第9話 桜町の白犬『桜町の犬に、石を投げるな』
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『桜町の犬に、石を投げるな』
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「うちの人は、下戸です」
女房のフサさんは、うちの土間に立ったまま、名乗りより先にそう言った。
「桜町で市電を脱線させたことになっている、運転手の堀田の女房です。会社は言うんです。うちの人はあの朝酒を飲んでいた、線路に飛び出した野良犬に慌てて速度を誤ったと。……猪口一杯で真っ赤になって寝ちまう人が、勤めの朝に酒なんぞ飲むもんですか」
脱線の話は、うちの路地にも届いていた。死んだのは運転手ひとり。乗客に大怪我はなく、会社の発表だけが、妙に早かった。
「会社は弔慰金も削るって。娘に、父親は酔っ払いの人殺しだったと思わせたまま、あたしは」
言葉が切れた。切れた先を言わせるのは、商売の流儀に反する。
指の節が太く、膏薬の跡。洗い張りの賃仕事の手だ。弔慰金を削られ、内職を始めた手で、払いは一銭の欠けも余分もなく揃えてきた。堅い人である。
堅い人の亭主が、朝から酒を飲むものか。
フサさんは、泣かなかった。泣く段取りを、置き忘れてきた顔だった。
「お受けします。祝言は——車庫で、いかがでしょう」
「車庫?」
「あの方の職場です。花婿を、勤め先から送って差し上げましょう」
フサさんは初めて、目の縁を赤くした。
「……あの人、車庫の電車を、娘に自慢するんです。俺が磨いてるんだぞ、って。磨くのは、別の係の仕事なのに」
下戸で、見栄っ張り。人柄は、半端な話の方によく残る。
フサさんを送り出して、私は框に座り直した。
人死にの出た事故は、誰かのせいにならないと終われない。運転手と、犬のせいになった。
桜町では今、あの曲がり角に住み着いた白犬に、石を投げる者がいるという。
死んだ人と、犬。言い返せない側にばかり、払いが回っている。
祝言より先に、車庫へ下見に出た。
場所を借りる談判は、当直の車掌さんが渋った。立会人の軍服が黙って隣に立つと、通った。番屋にも回ったそうで、検死の書付の写しを、職分の顔で取ってきていた。
詰所の棚に、整備簿と運転日誌の綴りがあった。車掌さんに断って、検めさせてもらった。
運転日誌の堀田さんの欄。あの曲がり角の手前で、毎朝きまって徐行の付けがある。理由の欄は、白い。
整備簿は、綴じ紐の穴に指を掛けて数えた。穴が、ひとつ多い。
数えたことだけ、胸に置いて帰った。
終電後の車庫は、鉄と油の匂いのする伽藍だった。
庫内の電車が三輌、暗がりに並ぶ。吊り革が天井から真っ直ぐに下がって、遠目には数珠のようだ。運転台の脇に位牌を据え、私は白無垢で立った。
盃は白湯で満たした。下戸の方に、酒を強いる理屈はない。
位牌の脇には、会社から返された遺品。畳んだ制服と制帽。制服の隠しから、油紙の小さな包み。開くと、煮干しである。
入口の方で、かたりと音がした。
白犬だった。敷居の外にちょこんと座って、こちらを見ている。
首に、色の褪せた手拭い。毛艶もいい。野良の毛並みではない。誰かに、飼われている犬だ。
石を投げられている犬が、夜中、ここへだけは来る。
三三九度。末期の水。
耳を澄ます。
『——桜町の犬に、石を投げるな』
最期の息で、犬の心配か。
酔って犬に慌てた男の言葉としては、できすぎている。
綿帽子の内で、数えてみる。
酔って人死にを出した男なら、最期に置くのは詫びだ。悪くて、犬への恨み言だ。庇う筋が、出てこない。
会社の発表を、頭の中に並べ直す。飲酒。犬に慌てた。どう弾いても、あのひと言と釣り合わない。
検算が合わないときは、置いた数のどれかが嘘だ。数を置いたのは、会社である。
夜明けの茶は、車庫の隅の詰所で。当直の車掌さんが、渋りながらも火を貸してくれた。
棚には車掌の鋏と切符の束。柱の当番札には、堀田の名がまだ掛かっていた。
「昨夜の白いの、ご覧になりましたか」
湯呑みを並べながら、訊いた。
「ああ。角の先に、遺児の養育院がありましてね。あすこの、目の見えない女の子の犬ですよ。朝夕、犬だけが角まで散歩に出る」
「堀田さんは、ご存じだったんでしょうか」
「さあ。……いや、知ってたんでしょうな。あの人の徐行は、あの角だけ、時計で計ったようだった」
私は指を折った。この数え方は、そろそろ癖になってきた。
「番屋の検死の書付に、酒気の文字がありません。飲酒と言っているのは、会社の発表だけ。運転日誌には、あの角の手前で毎朝の徐行。理由の欄は白いまま。理由なら、隠しの煮干しが教えてくれました。それから、整備簿」
「綴じ紐の穴が、ひとつ多かったな」
下見の晩の私の手つきを、横で見ていた人だ。
「頁を、差し替えたんです。綴じ直せば、穴は増える。中身は繕えても、綴じまで気の回る手は少ない」
それから、筋を並べた。
「あの朝、犬が線路に出た。堀田さんはいつも通り徐行していて、それでも避けきれず、非常制動をかけた。そこで——切れてはいけないものが、切れた」
「制動機か」
「差し替えられた頁に何が書いてあったか。そこから先は、私には調べられません」
「俺にも管轄外だ」立会人は言った。「だが、監督官庁には貸しがある。それと、新聞記者というのは、差し替えた紙の匂いに聡い」
立会人は湯呑みを干して、付け足した。
「宵坂銀子。指折り数える女房というのは、所帯が堅くていい」
「求婚でしたら、承っておりません」
「まだ何も言っていないが」
「言う前のお顔をなさっていました」
手控えを出す。本日の求婚、一件。未遂につき、却下。
「未遂も載るのか」
「うちの帳面は、正直が身上ですので」
帰りぎわ、立会人は車掌さんに何か短く言い、銭を押し付けた。翌る朝から、車庫の敷居に煮干しの皿が出るようになったらしい。誰の指図かは、聞かないでおく。
ひと月後、監督官庁の検査が入り、電鉄会社は整備費の削減と制動機の欠陥、それから綴りの改竄を認めた。飲酒の発表は取り消され、弔慰金は満額に、堀田さんの名は「乗客を守った殉職」に書き直された。
石を投げられていた白犬は、あれきり石を投げられていない。
桜町の犬に、石を投げるな。
犬を庇い、犬の主の女の子を庇い——それからきっと、罪のない者を石持て追うなという、あの人自身の叫びでもあったのだろう。あの人は最期の息でさえ、他人の心配をしていた。
「宵坂さん」
弔い直しの帰り、見覚えのある藤宮家の車が停まっていた。
紗雪様である。忍びでもなんでもなく、堂々と、うちの路地の入口に。
「御礼に伺いましたの。それから、申し上げに」
「日当は頂いておりますが」
「日当ではないと申しましたでしょう」
伯爵令嬢は、扇を閉じて、はっきり言った。
「私、あなたの友人に、なりたくてよ」
……友人。
死人の花嫁の商いを始めてこの方、聞いたことのない言葉だった。
値の付けようのないものは、昔から苦手だ。
「あの、藤宮様。私は」
「紗雪、と。友人ですもの」
華族のお嬢様というのは、よく分からない。
よく分からないまま、断る理由も、見つからなかった。




