィーナを見る。
「魔力で探れるか?」
「深さ次第。石を通して魔力の流れを見るだけならできるけど、内部に術式があると区別しにくいわ」
「それで十分だ。入口があるかどうかだけ見たい」
フィーナは頷き、杖の先を床へ触れさせた。
淡い光が石の表面へ広がる。攻撃魔術のような強い反応ではなく、細い光の筋が床の継ぎ目をなぞりながら遠くへ伸びていった。
しばらくして、フィーナが眉を寄せる。
「下には何かある」
「部屋?」
「そこまでは分からない。でも、この階層より下にも人工的な魔力の流れがある。自然に溜まってる感じじゃない」
シリルが周囲を見回した。
「入口は?」
「今のところ見えてない」
「残りの二つの扉のどっちかが下へ続いてるとか?」
十分あり得る。
円形の中央室にはまだ七番目と八番目の扉が残っている。今まで調べた六つの部屋は、それぞれ異なる役割を持っていた。残りのどちらかが、さらに下の階層へ移動するための区画であっても不思議ではない。
エリオはそう考えながらも、別の違和感を覚えていた。
「でも、声がしたのは今なんですよね」
「何が言いたい?」
「昨日ここを通ったときも、今日地下へ降りたときも、あの音は聞こえなかった。六つ目の部屋を調べたあと、戻る途中で急に鳴り始めた」
セドリックが少し考える。
「六つ目で何かが起動した?」
「可能性はあると思います」
あの大きな円盤は、《残響記録》の中にある音を読み取るような動きを見せた。
ガイル。
リディア。
ミラ。
ルーク。
この世界でエリオが聞いてきた声を次々と再生し、最後に少女が『まだ、足りない』と言った。
そのあとで、地下のさらに下から『七つ』という声が聞こえた。
無関係と考えるには、順番が整いすぎている。
「『まだ足りない』のあとに『七つ』……」
フィーナが小さく呟く。
「七つ足りない?」
シリルが続ける。
「それは決めない方がいい」
エリオより先にセドリックが言った。
「言葉をつなげればそう読めるというだけだ。別のものを指している可能性もある」
「分かってるって」
シリルは肩をすくめた。
ただ、エリオも同じことを考えていた。
まだ足りない。
七つ。
もし二つが一つの文章のようにつながるなら、「七つ不足している」と考えるのは自然だった。
そして三つ目の区画には、『残存記録数、七』と表示されている。
足りない七つ。
残っている七つ。
この二つは正反対に見える。
七つが残っているのか。
七つが失われているのか。
そもそも同じものを数えているのか。
数字が増えるほど、かえって意味が分からなくなってきた。
「今日は帰る」
セドリックが言った。
エリオは思わず彼を見た。
「下があるって分かったのに?」
「だからだ」
セドリックは即答した。
「新しい階層があるなら、今までより調査範囲が広がる。残りの扉も開けていない。ここで無理に入口を探し始める理由はない」
「でも、また声が消えたら」
「お前は覚えてるだろ」
その一言で、エリオは黙った。
確かにそうだった。
もう一度聞けなくても、《残響記録》には残っている。
音が消えることを恐れる必要はない。
少なくとも、自分が一度聞いたものについては。
「それに」
セドリックは少し声を和らげた。
「ここまでで最初に聞いていた調査内容は十分すぎるほど達成してる。俺たちは、声がすると報告された古代神殿を調べに来たんだ。地下に未知の施設があって、さらにその下まで続いてるなんて話は聞いてない」
「確かに」
「一度ギルドへ情報を渡す。王都側にも報告が必要になるだろう。それから続きをどうするか決める」
フィーナも今回は反対しなかった。
「私も賛成。持ち帰った筒もちゃんと調べたいし、写した文字も資料と照合したい。ここで分からないまま進むより、外で分かることを増やした方がいいわ」
エリオは階段の下をもう一度見た。
気になる。
ひどく気になる。
それでも、以前のように「聞こえたから行く」という理由だけで進む気にはならなかった。
音の意味を知らずに鳴らした結果、黒牙狼を呼び寄せたことがある。
この場所で同じ失敗をすれば、呼び寄せるものが狼程度で済む保証はない。
「分かりました」
エリオはようやく頷いた。
◇
神殿を出た一行は、その日のうちに町へ向かった。
帰路は往路より慎重になったものの、大きな問題は起こらなかった。途中で小型の魔物を数体見つけたが、エリオが先に足音を拾ったため、戦闘になる前に迂回できた。
以前なら、それだけのことだった。
だが、セドリックたちと行動するようになってから、エリオは自分の報告の使われ方を意識するようになっていた。
「前方右、たぶん三匹。小型です。足取りは軽いから、ゴブリンじゃないと思う」
エリオがそう伝えると、セドリックは立ち止まり、シリルへ周囲の地形を確認させる。
「左から回れるか?」
「少し遠回りになるが問題ない」
「なら避けよう」
それだけで終わる。
エリオが何を聞いたのかを疑う者はいない。
もう一度確かめろとも言われない。
最初の数日は、セドリック自身が音の方向や距離について何度か確認していた。今は、エリオが「三匹」と言えば三匹いるものとして判断している。
それが少し嬉しかった。
同時に、妙な感覚もあった。
ミラとルークも自分を信頼してくれている。
ただ、二人の場合は「エリオが聞いたならそうなんだろ」と、どこか勢いで受け入れているところがある。
セドリックは違う。
最初に何度も精度を確認し、どこまでなら信用できるのかを自分なりに見極めたうえで任せている。
その違いが面白かった。
「何笑ってんだ?」
シリルに聞かれ、エリオは自分が少し笑っていたことに気づいた。
「別に」
「疲れすぎておかしくなった?」
「違います」
「神殿の中でも一人で音聞いて楽しそうだったしな」
「楽しかったわけじゃないです」
「本当か?」
即答しようとして、エリオは少し迷った。
怖くなかったわけではない。
前世の母の声を聞いたときには動揺したし、自分の能力が勝手に読まれているかもしれないと分かったときには不安もあった。
それでも。
知らない音を聞き、それが何なのか考え、少しずつ意味へ近づいていくこと自体は。
「……ちょっとだけ」
「やっぱり楽しかったんじゃねえか」
シリルが笑う。
前を歩いていたフィーナも振り返った。
「この子、あの遺跡に置いていったら一週間くらい平気で住みそう」
「食事があれば」
「否定しなさいよ」
エリオも笑った。
古代施設の中にいたときには、誰も余裕を持って冗談を言うことなどできなかった。その緊張が少しずつ抜けてきているのだろう。
いつの間にか。
この四人と歩くことにも慣れていた。
◇
町へ戻ったのは、夕方を少し過ぎた頃だった。
門を通り、冒険者ギルドへ向かう。
中へ入った瞬間、いつものざわめきが耳へ飛び込んできた。
依頼から戻った冒険者たちの声。
受付で報酬について話している者。
奥の食堂から聞こえる食器の音。
椅子を引く音。
神殿の無音区画とは正反対の場所だった。
エリオは、自分でも驚くほどその騒がしさに安心した。
「報告は長くなりそうだな」
セドリックが受付へ向かいながら言った。
「どこから説明します?」
フィーナが苦い顔をする。
「地下の八つの扉から全部話したら、絶対に途中で意味分からなくなるわよね」
「最初から順番に話すしかないだろ」
「前世のことも?」
その言葉で、エリオは足を止めた。
セドリックも止まる。
「そこはエリオが決める」
以前と同じ答えだった。
「今回の報告に必要なのは、遺跡がエリオの記憶にある音へ反応したという事実だ。前世の詳しい話までギルドに伝える必要があるとは思わない」
「でも、前世の音が出たって説明するなら」
「『本人しか知らない記憶の音を再生した』で十分だ」
フィーナも頷いた。
「私もそう思う。転生なんて話まで報告書に入れたら、遺跡調査よりそっちを調べられかねないわよ」
冗談では済まない気がした。
この世界で転生の話が完全に知られていないわけではない。
だが、少なくとも一般的な現象ではなく、フィーナですら古い伝承として知っている程度だった。
エリオ自身も、自分が相沢律だったことを隠し続けたいわけではない。
ただ、誰にでも知らせたいとも思わなかった。
「じゃあ、それでお願いします」
「分かった」
セドリックは受付へ向かった。
そこで。
「エリオ!」
聞き慣れた声が、ギルドの奥から飛んできた。
顔を向けるより先に誰なのか分かる。
ミラだった。
彼女は立ち上がると、こちらへ真っ直ぐ歩いてきた。その後ろからルークも手を上げている。
「おかえり。生きてる?」
「見れば分かるでしょ」
「そうだけど。変な声について行って帰ってこないんじゃないかと思ってた」
「それ、出る前にも言ってたよね」
「で?」
ミラはセドリックたちへ軽く頭を下げてから、すぐエリオへ向き直った。
「何かあった?」
その聞き方が、あまりにもいつも通りだった。
神殿で少女の声を聞いたこと。
前世の母の声。
自分がこの世界へ来たときと同じ音。
《残響記録》と古代施設の関係。
地下のさらに奥から聞こえた『七つ』。
話すことは山ほどある。
エリオは少し迷ったあと、笑った。
「かなり」
「何その顔。絶対面倒なの見つけたでしょ」
「僕が見つけたっていうか」
「似たようなもんだろ」
ルークまで笑う。
その二人を見ていると、セドリックに昨日聞かれたことを思い出した。
前の世界に戻りたいか。
答えは、まだ分からない。
けれど。
今この場所へ戻ってきたことを。
エリオは確かに「帰ってきた」と感じていた。
「話すよ」
そう言って、エリオは二人のいるテーブルへ向かった。
ただし。
どこから説明すればいいのかだけは。
まったく決まっていなかった。




