第7話 対で焼かぬ盃『その盃は、対で焼かせた品ではない』
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『その盃は、対で焼かせた品ではない』
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真木子爵家は、絶える家だった。
当主が心臓麻痺で急逝し、跡取りはない。妻も、ない。生涯独身で通した人である。
「叔父は変わり者でしたが、筋目にはうるさい人でした。せめて弔いだけは、と」
依頼に来た喪主は、遠縁から急に呼ばれたという傍系の男だ。爵位は当主一代で返上、家財は整理、屋敷も手放す。家じまいの締め括りに、独り身の叔父へ冥婚を、という話だ。
役場勤めで、忌引きを九日貰って出てきたという。中どころの背広に、よく拭かれた眼鏡。叔父上と会ったのは、生涯で三度きりだそうだ。
「三度きりのご縁で、家じまいのご喪主を」
「他に、誰もいませんので」
男は困ったように笑い、それから律儀に付け足した。
「子供の時分、一度だけお屋敷に上がりました。叔父は黙って私の箸の持ち方を直して、帰りに蜜柑をひとつ持たせてくれました。……それだけの人です。それだけの人の弔いを、粗末にはしたくないのです」
日当の相談は、値切りもせず即金だった。家財を売り立てる側の人間が、弔いの銭だけは先に取り分けてある。筋目にうるさいのは、血筋らしい。
絶える家の、最後の祝言。うちの商売では、珍しくもない。
珍しかったのは、その先だ。
支度の前に戒名の彫りを検めるのは、うちの決まりごとだ。字をひとつ間違えた祝言は、商いにならない。
祝言の支度で菩提寺に入った私は、真新しい墓誌の前で足を止めた。
真木家代々の墓。その端に、当主の戒名が彫られている。それは、いい。
その隣に——女紋が、あった。
「喪主様。こちらの紋は」
「紋? ああ、家紋なら鷹の羽で」
「いえ、これは女紋です。奥方様のお墓に刻む紋。こちらの、戒名のお隣の」
女紋は、母から娘へ伝わる紋だ。妻の墓誌に刻むのは見慣れた習いで、見慣れているから、余計におかしい。
喪主は眼鏡を直して覗き込み、それから、心底不思議そうに言った。
「妻など、いたか?」
いたか、と訊かれても困る。いないから、冥婚なのだ。
石屋を呼んで確かめると、話はますます妙になった。
「へえ、確かにうちで彫りました。ひと月前です。注文は、奥方様の御実家筋だという使いの方で。金子は先払い、彫りは急ぎで、と」
石屋は胴巻きから注文の控えを出した。日付は、確かにひと月前。私は指を折って数えた。
「叔父が死んだのは、二十日前だぞ」
喪主の声が裏返った。
死ぬ十日前から、死んだ男の「妻」の紋が、墓に彫られていたことになる。
急いだのは石屋ではなく、注文した側だ。弔いの支度は普通、人が死んでから始まる。
祝言は、それでも執り行われた。
屋敷は半分がた、空だった。売り立ての紙札の下がった家財が廊下に並び、箪笥を退けた跡だけ、畳が青く残っている。人より先に、物から順に出て行く家だ。
仏間には婚礼の道具が、律儀にひと揃い出ていた。屏風、銚子、そして三三九度の盃。どれも、真新しい。
屋敷の始末に残った年寄りの家従が、供えの手を止めて教えてくれた。
「ひと月前でございます。見知らぬ使いの方が、婚礼のお道具一式だと届けて参りまして。旦那様は、注文した覚えはないと、しきりに首を捻っておいででした」
ひと月前。石屋の控えと、同じ頃だ。
道具が届いたとき、当主はまだ生きていた。首を捻る当人の目の前で、婚礼の支度だけが揃っていく。
床の間には高砂の掛軸まで掛かっている。連れ添うて共に白髪になる、尉と姥の絵。独りで生きて独りで死んだ人の祝言に、これほど似合わない絵もなかった。
花婿の席には、位牌がひとつ。戒名の墨は、まだ浅い。
参列は喪主ひとり。それから広間の端に、見慣れた軍服がひとつ。兄君の「妻」さがしをうちが引き受けてこのかた、この方は妙な筋の冥婚と聞くと、立会いの席を銭で買う。払いのいい客を断る道理は、うちにはない。
三三九度。末期の水。
耳を澄ます。
『——その盃は、対で焼かせた品ではない』
盃。
私は膝の前の朱盃を、蝋燭に近づけた。大中小の三つ重ね。上のふたつは古い品だ。よく使い込まれ、金の縁が同じところだけ掠れている。何十年も人の指と唇が同じ場所に触れて、はじめて金は剥げる。上のふたつは、本物の年月を渡ってきた盃だ。
いちばん下の大盃だけ、色が浮いている。
朱の色味がわずかに若い。高台の土の焼き色が違う。裏を返し、灯にかざす。似せて焼いてはある。それでも、これだけが後から一客、焼き増した品だ。
窯の火は、色は似せられる。年月だけは、似せられない。
三つ揃いの片割れが欠けて、後から補った。それだけなら、どこの家にもある話だ。そう見えるように古い盃と組ませたのだとしたら、手が込みすぎている。
「対の盃は、婚礼の証です」
夜明けの茶で、私は立会人に説明した。
茶といっても、売り立ての残りの番茶に、不揃いの湯呑みである。不揃いの湯呑みで対の盃の講釈をするのは、我ながら締まらない。
「三つ重ねの盃が仏間にあれば、ああこの家は祝言を挙げた家なのだと、誰でも思います。墓誌の女紋も同じ。……つまり、誰かが」
「死んだ男に、後から『婚礼の痕跡』を作っている」
立会人の声は、静かだった。静かな分だけ、硬かった。
「妻がいた証を、石と焼き物で拵えている。紙なら書けばいいものを、わざわざ形に残る物でだ。何のために」
「分かりません。ただ……」
ただ、気味が悪いのだ。
嘘というものは普通、隠すために吐く。なのにこの嘘は、彫って、焼いて、飾ってある。まるで、後から誰かが検めに来ることが決まっているみたいに。
「ご当人は、はっきり仰いましたよ。あの盃は対で焼かせた品ではない。ご自分の婚礼を、ご自分で否まれました」
「死人に、身に覚えのない妻がいる、か」
私は、いちばん口にしたくない筋を、口に出した。
「彫りの注文は、亡くなる十日前です。彫りが先で、死が後。先様は、ご当主が亡くなる日を、ご存じだったことになります」
「知っていたか。——決めていたかだ」
立会人は茶を置き、独り言のように付け足した。
「……兄と、同じだな」
番茶が冷めきるまで、どちらも黙っていた。障子が白む。空き家の朝は、音がない。
やがて彼は立ち上がり、去りぎわに、不揃いの湯呑みを一瞥した。
「盃というのは、対で焼かせるものらしいな」
「……ええ。婚礼の折には」
「覚えておく」
それだけ言って、喪主に一礼し、位牌にはもっと深く一礼して、出て行った。
手控えの隅に、つけておく。本日の求婚未満、一件。帳面のつけようがないので、備考の欄に回した。
帰り際、私は手控えを出して、墓誌の女紋を写し取った。
過去帳や墓誌の紋を写しておくのは、うちの商売の習い性だ。紋を辿れば、妻の里が知れる。里が知れれば、弔いの報せを届けられる。
揚羽蝶の、陰紋だった。
細い線だけで描かれた蝶は、写し取ると潰れて、ただの黒い染みのようになった。
どこの家の女紋かは、知れなかった。
真木子爵家は、その月のうちに絶えた。
妻の紋だけが、墓に残った。




