第8話 死出の草鞋『五足目の草鞋は、編むな』
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『五足目の草鞋は、編むな』
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その依頼人は、本家で門前払いを食って、うちの戸を叩いた。
「銭なら、ここに」
真山トメさんは、上がり框に風呂敷を置いた。解くと、小銭である。一銭銅貨と五銭白銅貨が、幾重にも紙に包んで、十文字にきっちり括ってある。行商の婆様が、何年もかけて貯めた銭の顔をしていた。
「検めとくれ、花嫁さん。行商の銭は、目の前で勘定するのが仁義だ」
その場で、検めた。包み紙は古い引き札の裂きで、端に鉛筆の細い字で日付が振ってある。貯めた日を、書き付けてきた銭だ。
「本家さんには、うちは兵隊さんの冥婚は請けないと言われた。……脱走兵の、冥婚は」
言ってから、トメさんは小さく付け足した。
「本家さんを悪くは言わんよ。看板ってのは、そういうもんだ」
祖母のたけが、火鉢の向こうで煙管を置いた。
「息子さんかい」
「正太。二十一だ。在から出した三男坊で……夜中に営舎を抜けて、川で溺れて死んだと。軍からの報せは、それきりだ」
脱走を図った卑怯者。連隊の記録には、そう載っているという。
「あの子はな、花嫁さん」
トメさんは、私の方へ膝を回した。
「手のかからん子だった。手のかからん子ってのは、我慢の上手い子ってことだ。そういう子が、逃げるかね」
それからもうひとつ、と声を低くした。
「洗い場の兵隊さんが、こっそり教えてくれたことがある。真山の襦袢にだけ、いつも他人の血がついてた、って。あの子はね、人を殴る子じゃないよ」
他人の血。
意味は、まだ取れない。取れない話は、そのまま胸に仕舞った。
「……お受けします」
「銀子」と祖母が言った。「銭は」
「頂きます。——半分は、祝言のあとで」
祖母は何も言わなかった。同情はおまけでいい。おまけの付け方は、こっちの裁量だ。
包みの日付は、五年前から始まっていた。三男坊の母親が五年がかりで貯める銭の使い道なんぞ、決まっている。嫁取りの銭だ。それが今夜、冥婚の払いになる。
勘定は合っているのに、どこも合っていない。
祝言は、在から出てきたトメさんの泊まる、木賃宿の二階で挙げた。
九尺二間に白無垢は、燭台ひとつでも眩しすぎる。畳の繕い跡の上に楊枝を立てたような、白の異物感。それでいい。弔いの白は、場所を選ばない。
立会人は、今夜は階下で待っている。軍服が枕元にあっては、正太さんが落ち着くまい、と自分で言った。そういう気の回し方をする軍人を、私は他に知らない。
階下からは、足音ひとつ上がってこなかった。響かせない座り方をしているのだろう。
位牌の前に、遺品が並ぶ。軍から返ってきたのは、行李ひとつ。襦袢、手紙の束、それから——草鞋が、四足。
どれも、踵が斜めに、深く擦り減っていた。
断って、検めさせて頂いた。編み目は細かく、藁は打って柔らかくしてから固く締めてある。母親の手の仕事だ。
なのに息子の手紙には、こうあったそうだ。行軍が楽になったから、草鞋はもういらない、と。
三三九度。末期の水。
耳を澄ます。
『——五足目の草鞋は、編むな』
草鞋。
トメさんの手を見る。あかぎれの筋に、藁の脂が染みた手だ。季節ごとに編んで、慰問袋に入れて送っていたという。四足目までは、届いた。
綿帽子の内で、いつものように数えてみる。
手紙では、いらない。最期には、編むな。断りが、禁止に変わっている。いらないと言われてなお編む母親だと、知り抜いた言い方だ。
数えはそこで止まった。先は、朝に回す。
「いらないはずの草鞋が」私は遺品の四足を、燭台に寄せた。「どうして四足とも、履き潰してあるんでしょうね」
夜明けの茶は、宿の階下で。番茶に、立会人は口をつけなかった。代わりに、私の話を最後まで聞いた。
湯呑みは、ふたつ出ていた。頼んだのは立会人だ。
手紙の束は、昨夜のうちにトメさんが持たせてくれた。筆が乱れれば、字は流れる。あの字は角張って震えていた。壊れているのは筆ではなく、指の側だ。
「筋が、三つ通りません」
指を折る。
「行軍が楽になったと書いた人の草鞋が、四足とも、踵まで擦り切れています。手紙の字は、三通目から急に乱れる。指を痛めた字です。それから、トメさんの仰った洗い場の話。真山さんの襦袢にだけ、いつも他人の血がついていた」
立会人は湯呑みを置いた。仕事の顔だった。
「……古参兵の、私的制裁だな」
「軍では、あることなんですか」
「あってはならんことに、なっている」
なっている、という言い方に、全部入っていた。
立会人は立ち上がり、軍帽を取った。
「連隊の懲罰記録と、当夜の点呼簿を引く。軍の綴りは、軍人にしか開かん」
「開いて、どうなさるんです」
「決まっている。帳面を、書き直させる」
それから軍帽を被り、戸口で一度だけ振り向いた。
「帳面といえば。お前のところの別綴りも、いずれ書き直させるからな」
「うちの綴りに、書き直しの例はございません」
「軍にも、なかった。これから作る」
言うだけ言って、一礼して、出て行った。
戸口が閉まってから、あれを求婚へ数えるべきか迷った。結局、手控えは開かなかった。求婚より厄介な約束もある。
十日後、答えが出た。
あの夜、川に落ちたのは正太さんではなかった。古参兵の制裁で投げ込まれた同年兵を、正太さんが飛び込んで引き上げ、自分が流された。同年兵は口を封じられ、連隊は制裁の発覚を恐れて「脱走」で綴じた。
知らせを持って行ったのは、立会人だ。トメさんの前で、点呼簿の写しを開いてみせた。
「当直の判が、当夜だけ二つ押してあった。人数の合わない夜を、合ったことにした判だ。軍法会議は、判の数までは誤魔化せん。綴じた紙は、三日で開いた」
脱走の二字は、消えた。
トメさんは板の間に手をついて頭を下げた——まず位牌に、それから軍服に。順番を間違えない人だった。
五足目の草鞋は、編むな。
あかぎれの手を、もう休ませてやりたかったのだろう。それから、たぶん。死出の旅路には、草鞋を履かせて送る習いがある。経帷子に杖、真新しい草鞋。死んだ人は、旅の支度で野辺へ出る。俺に死出の草鞋はいらない、俺は逃げた足で死んだんじゃない。
そういう、最後の意地でもあったのだと思う。
「……名誉ってのは、紙一枚なんだな」
帰り道、立会人がぽつりと言った。
「死んだ人間の名誉なんぞ、書き方ひとつで、どうにでも作れる。どうにでも、消せる」
「ええ」
「兄のときも、そうだった。『病死』の二字で、全部が綴じられた」
湿った言葉は、それきりだった。この人の湿り気は、いつも一行で終いだ。
トメさんは在へ帰る朝、五足目の草鞋を編んで、川に流したそうだ。
編むなと言われて、編まない母親が、どこにいる。




