音を残すための部屋
翌朝、エリオが目を覚ましたとき、森にはまだ薄い霧が残っていた。
夜のうちに気温が下がったらしく、草の先には細かな露がついている。近くでは、すでに起きていたバルガスが焚き火を起こし直しており、乾いた枝が燃え始める音が静かな森の中へ小さく広がっていた。
エリオは身体を起こしながら、まず周囲の音を確認した。
鳥の声が三種類。
少し離れた場所を、小型の獣が一匹通っている。
風は弱い。
昨日神殿から出たときと比べても、特に危険を感じる音はなかった。
「起きた?」
声をかけてきたのはフィーナだった。
彼女はすでに朝食を済ませたらしく、膝の上に昨日の記録を広げている。その横には、神殿で見つけた透明な筒を包んだ布が置かれていた。
「早いですね」
「あなたが遅いのよ」
「普通だと思うけど」
「セドリックなんて一時間くらい前から起きてるわよ」
言われて視線を向けると、少し離れた場所でセドリックとシリルが話していた。どうやら今日の調査について相談しているらしい。
昨日地下から出たあと、エリオは自分でも思っていた以上に疲れていたらしく、夕食を終えて横になるとすぐに眠ってしまった。
《残響記録》を使いすぎたせいなのか、単純に未知の情報を処理し続けたせいなのかは分からない。ただ、一晩眠ったことで頭の重さはほとんど消えている。
「昨日の音、まだ全部覚えてる?」
フィーナが尋ねた。
「もちろん」
「疲れても消えたりしないのね」
「音そのものは消えないです。思い出すのが少し面倒になることはあるけど」
「便利なのか不便なのか分からないわね」
「僕は便利だと思ってます」
それは昔から変わらない。
覚えたくない音まで残るという問題はあるが、それでも音が失われないことを不便だと思ったことはなかった。
フィーナは記録へ視線を戻しながら、何気ない調子で尋ねた。
「昨日、お母さんの声が聞こえたでしょう?」
エリオは一瞬だけ答えるのが遅れた。
「はい」
「大丈夫?」
「……たぶん」
フィーナはそれ以上深く聞かなかった。
セドリックもそうだったが、このパーティの人間は、相手が話したくないところへ無理に踏み込まないらしい。
エリオはそのことをありがたく思った。
十五年ぶりに前世の母の声を聞いた。
驚かなかったと言えば嘘になる。
会いたいとも思った。
それでも、だからといって今の世界が偽物になったわけではない。リディアもガイルも自分の両親であり、ミラやルークと過ごした時間も現実だ。
二つの人生が、どちらも自分の中に存在している。
今はまだ、それでいいような気がしていた。
◇
朝食を終えたあと、一行は再び神殿へ向かった。
昨日と同じ入口を通り、長い階段を地下へ降りる。二度目だからといって警戒を緩める者はいなかった。
シリルが先頭で罠や痕跡を確認し、その後ろをセドリックとバルガスが進む。エリオとフィーナは中央に入り、昨日と同じ隊列を保ったまま円形の部屋へ到着した。
中央の台座は昨日と同じように沈黙していた。
八つの扉のうち、すでに四つが開いている。
音の円盤が置かれた部屋。
無数の記録が並ぶ保管庫。
植物を育てていたらしい区画。
空気を循環させる設備。
四つを見ただけでも、最初に抱いていた「古い神殿」という印象は完全に崩れていた。
ここは何かを保存し、長期間維持するために作られた施設なのではないか。
今のところ、その考えが最も自然だった。
「体調は?」
五つ目の扉へ向かう前に、セドリックがエリオへ確認した。
「問題ないです」
「頭痛とか、昨日の円盤に触れた影響は?」
「ないです」
「なら続ける。ただし、昨日より慎重に行く」
エリオが頷くと、フィーナも杖を構え直した。
少女の記録から五つ目の扉に対応する音を探す。
今回は短い四音節だった。
『――レア・ノル』
エリオが正確に再生すると、扉の中央にあるくぼみが赤みを帯びた光を放った。
これまでと同じように光の線が石の表面を走り、重い扉が少しずつ左右へ開いていく。
ところが、完全に開いた瞬間。
エリオは違和感を覚えた。
「待って」
全員が動きを止める。
セドリックが扉の向こうを見ながら尋ねた。
「何かいるか?」
「違います」
エリオは眉を寄せた。
「何も聞こえない」
シリルが怪訝な顔をした。
「何もいないなら普通だろ」
「そうじゃなくて」
エリオは一歩だけ扉へ近づいた。
その先には細い通路が続いている。見たところ危険なものはなく、床も壁もこれまでの区画と大きく変わらない。
それなのに。
「反響がない」
エリオが言うと、フィーナが扉の向こうへ目を向けた。
「反響?」
「今、僕たちが話してる声も、この部屋では壁に当たって少し返ってくる。でもあの通路の中には入っていかない」
セドリックは足元にあった小さな石を拾った。
「試していいか?」
「はい」
彼が石を扉の向こうへ軽く投げる。
石は床へ落ちた。
その動きは見えた。
だが。
音がしなかった。
石が床にぶつかったはずなのに、何も聞こえない。
「……気味悪いな」
シリルが低く呟いた。
フィーナが小さな光球を作り、通路の中へ飛ばす。
光は問題なく進んだ。
「魔力は通るみたい」
「音だけ?」
エリオは扉の境目へ近づき、指先で床を軽く叩いた。
こちら側では、石を叩いた乾いた音が聞こえる。
今度は腕だけを扉の向こうへ伸ばし、同じように床を叩く。
感触はある。
だが、音が聞こえない。
「消えてる」
エリオは手を引いた。
「音が?」
「たぶん。小さくなってるんじゃなくて、本当に返ってこない」
フィーナの表情が一気に真剣になった。
「そんな術、私は知らない」
「防音じゃないの?」
前世では、音を外へ漏らさないための部屋は珍しくなかった。録音スタジオや無響室のように、反射を極端に減らす場所も存在する。
ただ、これはそれとも違う。
吸音材らしいものはない。
石壁しかないのに、音そのものが途中で途切れている。
「僕がいた世界にも音を吸収する部屋はありました。でも、ここまで完全に消えるのは変です」
「中に入ったら、声も聞こえなくなる?」
セドリックが尋ねた。
「可能性はあります」
それは戦闘より厄介だった。
声で合図できない。
足音も聞こえない。
エリオ自身、《残響記録》の大半を使えなくなる可能性がある。
「どうする?」
フィーナがセドリックを見る。
彼はすぐには答えず、通路を観察した。
「全員では入らない。まず俺とエリオで入口だけ確認する」
「僕?」
「音の変化を一番正確に判断できるのがお前だからだ。ただし、俺から絶対に離れるな」
エリオは頷いた。
バルガスとシリルが入口で待機し、フィーナも何かあれば魔術で援護できる位置に残る。
セドリックとエリオは並んで通路へ足を踏み入れた。
境界を越えた瞬間だった。
世界が変わった。
音がない。
自分の足が床へ触れている感触はある。
服も動いている。
呼吸もしている。
それなのに、一切聞こえない。
耳を塞いだときとも違う。
耳鳴りすらない。
自分の身体から生まれるはずの音まで完全に消えている。
エリオは反射的にセドリックを見る。
彼も同じだったらしく、口を動かして何か言っているが声は届かない。
エリオはすぐに頷き、離れないという意味で自分の腕を指した。
二人は慎重に数歩進んだ。
後ろを振り返れば、フィーナたちが見える。
こちら側から彼らの声は聞こえない。
フィーナが何かを言いながら手を振っている。
完全な無音。
エリオは生まれて初めてと言っていいほど、その状態に強い不安を覚えた。
前世からずっと、音は周囲を知るための情報だった。
姿が見えなくても、音があれば何かがいると分かる。
後ろから人が近づけば足音で分かる。
風向きも。
空間の広さも。
危険も。
今は、そのすべてを奪われている。
目に見えるものだけで世界を判断しなければならない。
それがこれほど心細いとは思わなかった。
エリオは無意識に《残響記録》へ意識を向けた。
せめて記憶の中の音を再生できるか試す。
昨日聞いた焚き火の音。
頭の中では聞こえる。
能力そのものが失われたわけではない。
ならば外へ再生できるか。
エリオはごく小さく、鳥の声を一つ再生した。
何も聞こえない。
しかし。
セドリックが突然こちらを見た。
エリオは驚いて動きを止めた。
聞こえたのだろうか。
セドリックが自分の耳を指し、それからエリオを指す。
意味は分かった。
もう一度。
エリオは同じ鳥の声を再生した。
今度はセドリックがはっきり頷いた。
エリオ自身には聞こえない。
だがセドリックには聞こえている。
なぜ。
エリオは少し考えてから、今度はセドリックに何か声を出してもらうよう身振りで伝えた。
彼が口を動かす。
やはり何も聞こえない。
普通の声は消える。
《残響記録》で再生した音だけは届く。
この違いが何を意味するのか。
エリオはもう一度鳥の声を鳴らし、指で二人の間を示した。
セドリックは理解したらしく、少し驚いた表情を見せる。
二人はそのまま入口へ戻った。
境界を越えた瞬間、音が一斉に戻ってきた。
「どうだった?」
フィーナの声。
森ではない。
神殿の地下。
なのに、それすらひどく安心できる音に感じた。
「中は完全に無音です」
エリオはそう言ってから、すぐに続けた。
「でも、《残響記録》で出した音だけ、セドリックには聞こえました」
「俺にもはっきり聞こえた」
セドリックが頷く。
フィーナは信じられないという顔をした。
「普通の音は消えるのに?」
「少なくとも声も足音も聞こえなかった」
「じゃあ《残響記録》は、普通の音と違う方法で鳴ってる?」
その可能性は以前から考えたことがある。
鳥の鳴き声を再現するとき、エリオの喉が鳥と同じ構造になるわけではない。鐘を再生しても、金属がどこかで振動しているわけではない。
魔力を使って音そのものを作り出しているのだと思っていた。
「この施設の魔術と近い仕組みなのかも」
フィーナはそう呟いてから、自分の言葉に驚いたように黙った。
《残響記録》と古代施設。
また一つ、両者を結びつける材料が増えた。
◇
五人全員で通路を進むことになったのは、《残響記録》を合図として使えることが分かってからだった。
事前に音の意味を決める。
短い鳥の声を一回なら停止。
二回なら前進。
犬の短い鳴き声なら後退。
危険を感じた場合は、町の鐘を一度だけ大きく鳴らす。
エリオが合図を担当し、全員が必ず互いの姿を確認できる距離を維持する。
会話ができない分、普段以上に慎重に進んだ。
通路は五十メートルほど続いていた。
その先には、これまでで最も広い部屋があった。
壁も床も黒に近い石で作られており、中央には円形のくぼみがある。直径は五メートルほどで、そこだけ床が一段低くなっていた。
周囲には椅子のような形をした石が並んでいる。
全部で十二。
エリオは部屋へ入った瞬間、奇妙なことに気づいた。
ここでも外部の音は聞こえない。
しかし中央の円形部分からだけ、かすかな音がする。
エリオはセドリックへ合図を送り、中央を指した。
全員が慎重に近づく。
音は非常に小さい。
人の声。
一人ではない。
何人もの声が重なっている。
エリオはその場へ膝をつき、円形部分へ耳を近づけた。
《残響記録》を使わなくても聞こえる。
つまり、この空間では中央から出る音だけが消されていない。
声は古語だった。
意味は分からない。
ただ、話している人数は十二人。
周囲に並んだ椅子の数と一致している。
エリオは慎重に記録した。
一人ずつ声質が違う。
男も女もいる。
年齢もばらばらに聞こえる。
そして、一定の間隔で全員が同時に同じ音を発している。
何かを唱えているようにも聞こえた。
エリオはセドリックたちへ戻り、鳥の声を一度鳴らして全員を止めた。
それから出口を指す。
ここでは説明できない。
一度外へ出る必要がある。
全員が来た道を戻った。
◇
「十二人?」
無音区画を出たところで、エリオが説明するとフィーナが確認した。
「はい。声だけなら十二人います。中央の円形部分から聞こえてました」
「椅子も十二だったな」
シリルが言う。
「昔ここにいた人間の記録か?」
「可能性はある」
エリオは頭の中で十二人の声を順番に再生しながら答えた。
「ただ、普通に話してるんじゃなくて、途中で全員が同じ音を言ってます」
「詠唱?」
「似てるけど、今までの古式詠唱とは少し違う気がします」
「聞かせて」
フィーナに頼まれ、エリオはまず一人分だけを再生した。
長い古語の文章。
途中で短い間が入り、そのあと同じ三音節が続く。
フィーナは真剣に聞いていた。
「もう一人」
二人目を再生する。
声も文章も違う。
だが、途中に入る三音節だけは完全に同じだった。
三人目。
四人目。
同じ。
「この部分だけ共通してる」
フィーナが言った。
「意味は?」
「分からない。でも、さっきの扉を開けるための言葉とは発音の型が違う。もっと……名前に近いかもしれない」
「名前?」
「古い魔術では、対象を指定するときに固有の音を使うことがあるの。現代魔術では簡略化されてるけど」
エリオは共通する三音節をもう一度頭の中で確認した。
『――ア・リエ』
それが十二人全員の声に含まれている。
「再生しない方がいいですね」
エリオが言うと、セドリックは即座に頷いた。
「意味が分かるまではな」
以前なら、自分でも試してみたいという気持ちの方が勝っていたかもしれない。
だが、今は違う。
音が何かを動かすことを、すでに何度も見ている。
それに、無音区画の中で《残響記録》だけが通ったという事実も気になった。
この能力は、現代の人々が考えているよりはるかに古代魔術に近いのかもしれない。
エリオは扉の向こうを振り返った。
音が消える空間。
その中で残された十二人の声。
普通の音は通らないのに、《残響記録》だけは仲間へ届いた。
もしこの部屋が、外から音を遮断するために作られたのだとしたら。
「これ、何かを聞かれないための部屋だったのかな」
エリオが口にすると、フィーナが少し考えた。
「秘密の会議?」
「それなら普通に防音すればいいでしょう?」
「古代人の普通を私に聞かないで」
その返答に、エリオは少し笑った。
だが、セドリックは別の可能性を考えていたらしい。
「逆じゃないか」
三人が彼を見る。
「聞かれないためじゃなく、聞かないため」
「どういうこと?」
「外の音を完全に遮断して、ここにいる人間の声だけを残す必要があったとしたら?」
エリオは再び無音区画を見る。
その発想はなかった。
外から入る音を消す。
中央の声だけを残す。
十二人が同じ音を繰り返す。
「何かを正確に記録するため?」
エリオが言うと、セドリックは頷いた。
「お前が前の世界で音を録るとき、余計な音が入らない場所を使うことはなかったか?」
「ありました」
録音スタジオ。
防音室。
無響室。
目的は違っても、不要な音を減らして必要な音だけを記録するという考え方は同じだ。
エリオはその瞬間、部屋の見え方が変わった気がした。
音が消える部屋ではない。
音を正確に残すための部屋。
もしそうなら。
十二人の声は、偶然残っているのではない。
残すために、ここで話していた。
「……録音室だ」
前世の言葉が、自然と口から出た。
誰にも意味は分からなかったが、エリオにはそれが一番近いように思えた。
何百年、あるいは何千年も前。
この場所を作った者たちは、音を保存する技術を持っていた。
そして、それだけではなく。
音を正確に残すための環境まで作っていた。
相沢律が前世でやっていたことと、あまりにも似ている。
偶然だと思うには。
少しずつ、似たものが増えすぎていた。




