七つ
少女の声が消えたあと、六つ目の部屋には低い駆動音だけが残った。
『――まだ、足りない』
それが何を指しているのか、エリオには分からなかった。
自分の中に保存されている音が足りないのか。それとも、この施設のどこかに本来あるべき記録が足りないのか。最初の黒い円盤では『やっと、ひとつ戻った』と言われ、白い円盤では『今度は、全部返すから』と告げられた。
そして今度は、『まだ、足りない』。
三つの言葉を順番に並べれば、何かを集め、元へ戻そうとしているようにも聞こえる。
しかし、何を。
誰に。
その肝心な部分がまったく見えてこない。
「今の声も、前に聞いた少女と同じなんだな?」
セドリックが円盤から視線を外さないまま確認した。
「はい。間違いないです」
「前世で川の録音に入っていた声とも?」
「同じです」
エリオは答えながら、《残響記録》の中に残された三つの声を改めて比較した。
十五年前の川辺で聞いた『まだ、聞こえる?』。
神殿の地下で聞いた『音を、忘れないで』。
そして今の『まだ、足りない』。
声質そのものは変わっていない。発音の癖も、息の入り方も同じだった。
ただ、一つだけ違う。
「……今の方が近い気がする」
無意識にそう口にすると、フィーナがこちらを向いた。
「近いって?」
「声がです。前より、はっきりしてる」
「音量が大きかったってこと?」
「そうじゃなくて」
エリオは適切な表現を探した。
録音された声には、必ず場所の影響が出る。屋外なら風や周囲の雑音が混じり、部屋の中なら反響が乗る。前世で聞いた少女の声には川の流れる音が重なっていたし、この神殿で最初に聞いたときにも、古い記録らしいわずかな揺らぎがあった。
ところが今の声には、それがほとんどなかった。
「誰かが昔録った声を聞かされてる感じじゃないんです。今そこで話されたみたいな……」
言いながら、エリオ自身が嫌な感覚を覚えた。
もしそうなら。
あの少女は過去に残された記録ではないことになる。
「今もどこかにいる?」
シリルが率直に言った。
「それはまだ分からない」
セドリックがすぐに遮った。
「声が鮮明になっただけで、生きていると決めるのは早い」
「分かってるよ」
「ただ」
フィーナは円盤へ杖を向けたまま、考え込んでいる。
「最初に見た少女の像は、古い記録だと思ってた。でも、こっちの行動に合わせて内容が変わるなら、少なくとも完全な固定記録じゃない」
「最初から複数の返答を用意していた可能性もある」
「ええ。だからまだ何とも言えない」
そこで会話が止まった。
分からないものを、分かったことにしない。
この遺跡へ入ってから何度も繰り返してきたことだった。
エリオはその慎重さに少し助けられていた。
自分一人だったら、もっと早く答えを決めつけていたかもしれない。
前世から自分を呼んだ少女。
古代施設。
《残響記録》。
ここまで自分と関係するものが揃えば、何でも一つの理由へ結びつけたくなる。
それでも今は、知らないことの方が多い。
「今日はここで戻りますか?」
エリオが尋ねた。
残る扉は二つ。
続きが気にならないわけではない。
むしろ、すぐにでも開けたい。
だが六つ目の部屋だけでも、整理すべき情報は多かった。
セドリックは一度、フィーナたちの様子を確認した。
「そうしたいところだが、一つだけ確かめておきたい」
「何を?」
「中央の表示だ」
三つ目の部屋で石柱に現れた『残存記録数、七』。
六つ目まで開いたことで、もし数字が変化しているなら、何を数えているのか手がかりになる。
「それなら僕も見たいです」
「触らず確認するだけだ」
全員が六つ目の部屋を出た。
◇
三つ目の区画へ戻ると、銀色の芽は昨日と変わらない姿で残っていた。
二枚の葉はわずかに開いているが、今は音を出していない。
中央の石柱には、例の文字がまだ表示されていた。
フィーナが近づき、文字を読む。
「保存区画、第三層。ここは変わってない」
その下。
残存記録数。
エリオも数字の形を覚えていた。
七。
昨日と同じだった。
「変わってないな」
シリルが言う。
「ってことは、扉を開けた数じゃない」
フィーナが記録へ書き込む。
エリオはむしろ、少し安心した。
八つの扉と『残存記録数、七』が直接対応しているという仮説は、これで崩れた。
「じゃあ『ひとつ戻った』と七も、つながってないかもしれない」
「その可能性が高くなったわね」
フィーナが頷く。
「少なくとも、扉を開けるたび数字が減るわけではない」
セドリックも石柱を確認した。
「なら、七つ残っている何かがこの施設のどこかにある」
「音の記録?」
「それもまだ分からない」
エリオは銀色の芽を見る。
七音。
残存記録数、七。
同じ数字が重なっていることだけは変わらない。
ただし、数が一致しているからといって同じものとは限らない。
そう考えていたとき、銀色の葉がわずかに揺れた。
風はない。
エリオはすぐに耳を澄ませた。
昨日と同じように、葉から小さな音が出始める。
一音目。
二音目。
少しずつ高さが上がっていく。
七つ目まで来る。
そして昨日は、そのあとに転生時と同じ高音が一つだけ続いた。
エリオは身構えた。
だが。
今回は何も鳴らない。
七音で終わった。
「昨日と違う」
エリオが言うと、フィーナが銀色の芽へ顔を近づけた。
「最後の音がない?」
「はい」
「何が変わったの?」
「分からない」
エリオは昨日との違いを考えた。
最初にここへ来たときは、まだ四つ目の扉も開けていなかった。
今日は六つ目まで調べている。
白い円盤に触れ。
無音区画へ入り。
六つ目の大きな円盤に《残響記録》を読み取られた。
条件が多すぎて、どれが関係しているのか判断できない。
「七音は同じ?」
「完全に同じです」
「だったら、その七音自体が何かを示しているのかもしれないわね」
フィーナはそう言ってから、ふと思い出したようにエリオを見た。
「前の世界では、音の高さに名前があったって言ってたわよね」
「はい」
「この七つ、全部名前をつけられる?」
「近い音なら」
エリオは銀色の芽が鳴らした七つの高さを頭の中で並べた。
前世の平均律と完全には一致しない。
少しずれている。
それでも、無理に当てはめるなら。
「ド、レ、ミ、ファ、ソ、ラ、シに近い」
「昨日言ってた『ドレミ』ね」
「そうです」
「七つで一組?」
「前の世界では基本的には」
フィーナが考え込む。
「この世界にも音階はあるわよ。楽師は別の名前で呼ぶけど、七つを基準にするものもある」
エリオは意外に思って彼女を見た。
「七つ?」
「ええ。ただし地域によって違うし、五つや六つで構成する音楽もある。私も専門じゃないけど」
「じゃあ、前世だけ特別なわけじゃないんだ」
「音の高さを整理すれば、似た体系に行き着くこと自体は不思議じゃないでしょうね」
その言葉で、エリオの中に少し冷静さが戻った。
前世と似ているものを見つけるたび、すぐに二つの世界のつながりを疑っていた。
だが、音には物理的な法則がある。
世界が違っても、似た仕組みが生まれる可能性はある。
「ただ」
フィーナは続けた。
「この神殿の設備が音をこれだけ重視してることを考えると、七音に意味がないとも思えないけど」
「結局そこですね」
「そうね」
答えは出ない。
だが、それでいい。
エリオは銀色の芽が完全に音を止めるまで聞き届けた。
◇
円形の中央室へ戻ると、残る二つの扉が正面に並んでいた。
七番目。
八番目。
今日開けないと決めたはずなのに、目に入るとどうしても気になる。
エリオは少女が話していた音を思い返した。
七番目の扉に対応していた言葉。
八番目の扉に対応していた言葉。
どちらも《残響記録》の中には残っている。
再生すれば開けられる。
その簡単さが、逆に恐ろしい。
「見ても開かないぞ」
隣から言われ、エリオはセドリックを見た。
「分かってます」
「今、明らかに開けること考えてただろ」
「少しだけ」
「少しなら考えていいみたいな言い方をするな」
シリルが後ろで笑う。
「セドリック、もう保護者みたいになってるな」
「こいつが放っておくと音のする方へ行くからだ」
「犬みたいに言わないでください」
「似たようなものだろ」
エリオは少し不満だったが、否定しきれなかった。
ミラにも以前、似たようなことを言われたことがある。
そのことを思い出したところで、ふと気づく。
神殿へ入ってから、ミラとルークのことを考える時間がほとんどなかった。
まだ一週間の臨時同行。
この調査が終われば、二人のところへ戻る予定だ。
「どうした?」
セドリックが今度は真面目な声で尋ねた。
「ミラとルークに、何て説明しようかなって」
「全部話せばいい」
「前世のことも?」
「それはお前が決めることだ」
当然の答えだった。
エリオは考えた。
二人なら笑うだろうか。
相沢律という名前で別の世界に生きていたこと。
そこで音を集めていたこと。
川で少女の声を聞き、その直後にこの世界へ生まれたこと。
ミラは最初に驚いて、それから「だから変なところで妙に詳しかったのね」と言うかもしれない。
ルークはもっと単純に、「じゃあ中身は俺より年上じゃねえか」と笑いそうだった。
想像すると、少し気が楽になった。
「帰るか」
セドリックが言った。
エリオは残る二つの扉をもう一度見てから、頷いた。
◇
地上へ戻る途中、エリオは階段の半ばで足を止めた。
前を歩いていたフィーナが振り返る。
「どうしたの?」
「静かに」
全員が動きを止める。
エリオは耳を澄ませた。
神殿の地下では、多くの設備が今もわずかな音を発している。
水の流れ。
空気を循環させる装置。
石の中を動く魔力によるものらしい小さな振動。
それらに混じって。
今まで聞いたことのない音がある。
遠い。
自分たちが調べていない場所。
位置を探る。
下。
円形の部屋よりさらに深い。
「下に何かあります」
セドリックがすぐに階段の下へ視線を向けた。
「地下室がもう一層ある?」
「たぶん。でも、さっきまでは聞こえなかった」
「どんな音?」
エリオは集中する。
低い。
一定間隔。
何かが叩いているような音ではない。
脈打つように。
ゆっくり。
何度も。
そして、そのたびに。
ほんのわずかに別の音が混ざっている。
エリオは目を閉じた。
聞き分ける。
一回。
二回。
三回。
声だ。
あまりにも小さくて、言葉までは分からない。
「人の声が混じってます」
「少女?」
「分からないです」
さらに集中する。
すると、次の低い音の直後。
一瞬だけ声がはっきりした。
『――七つ』
エリオは目を開けた。
「今、七つって」
「聞こえたの?」
フィーナが尋ねる。
「はい」
「現代語で?」
「……はい」
それが一番おかしい。
古代の少女が話していた言葉の大半は、エリオにだけ意味として伝わる場合があったものの、音そのものは古語だった。
だが、今の声は違う。
はっきりと。
今この世界で使われている言葉で。
『七つ』
そう聞こえた。
エリオは階段の下を見つめた。
残存記録数、七。
銀色の植物が鳴らす七つの音。
そして。
地下のさらに奥から聞こえた、七つという言葉。
偶然として切り離していたものが。
今度こそ、一つにつながろうとしている気がした。




