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第7話 対で焼かぬ盃『その盃は、対で焼かせた品ではない』

 ◆◆◆

 『その盃は、対で焼かせた品ではない』

 ◆◆◆


 真木子爵家は、絶える家だった。

 当主が心臓麻痺で急逝し、跡取りはない。妻も、ない。生涯独身で通した人である。

「叔父は変わり者でしたが、筋目にはうるさい人でした。せめて弔いだけは、と」

 依頼に来た喪主は、遠縁から急に呼ばれたという傍系の男だ。爵位は当主一代で返上、家財は整理、屋敷も手放す。家じまいの締め括りに、独り身の叔父へ冥婚を、という話だ。

 役場勤めで、忌引きを九日貰って出てきたという。中どころの背広に、よく拭かれた眼鏡。叔父上と会ったのは、生涯で三度きりだそうだ。

「三度きりのご縁で、家じまいのご喪主を」

「他に、誰もいませんので」

 男は困ったように笑い、それから律儀に付け足した。

「子供の時分、一度だけお屋敷に上がりました。叔父は黙って私の箸の持ち方を直して、帰りに蜜柑をひとつ持たせてくれました。……それだけの人です。それだけの人の弔いを、粗末にはしたくないのです」

 日当の相談は、値切りもせず即金だった。家財を売り立てる側の人間が、弔いの銭だけは先に取り分けてある。筋目にうるさいのは、血筋らしい。

 絶える家の、最後の祝言。うちの商売では、珍しくもない。

 珍しかったのは、その先だ。


 支度の前に戒名の彫りを検めるのは、うちの決まりごとだ。字をひとつ間違えた祝言は、商いにならない。

 祝言の支度で菩提寺に入った私は、真新しい墓誌の前で足を止めた。

 真木家代々の墓。その端に、当主の戒名が彫られている。それは、いい。

 その隣に——女紋が、あった。

「喪主様。こちらの紋は」

「紋? ああ、家紋なら鷹の羽で」

「いえ、これは女紋です。奥方様のお墓に刻む紋。こちらの、戒名のお隣の」

 女紋は、母から娘へ伝わる紋だ。妻の墓誌に刻むのは見慣れた習いで、見慣れているから、余計におかしい。

 喪主は眼鏡を直して覗き込み、それから、心底不思議そうに言った。

「妻など、いたか?」

 いたか、と訊かれても困る。いないから、冥婚なのだ。

 石屋を呼んで確かめると、話はますます妙になった。

「へえ、確かにうちで彫りました。ひと月前です。注文は、奥方様の御実家筋だという使いの方で。金子は先払い、彫りは急ぎで、と」

 石屋は胴巻きから注文の控えを出した。日付は、確かにひと月前。私は指を折って数えた。

「叔父が死んだのは、二十日前だぞ」

 喪主の声が裏返った。

 死ぬ十日前から、死んだ男の「妻」の紋が、墓に彫られていたことになる。

 急いだのは石屋ではなく、注文した側だ。弔いの支度は普通、人が死んでから始まる。


 祝言は、それでも執り行われた。

 屋敷は半分がた、空だった。売り立ての紙札の下がった家財が廊下に並び、箪笥を退けた跡だけ、畳が青く残っている。人より先に、物から順に出て行く家だ。

 仏間には婚礼の道具が、律儀にひと揃い出ていた。屏風、銚子、そして三三九度の盃。どれも、真新しい。

 屋敷の始末に残った年寄りの家従が、供えの手を止めて教えてくれた。

「ひと月前でございます。見知らぬ使いの方が、婚礼のお道具一式だと届けて参りまして。旦那様は、注文した覚えはないと、しきりに首を捻っておいででした」

 ひと月前。石屋の控えと、同じ頃だ。

 道具が届いたとき、当主はまだ生きていた。首を捻る当人の目の前で、婚礼の支度だけが揃っていく。

 床の間には高砂の掛軸まで掛かっている。連れ添うて共に白髪になる、尉と姥の絵。独りで生きて独りで死んだ人の祝言に、これほど似合わない絵もなかった。

 花婿の席には、位牌がひとつ。戒名の墨は、まだ浅い。

 参列は喪主ひとり。それから広間の端に、見慣れた軍服がひとつ。兄君の「妻」さがしをうちが引き受けてこのかた、この方は妙な筋の冥婚と聞くと、立会いの席を銭で買う。払いのいい客を断る道理は、うちにはない。

 三三九度。末期の水。

 耳を澄ます。


『——その盃は、対で焼かせた品ではない』


 盃。

 私は膝の前の朱盃を、蝋燭に近づけた。大中小の三つ重ね。上のふたつは古い品だ。よく使い込まれ、金の縁が同じところだけ掠れている。何十年も人の指と唇が同じ場所に触れて、はじめて金は剥げる。上のふたつは、本物の年月を渡ってきた盃だ。

 いちばん下の大盃だけ、色が浮いている。

 朱の色味がわずかに若い。高台の土の焼き色が違う。裏を返し、灯にかざす。似せて焼いてはある。それでも、これだけが後から一客、焼き増した品だ。

 窯の火は、色は似せられる。年月だけは、似せられない。

 三つ揃いの片割れが欠けて、後から補った。それだけなら、どこの家にもある話だ。そう見えるように古い盃と組ませたのだとしたら、手が込みすぎている。


「対の盃は、婚礼の証です」

 夜明けの茶で、私は立会人に説明した。

 茶といっても、売り立ての残りの番茶に、不揃いの湯呑みである。不揃いの湯呑みで対の盃の講釈をするのは、我ながら締まらない。

「三つ重ねの盃が仏間にあれば、ああこの家は祝言を挙げた家なのだと、誰でも思います。墓誌の女紋も同じ。……つまり、誰かが」

「死んだ男に、後から『婚礼の痕跡』を作っている」

 立会人の声は、静かだった。静かな分だけ、硬かった。

「妻がいた証を、石と焼き物で拵えている。紙なら書けばいいものを、わざわざ形に残る物でだ。何のために」

「分かりません。ただ……」

 ただ、気味が悪いのだ。

 嘘というものは普通、隠すために吐く。なのにこの嘘は、彫って、焼いて、飾ってある。まるで、後から誰かが検めに来ることが決まっているみたいに。

「ご当人は、はっきり仰いましたよ。あの盃は対で焼かせた品ではない。ご自分の婚礼を、ご自分で否まれました」

「死人に、身に覚えのない妻がいる、か」

 私は、いちばん口にしたくない筋を、口に出した。

「彫りの注文は、亡くなる十日前です。彫りが先で、死が後。先様は、ご当主が亡くなる日を、ご存じだったことになります」

「知っていたか。——決めていたかだ」

 立会人は茶を置き、独り言のように付け足した。

「……兄と、同じだな」

 番茶が冷めきるまで、どちらも黙っていた。障子が白む。空き家の朝は、音がない。

 やがて彼は立ち上がり、去りぎわに、不揃いの湯呑みを一瞥した。

「盃というのは、対で焼かせるものらしいな」

「……ええ。婚礼の折には」

「覚えておく」

 それだけ言って、喪主に一礼し、位牌にはもっと深く一礼して、出て行った。

 手控えの隅に、つけておく。本日の求婚未満、一件。帳面のつけようがないので、備考の欄に回した。


 帰り際、私は手控えを出して、墓誌の女紋を写し取った。

 過去帳や墓誌の紋を写しておくのは、うちの商売の習い性だ。紋を辿れば、妻の里が知れる。里が知れれば、弔いの報せを届けられる。

 揚羽蝶の、陰紋だった。

 細い線だけで描かれた蝶は、写し取ると潰れて、ただの黒い染みのようになった。

 どこの家の女紋かは、知れなかった。

 真木子爵家は、その月のうちに絶えた。

 妻の紋だけが、墓に残った。


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