使い道を忘れられた力
五つ目の区画を前にして、エリオたちはすぐに次の扉へ進むことはしなかった。
昨日までなら、新しい部屋を見つけるたびに内部を一通り確認し、危険がないと判断したところで次へ進んでいた。しかし今回は、普通の音が完全に消える空間の中で《残響記録》だけが機能し、その奥には十二人分の声が残されていた。これまで見つけたどの設備よりも、エリオの能力そのものと直接関係しているように思える。
それを何も調べずに残していく方が、かえって危険だった。
「もう一度だけ中を確認したい」
フィーナがそう言ったのは、十二人の声を外で聞き直してからだった。
彼女の前には、神殿へ入ってから書き留めた文字や図が並んでいる。その中には、地下へ降りるために使った古式詠唱や、八つの扉を開くために少女が口にした言葉も含まれていた。
「ただし、今度は目的を決めて入るわ。中央の声を全部聞き直すこと。それから、声以外に何か残っていないか確認する。むやみに触ったり再生したりはしない」
「それならいい」
セドリックは条件を付けたうえで認めた。
「長居もしない。何か反応があったらすぐ戻る」
再び無音区画へ入る前に、エリオたちは合図を増やした。
先ほど使った鳥の声に加え、短い鐘を二度なら集合、三度なら即時撤退と決める。《残響記録》による音だけがこの場所でも通ると分かった以上、簡単な命令なら声を使わなくても伝えられる。
それでも、エリオには奇妙な感覚が残っていた。
自分がこれまで「外れスキル」と呼ばれてきた能力が、この遺跡では唯一まともに使える音の手段になっている。
偶然と考えるには、出来すぎているように思えた。
◇
無音の境界を越える。
音が消える感覚は、二度目でも慣れなかった。
自分の足が床を踏む感触はあるのに、それに伴うはずの音が存在しない。呼吸によって胸が上下しているのも分かるが、息が喉を通る音すら聞こえない。
人間が普段どれほど無意識に音を頼りにしているのか、ここへ入るたび思い知らされる。
エリオたちは互いの姿が見える距離を保ちながら、奥の円形の部屋まで進んだ。
十二脚の石造りの椅子。
中央の一段低くなった円。
そして、その場所からだけ聞こえる十二人分の声。
エリオは中央へ近づき、今度は初めから一人ずつ意識して聞いた。
昨日は全体の構造を把握することを優先していたため、十二人の声をそれぞれ細かく比較する余裕はなかった。しかし《残響記録》へ残った音を照合しながら聞けば、一人一人が何をどの順番で話しているのかまで区別できる。
最初の声は、低い男のものだった。
落ち着いた口調で長い古語を話し、その途中に例の三音節が入る。
『――ア・リエ――』
二人目は年配らしい女。
三人目は若い男。
四人目は少し掠れた女。
声も話している文章も違う。
それなのに、十二人全員が必ず一度だけ『ア・リエ』という同じ音を口にしていた。
エリオはそこで一つの違和感に気づいた。
同じ言葉。
同じ三音節。
しかし、完全に同じ音ではない。
普通なら当然のことだった。
人間が違えば、同じ言葉を発しても声の高さや癖は変わる。発音の微妙な長さも、母音の響き方も一致するはずがない。
ただ、十二人の『ア・リエ』には、声質以外にもわずかな差があった。
最初の音を少し高く発する者。
最後の音を伸ばす者。
二音目の入りをわずかに遅らせる者。
前世で録音を編集していた頃なら、波形を並べて比較したくなるような違いだった。
エリオは何度か聞き返し、その差を頭の中で分けていく。
すると、さらに奇妙なことに気づいた。
十二人が同じ言葉を言った直後、中央の床から非常に小さな音が返っている。
昨日は声そのものに意識を向けていたため聞き逃していた。
高い音。
それも十二回。
だが、返ってくる音はすべて同じではない。
低いもの。
高いもの。
短いもの。
ほとんど鳴らないもの。
そして、九人目の声のあとだけ。
澄んだ一音が、他より明らかに長く響いていた。
エリオはすぐに鳥の声を一度鳴らした。
停止の合図。
全員がこちらを見る。
エリオは中央の床と耳を交互に指し、それから九本の指を示そうとして少し困った。両手が必要になるため、セドリックが理解するまで何度か身振りを繰り返した。
フィーナが近づいてくる。
だが彼女には中央から出ている声そのものは聞こえても、その後に返る極小の音までは聞き取れないらしい。
エリオは一度外へ戻ることにした。
◇
「返事をしてる?」
説明を聞いたフィーナは、すぐにそう表現した。
「返事って言っていいのか分からないけど、十二人が同じ言葉を言うたびに、床から別の音が鳴ってます」
「全員に?」
「はい。でも反応が違う。九人目だけ明らかに強いです」
「発音の違いに反応してる可能性は?」
「僕もそれを考えました」
エリオは《残響記録》から、十二人分の『ア・リエ』だけを頭の中で比較した。
文章全体ではなく、三音節だけを切り出して並べる。
声質そのものを無視し、音程、長さ、間隔だけに注目すると、九人目だけが少し違う。
最初の『ア』から『リ』へ移るまでの間が、他の者よりほんのわずかに短い。
そして最後の『エ』が、わずかに低い。
「九人目だけ、発音の形が少し違います」
「間違えてるの?」
シリルが尋ねた。
「どっちが正しいのかは分からないです。でも、装置は九人目に一番強く反応してる」
「なら九人目が正解だった可能性があるわね」
フィーナが言った。
「発音試験みたいなものか」
セドリックの言葉に、エリオは少し考えた。
十二人が順番に同じ音を発する。
装置がそれぞれに違う反応を返す。
もし、一定の音を正確に再現できるか調べていたのだとすれば、確かに試験のようにも見える。
「でも、なんのために?」
誰も答えられなかった。
そこでフィーナが、手元の記録へ視線を落とした。
「少し気になることがある」
彼女は地下へ入る前から使っていた自分の魔術記録を取り出した。
「エリオ。今の九人目の『ア・リエ』、一度ここで聞かせられる?」
セドリックがすぐにフィーナを見る。
「再生して大丈夫なのか?」
「中ではやらない。ここなら今まで古語を再生しても何も反応してないし、それに全部じゃなく三音だけよ」
それでもエリオは少し迷った。
意味の分からない音を再生しない。
それは黒牙狼の一件以来、自分で決めたことでもある。
「何を確かめたいんですか?」
「先にこっちを聞いて」
フィーナは杖を持ち上げた。
「魔術は使わないから安心して。詠唱だけ言う」
彼女はごく簡単な照明魔術に使うという短い詠唱を口にした。
『リエ・アル・ソナ』
エリオは反射的に顔を上げた。
「今の、もう一度」
フィーナが同じ言葉を繰り返す。
『リエ・アル・ソナ』
似ている。
まったく同じではない。
だが、十二人の声に共通していた『ア・リエ』と、音の一部がかなり近い。
「やっぱり?」
フィーナもエリオの反応で分かったらしい。
「似てます。『リエ』の部分」
「私も昨日から少し引っかかってたの。古語には現代魔術の詠唱と似た音がいくつか出てくる」
「意味は同じなんですか?」
「分からない。古語はほとんど失われてるし、現代魔術の詠唱だって、全部の言葉の意味が分かって使われているわけじゃないもの」
その説明は、エリオには意外だった。
「意味が分からないまま使ってるんですか?」
「全部ではないけどね。今の魔術師が使う詠唱には、普通の言葉として意味が通る部分と、昔から決まった形で残っているだけの部分があるの」
「変えたら?」
「発動しなくなったり、効率が落ちたりする」
フィーナは当然のことのように言った。
「だから覚えるのよ。ここの音をこの高さで、この順番で言うって」
エリオは黙った。
その説明には、妙に聞き覚えがあった。
言葉の意味ではなく。
音の高さ。
順番。
長さ。
正しい形で再現する。
「……それ、言葉じゃなくて音が重要なんじゃないですか?」
フィーナもすぐには答えなかった。
彼女自身、その可能性に気づいていたのだろう。
「昔から、詠唱には発音が重要だとは言われてる。でも、それは魔力を正しく流すためだと説明されてきたわ」
「順番が逆かもしれない?」
「何が?」
「魔力を流すから正しい音が必要なんじゃなくて、正しい音を出すことで魔力が動くとか」
フィーナの表情が変わった。
セドリックも口を挟まず、二人の会話を聞いている。
エリオは自分でも考えながら続けた。
「例えば、扉もそうです。僕は意味を理解してない。でも、少女の声をそのまま再生すると開く。古い言葉だから開いてるんじゃなくて、音が合ってるから反応してる可能性もある」
「でも、普通の人が同じ発音をすれば?」
「それを十二人で試してたのかもしれない」
言った瞬間。
全員の視線が、無音区画の奥へ向いた。
十二人。
同じ三音節。
違う発音。
それぞれに返される異なる反応。
九人目だけ、強い音。
もしあれが、正しい発音を判定するための記録だとしたら。
「つまり、あの部屋で発音を調整してた?」
シリルが尋ねた。
「可能性はあるわ」
フィーナはまだ慎重だった。
「ただ、それだけで古代魔術全部が音だったなんて結論にはできない。今ある材料は、古い設備が特定の音に反応することと、現代の詠唱に似た音が残っていること。それだけよ」
「でも調べる価値はある」
セドリックが言った。
エリオも頷いた。
「九人目の音を、現代の詠唱と比べてみたいです」
「それなら外でやりましょう」
フィーナは少し考えたあと、単純な照明魔術の詠唱をいくつか教えてくれた。
どれも日常的に使われる初歩魔術で、危険なものではない。エリオはそれを一つずつ記録し、十二人の声と比較する。
完全に一致するものはなかった。
ただし、部分的に似ている音はいくつも見つかった。
『リエ』
『ソル』
『ネア』
少女が八つの扉を開くときに使っていた音の中にも、同じようなものが含まれている。
偶然の一致と片付けるには、少し多かった。
「現代の詠唱が、古い言葉から残ったものならおかしくはないけど」
フィーナは自分の記録へ新しい書き込みをしながら言った。
「問題は、意味じゃなく音そのものが残っている可能性よね」
「昔の人が使ってた言葉を、意味も分からないまま真似してる?」
シリルが言うと、フィーナは顔をしかめた。
「そんな単純な話じゃないと思う。でも……絶対に違うとも言えない」
その言葉を聞きながら、エリオは前世のことを思い出していた。
何十年も前に録音された古い音源。
元の機材も、録った人間も、場所も失われている。
それでも音だけが残り、後の人間がそれを聞く。
そして、元の意味を知らないまま利用することだってある。
もし、この世界の魔術も同じなのだとしたら。
古代の人々が使っていた何かが失われ。
音だけが伝わり。
意味を知らない後世の人間が、使える部分だけを残した。
そう考えると、現代魔術の詠唱に意味不明な部分が残っていることにも説明はつく。
もちろん、まだ想像にすぎない。
セドリックが昨日言った通り、都合のいい材料だけをつないで答えを決めてしまうべきではない。
それでも、一度生まれた疑問は消えなかった。
◇
無音区画へ三度目に入ったとき、目的は一つだけだった。
九人目の声の前後を、完全に記録する。
今度はエリオだけが中央へ近づき、セドリックがすぐ後ろに立った。ほかの三人は入口側に残り、異常があればすぐ撤退できる位置を取っている。
エリオは九人目の声に集中した。
若い女の声だった。
少女というほど幼くはない。
落ち着いた話し方をしている。
文章の意味は分からないが、『ア・リエ』を口にする直前だけ、一度長く息を吸っていた。
そのあと、三音節を慎重に発する。
装置から澄んだ音が返る。
さらにその直後。
今まで意識していなかった、ごく短い別の声が混じっていた。
エリオは聞き逃さなかった。
九人目の女とは違う。
少し離れた場所にいる男の声。
たった一言。
古語だった。
エリオには意味が分からない。
それでも、その音を完全に記録した。
そして全員で無音区画を出たあと、フィーナに聞かせた。
『――セラ』
フィーナは一度聞いただけでは分からなかった。
二度目。
三度目。
彼女は手元の古語記録をめくり、しばらく考えた。
「これ……もしかしたら」
「分かる?」
「古い文献に似た音がある。確実じゃないけど」
フィーナは記憶を辿るように、ゆっくり答えた。
「『正しい』とか、『一致した』とか。そういう意味だったと思う」
エリオは何も言わなかった。
十二人が同じ音を発する。
装置が反応する。
九人目だけ、強い反応。
そして誰かが、
『一致した』
そう告げた可能性がある。
それなら、十二人の声が残されている理由にも筋が通る。
正しい音を探していた。
あるいは。
誰が正しく再現できるかを調べていた。
エリオは、自分の右手を見た。
《残響記録》には、九人目の『ア・リエ』が完全な形で残っている。
彼女が一度発した音を。
自分なら何度でも、寸分違わず再生できる。
声質も。
高さも。
間も。
呼吸さえも。
この能力が、どうして「音を覚えるだけ」なのか。
初めて教会でそう説明されたときには、何の役に立つのか分からなかった。
今でも、答えが分かったわけではない。
ただ。
もし古代の魔術にとって、正確な音を再現することが重要だったのなら。
《残響記録》は。
この時代の誰よりも、それに向いている。
そう考えた瞬間、エリオは自分の能力を得た七歳の日以来初めて、あの恩恵の名前が少しだけ違って見えた。
外れだったのではない。
使い道が、忘れられていただけなのかもしれない。




