まだ、足りない
五つ目の区画を出たあとも、エリオはしばらく自分の中に残った十二人の声を整理していた。
同じ三音節を発した十二人。
その中で、装置から最も強い反応を返された九人目の女。
そして、その直後に聞こえた『セラ』という短い言葉。
フィーナの記憶が正しければ、それは「正しい」あるいは「一致した」に近い意味を持つ可能性がある。
確定したわけではない。
古語の資料そのものが少なく、現代まで残った意味が本当に正しいとも限らない。それでも、十二人が発音を変えながら同じ音を繰り返していたことと合わせれば、この部屋で何かの「正確さ」を確認していた可能性はかなり高くなった。
そして、その正確な音を。
エリオなら一度聞くだけで、そのまま残せる。
その事実を意識した途端、《残響記録》という能力の見え方が変わってしまった。
七歳の鑑定の日から今まで、何度も役に立ってきた。
木材の異常も。
魔物の位置も。
閉じ込められた人間の存在も。
聞こえるから見つけられた。
それでも、あくまで「便利な能力」という認識だった。
だが、もし古代の術が正しい音そのものを必要としていたのなら、《残響記録》は便利という範囲を超えている。
現代の人間が失ったものを、そのまま使える可能性がある。
「考え込んでるな」
セドリックの声で、エリオは顔を上げた。
五人は円形の部屋まで戻っていた。
開いている扉は五つ。
残る三つは、今も閉じたまま並んでいる。
「ちょっと」
「さっきの話か?」
「はい」
エリオは隠さず頷いた。
「僕の恩恵って、本当にこの施設と関係あるのかなって」
セドリックはすぐに答えなかった。
代わりにフィーナが口を挟む。
「可能性はかなり高くなったと思う」
「フィーナ」
「分かってる。断定はしないわよ」
先に釘を刺されたのが不満だったのか、フィーナは少しだけ顔をしかめた。
「でも、無音区画の中で普通の声が消えたのに、《残響記録》で再生した音だけ届いた。古い設備は特定の音へ反応する。しかも、あなたはそれを完全に再現できる。ここまで重なったら、何の関係もないと考える方が不自然でしょう」
「俺も関係はあると思う」
セドリックはそう認めたうえで、言葉を続けた。
「ただし、何と何がどう関係しているのかは別だ。《残響記録》がこの施設で使われていた技術と同じ系統なのか。お前自身に何か理由があって、この施設がそれに反応しているのか。それとも、その両方なのか」
「まだ分からない」
「そういうことだ」
エリオは頷いた。
前世の声まで再生した白い円盤のことを考えれば、能力だけの問題ではない可能性も十分にある。
あの円盤は、相沢律の記憶にあった音だけでなく、聞いたことのない少女の言葉まで返してきた。
『今度は、全部返すから』
あの「全部」が何を指しているのかも、まだ分からない。
「残り三つ、行く?」
シリルが閉じた扉を見ながら尋ねた。
セドリックは少し考えたあと、全員の状態を確認した。
「体力に問題がないなら六つ目までは見る。ただし、今日は全部開けるとは決めない」
フィーナが少し笑う。
「昨日も同じこと言ってたわね」
「昨日と同じくらい未知のものが出てくるからな」
「それは否定できない」
エリオにも異論はなかった。
一つ部屋を開けるたびに、この場所について分かることが増える。
同時に、分からないことも増えていた。
だからこそ、一つずつ進むしかない。
◇
六つ目の扉に対応していた少女の言葉は、これまでより短かった。
『――ソル・ネ』
エリオが記録通りに再生すると、扉の中央へ青白い光が灯る。
扉が開き始めても、今回は風も異音もなかった。
まずシリルが内部を確認する。
罠らしいものは見当たらない。
魔物の気配もない。
ただし、部屋の中は暗かった。
フィーナが光を出すと、室内の様子が少しずつ見えてくる。
「……何これ」
彼女が最初に反応した。
部屋はそれほど広くなかった。
円形に近い空間の壁へ、無数の細い線が刻まれている。
文字ではない。
直線や曲線が複雑に重なり、その間に小さな点が並んでいる。
床にも同じ模様が続いていた。
中央には低い台が一つだけ置かれている。
その上にあるのは。
「また円盤?」
シリルが言った。
確かに形は似ていた。
ただし、最初の部屋や保管庫で見つけた黒い円盤より遥かに大きい。
直径は腕一本分ほど。
表面は半透明で、内部に何本もの細い線が浮かんでいる。
エリオは入口から耳を澄ませた。
「音は?」
セドリックに尋ねられる。
「あります」
「どんな?」
エリオは少し迷った。
言葉にするのが難しい。
「……いっぱいあります」
「保管庫みたいに?」
「違う。別々の音が入ってるんじゃなくて、一つの音が何層にも分かれてる感じ」
フィーナが興味を示した。
「一つの音?」
「たぶん」
エリオは慎重に近づいた。
円盤から発せられている音は、ごく低い。
耳で聞くというより、身体の中へ伝わってくるような振動に近かった。
その低音の中に、さらにいくつもの高い音が重なっている。
前世で音声編集をしていた頃。
一つの音源を周波数ごとに見たときのことを思い出す。
耳では一つに聞こえても、その中にはいくつもの成分がある。
「音を分けてる?」
エリオが呟いた。
フィーナが横から尋ねる。
「何を?」
「一つの音の中にある高さを、別々にしてるみたいに聞こえる」
「そんなことできるの?」
「前の世界では、道具を使えばできました」
エリオは円盤の周囲に刻まれた線へ目を向けた。
さっきまではただの模様にしか見えなかった。
だが。
音を聞きながら見ると、少し印象が変わる。
細い線の高さ。
点の間隔。
上がり下がりする曲線。
「これ……音を描いてるのかな」
「音を?」
フィーナが目を細める。
エリオは壁へ近づき、一つの曲線を指した。
「前の世界には、音を目で見る方法がありました。音の高さとか大きさを線で出したり」
「この線が、それ?」
「似てるだけかもしれない。でも」
エリオは円盤から聞こえる音と、壁の模様を何度か見比べた。
規則がある。
高い音が強くなる場所では、線が上へ伸びている。
低い成分が増える場所では、下へ集まっている。
完全に同じ形式ではない。
少なくとも律が見慣れていた波形や周波数表示そのものではない。
それでも、音を視覚的に記録しているように見えた。
「フィーナ。ここ、魔力の流れはどうなってる?」
「待って」
彼女が杖を円盤へ向ける。
しばらく調べたあと、少し驚いた顔をした。
「ほとんど動いてない」
「壊れてる?」
「違うと思う。魔力はある。でも流れてない。固定されてるみたい」
「固定?」
「普通の魔道具は、動くときに魔力が流れるの。入口から入って、術式を通って、結果が出る。でもこれは……全部の場所に同じ状態で留まってる」
フィーナ自身、説明しにくそうだった。
「魔術として保存されてる?」
エリオが尋ねる。
「そういう言い方が一番近いかも」
セドリックは円盤を見ながら言った。
「音だけじゃなく、魔力の状態まで残している可能性は?」
フィーナが黙る。
「……あり得る」
「それができたら何が違う?」
「ものすごく違うわよ」
彼女は少し早口になった。
「魔術って、同じ術式を使っても人によって結果が変わるの。魔力量も、流し方も、詠唱も違うから。でも、もし発動した瞬間の魔力の状態までそのまま保存できるなら――」
途中で言葉を止める。
エリオには、その続きを想像できた。
「同じ魔術を、完全に再現できる?」
フィーナが頷いた。
「理論上は」
その言葉を聞いた瞬間、エリオは円盤へ視線を戻した。
音を保存する。
魔力の状態を保存する。
それを必要なときに再生する。
《残響記録》に似ている。
ただし、保存している対象が音だけではない。
「古代魔術って」
エリオは考えながら口にした。
「魔術を作るんじゃなくて、再生してた?」
誰もすぐには答えなかった。
フィーナは円盤を見つめたまま、慎重に言う。
「その可能性はある。でも、まだ飛躍があるわ」
「どこが?」
「この円盤が魔術そのものを保存してるって決まったわけじゃない。音と魔力を別々に記録しているだけかもしれないし、研究用の測定装置かもしれない」
「それでも、音と魔力を一緒に残してた可能性はある?」
「それは高いと思う」
エリオは納得して頷いた。
まだ答えにする必要はない。
ただ、一つの考え方として覚えておけばいい。
古代の人間にとって、音は単なる詠唱ではなかったのかもしれない。
魔力を動かすための一部。
あるいは、魔術そのものを再現するための記録。
そう考えると、《残響記録》がこの場所で特別な反応を示す理由にも近づける気がした。
◇
部屋の壁を調べていたシリルが、突然手を止めた。
「ここだけ違う」
彼が示した場所には、ほかの線と比べて明らかに太い一本の線が刻まれていた。
床から始まり、壁を上り、天井近くまで続いている。
その線の途中には、同じ記号が一定間隔で並んでいた。
「扉の印と似てるな」
セドリックが言う。
エリオも確認する。
確かに。
円形の中央室で見た八つの扉には、それぞれ小さな記号が刻まれていた。
そのうち、六番目の扉にあったものと同じ形だ。
「この部屋の番号?」
「かもしれない」
フィーナが線を目で追う。
「でも、上に続いてる」
全員が天井を見る。
太い線の先には、小さな丸いくぼみがあった。
エリオが耳を澄ませる。
「上から音がする」
「何の音?」
「……鐘?」
かなり遠い。
しかも、今鳴っているわけではない。
円盤と同じように、音そのものが薄く保存されているように聞こえる。
「聞いたことある鐘?」
「ないです」
エリオはしばらく聞き続けた。
大きい。
町の鐘よりずっと低い音。
一度鳴れば、かなり遠くまで届きそうな響きだ。
そのあとに、人の声が続く。
多数。
何十人、あるいは何百人。
しかし、話しているのではない。
同じ言葉を同時に唱えている。
「また詠唱?」
エリオが音を聞きながら言った。
フィーナがすぐ近くまで来る。
「再生しないでね」
「分かってます」
エリオは慎重に聞き分けた。
声は遠い。
それでも《残響記録》なら、少しずつ分離できる。
最初に鐘。
次に大勢の声。
そのあと。
非常に大きな音が一つ。
最初は雷だと思った。
だが違う。
爆発とも違う。
もっと広い範囲から一斉に空気が押し出されるような音。
そして。
何もなくなる。
完全な静寂。
そこまで聞いたところで、エリオは顔をしかめた。
「どうした?」
セドリックが尋ねる。
「最後が変です」
「何が?」
「何百人もいるような音がしたのに、急に全部消える」
「録音がそこで切れてるんじゃない?」
フィーナが言う。
「切れ方が違う」
エリオは説明する言葉を探した。
前世の録音なら、途中で記録を止めたときには何らかの境目がある。
機器が停止したノイズ。
データが途切れた感覚。
だが、この音にはそれがない。
「記録が終わったんじゃなくて、そこから音がなくなってる」
全員の表情が変わった。
「どういう意味だ?」
「僕にも分からないです。ただ……最後の大きな音のあと、周りにいた人たちの声も、風も、何も聞こえなくなる」
エリオは天井のくぼみを見つめた。
無音区画とは違う。
あそこでは、人為的に音が遮断されていた。
今聞こえた記録は。
それまで存在していた音が、一瞬で失われたように聞こえる。
フィーナが小さく息を呑んだ。
「昔、何かがあった?」
「たぶん」
「災害?」
「分からない」
エリオは正直に答えた。
そのとき。
中央の大きな円盤から、これまでとは違う音が鳴った。
全員が一斉に身構える。
エリオはすぐに距離を取った。
触れていない。
古語も再生していない。
それでも円盤の内部にあった線が、一つずつ淡い光を帯び始める。
「何もしてないわよね?」
フィーナが確認する。
「してません」
「魔力が動き始めた」
彼女が杖を向けた。
「さっきまで固定されてたのに」
円盤の内部で、細い光がゆっくり一か所へ集まっていく。
やがて中央に、小さな点ができた。
その点から。
一音。
聞こえた。
エリオには覚えがある。
少女の声ではない。
十二人の声でもない。
もっと近い。
もっと最近、何度も聞いている声。
『――エリオ』
エリオの身体が固まった。
「今の」
フィーナも聞こえていた。
つまり、今回はエリオだけに聞こえた音ではない。
もう一度。
『エリオ』
男の声だった。
低く、少し荒い。
間違えるはずがない。
「……父さん?」
ガイルの声だった。
エリオは円盤から目を離せなかった。
だが、白い円盤のときとは違う。
これは前世の記憶ではない。
この世界で。
十五年間、何度も聞いてきた声。
円盤が続ける。
『そんなに耳ばっかり使ってたら、そのうち頭まで耳になるぞ』
エリオは、その言葉を覚えていた。
九歳の頃。
家の裏で、一日中鳥の鳴き声を聞き分けていたとき。
ガイルに笑われながら言われた。
完全に自分の記憶の中にある音だった。
その次に、リディアの声。
『エリオ、ご飯よ』
これも知っている。
何度も聞いた。
今度はミラ。
『聞こえるなら先に言いなさいよ!』
黒牙狼を呼び寄せたあとの声。
続いてルーク。
『お前、その能力、普通に便利じゃねえか』
エリオは黙ったまま聞いていた。
円盤が何をしているのかは、すぐに分かった。
「記憶を読んでる」
フィーナが呟く。
白い円盤と同じだった。
ただし。
今度は、前世だけではない。
この世界でエリオが聞いてきた音まで取り出している。
円盤はさらにいくつかの声を再生したあと、突然止まった。
光も消える。
部屋は再び静かになった。
「また触ってないよな?」
セドリックが確認する。
「はい」
「なら、何に反応した?」
エリオにも分からなかった。
ただ。
一つだけ。
思い当たることがある。
「さっき、上の音を聞いてました」
「鐘の記録?」
「はい。その中から声を聞き分けようとして、《残響記録》を使ってた」
「それに反応した?」
「かもしれません」
エリオは円盤を見る。
六つ目の部屋。
音を分解し。
魔力の状態を残しているかもしれない場所。
そこへ、自分が《残響記録》を使って入った。
すると円盤は、エリオの中に残っている音を読み出した。
まるで。
能力そのものを調べているように。
フィーナも同じことを考えたのか、表情が険しくなった。
「これ、あなたの記憶を見てるんじゃなくて」
「何?」
「《残響記録》の中身を調べてるんじゃない?」
エリオは答えられなかった。
白い円盤のときは、前世の記憶そのものに触れられていると思った。
だが。
もし違うのなら。
母の声も。
川の音も。
ガイルも。
ミラも。
ルークも。
全部、《残響記録》の中から読み取られているのだとしたら。
この施設は。
エリオの能力を。
最初から知っていることになる。
そう考えた瞬間。
円盤から最後に一度だけ、小さな音が鳴った。
今度は少女の声だった。
『――まだ、足りない』
それだけを残して。
六つ目の部屋は、再び完全な静寂へ戻った。




