第6話 春着は紅『次の春着は、紅にせよ』
◆◆◆
『次の春着は、紅にせよ』
◆◆◆
藤宮伯爵家の令嬢が忍びで訪ねてきたのは、写真館の一件から五日後だった。
折悪しく、立会料の精算に来ていた立会人が、帰りそびれて茶を貰っている。そういう日に限って、客が来る。
供はなし。俥は手前の角で帰したという。歩き慣れない足で、死人の花嫁の敷居を、ご自分から跨ぎに来たわけだ。
「藤宮紗雪と申します。……婚約者の、冥婚をお願いに参りました」
年の頃は二十。喪服の仕立ての良さより先に、目の下の隈が見えた。
名乗る声は、しつけの良い硬い声だ。ただ、右手の中指に墨の跡と、できかけの筆だこがある。日課の写経の手だ。供養というのは、生きている側の指から先に固まっていくらしい。
亡くなったのは隣家の子爵家の嫡男で、挙式をふた月後に控えた春の宵、突然倒れたのだという。
「心臓の、麻痺だと。前の晩まで、お元気でしたのに」
前の晩まで元気だった人の、心臓の麻痺。
立会人が、湯呑みを持つ手を止めたのが分かった。鷹尾の兄君と、同じ死に方だ。
「それで、冥婚のご用向きは、御家から?」
「いいえ。私ひとりの一存です」
言いながら、袱紗の包みを畳に置いた。開けば、札の下に小銭が混じっている。端数まで搔き集めた厚みだった。家の帳場は通っていない。手文庫の底を、ご自分で浚ってきた銭だ。
「足りなければ、後日必ず」
「相場ちょうどでございます。確かに承りました」
嘘だ。少し足りない。だが、値切り方も追い銭のやり方も知らない人が、精一杯に量ってきた銭だ。足りない分の勘定は、しないことにした。
紗雪様は、膝の上で手を重ねた。
「両家は仰るのです。挙式前とはいえ結納は済んでいる。ゆえに私は彼の妻も同然、生涯喪に服し、操を立てるのが筋であると。祖母などは、後を追わなかっただけでも不忠だとまで」
「それは」
「私、あの方をお慕いしておりました。ですから余計に、分からなくなって」
重ねた手が、震えていた。
「喪に服して生きるのが供養なのか。それとも私は、二十歳で自分のお弔いをしているのか。あの方が本当は何と思っておいでか、それだけ、聞いて頂きたいのです」
お弔い、と言ったこの方の喪服が、一瞬、仕立ての良い経帷子に見えた。
私は手をついて頭を下げた。「承ります」
子爵家は冥婚に渋い顔をしたが、藤宮の令嬢の一存とあれば無下にもできない。祝言は離れの仏間で、ささやかに行われた。
花婿の席には、位牌がひとつ。塗りの黒が、行灯の火で飴色に光って見える。子爵家からは誰も出ず、襖の外に年寄りの家従が番のように座っているだけだ。体面のために許し、体面のために出ない。家というのは、そういう普請で出来ている。
三三九度。末期の水。
耳を澄ます。
『——次の春着は、紅にせよ』
春着。紅。
私は思わず、隅に控える紗雪様を見た。今夜も喪服だ。この先も一生喪服でいろと、家は言っている。
その人に。次の春着は、紅にせよ。
綿帽子の内で、ひと言を検めにかかる。
春着は、年が明けて初めて袖を通す晴れ着だ。誂えるなら、注文は秋のうちに出す。あの方が倒れたのは春の宵で、次の秋までは、まだ半年もあった。秋の注文を待たずに逝った人の、先回りの遺言ということになる。
では、宛先は。子爵家の内に、紅を着る齢の女はいない。はじめから、ひとりしかいない。
最後に、言い回し。頼みではなく、命令だ。
検算は一度で合った。——合ってしまった。
「解くまでも、ございませんね」
夜明けの茶の席で、私は聞いたままを伝えた。
紗雪様は、しばらく黙っていた。
「紅は……私の振袖の色です。初めてお目にかかった日の。あの方、後々までからかわれました。遠目に、庭の椿が歩いてきたのかと思ったと」
「では、あの方の仰る紅は」
「ええ。……ええ」
堪える力が尽きるまで、そう時間はかからなかった。この方の涙は今夜が初めてなのだと、泣き方で分かった。喪に服す者は、人前で泣くことすら「未練がましい」と取り上げられる。
泣くのはタダだ。なのにこの方は、そのタダにまで値札を付けられてきた。
「最期のひと言は、言葉の財産目録でございます」
私は、商いの口上をひとつだけ使った。
「あの方の目録のいちばん上にあったのは、ご自身の命ではなく、あなたの春着でした。あなたが紅を着る春を、ぜんぶ見損ねること——それがあの方の、たったひとつの未練です」
それから、残りをひとつだけ添えた。
「あの方は、頼んでおられません。命じておられます」
「同じことでは、ありませんの」
「死人の声は、紙になりません。御家を縛る力は、どこにもございません。ですが」
湯呑みを置いて、私は商人の顔になった。
「生きたあなたの『着とうございます』は、御家がいくらでも握り潰せます。亡くなった殿方の『着よ』に従うだけなら、あなたは俯いたまま、紅が着られます。御家の方々も、生きた娘に折れるのは癪でも、死んだ婿殿に折れるなら、体面が立ちます。あの方は、あなたの口実になるおつもりで、言い方まで選んで逝かれたのだと思います」
「……喪服では、駄目なのですね」
「駄目とは申しません。ただ、ご遺言には、背くことになります」
紗雪様は泣きながら、少しだけ笑った。
「ずるい殿方。最期まで、私の勝てない仰り方をなさる」
帰りの車寄せで、紗雪様は深々と頭を下げた。伯爵令嬢が、死人の花嫁に、である。
「宵坂さん。御礼はいずれ、必ず」
「お代は頂きましたので」
「日当では足りませんの」
言い残して、車は行ってしまった。華族のお嬢様というのは、よく分からない。
見送りから戻ると、茶はすっかり温くなっていた。淹れ直す。立会人は、断らなかった。
「おまけを付けたな」
「何のことでしょう」
「約定の内は、聞いたままを伝えるところまでだろう。命令だの、口実だの。最後のは、注文の外だ」
「祖母の教えでございます。銭は取りな、同情はおまけでいい。おまけは只ですので、書き付けには載せません」
「載せない書き付けに、俺は載っているのか」
「鷹尾様は別綴りでございます。求婚帳簿と申しまして」
「今日の分は」
「まだ承っておりませんが」
「では出しておく。——お前が紅を着る日は、俺が見る」
私は手控えを出さず、淹れ直した茶を一口飲んだ。紅を着る春を取り戻した人の前で、すぐにいつもの冗談へ戻す気にはなれなかった。
立会人は深追いをしない。一度言って、一礼して、引く。いつもの流儀だ。だからこちらも、いつもの調子で言えた。
「……鷹尾様。ひとつ、気になっています」
「言え」
「前の晩まで達者だった方の、心臓の麻痺。近頃、多すぎませんか」
立会人は、すぐには答えなかった。
答えの代わりに、手帳を開いて、日付をひとつ書き足した。その頁には、もう幾つも日付が並んでいた。




