第5話 現像『七枚目の種板を、光に当てるな』(後編)
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『七枚目の種板を、光に当てるな』
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茶の続きは、帳場に席を移して頂いた。
湯は借り物の土瓶で沸かし直した。夜通しの暗室で冷えた指に、湯呑みの熱がしみる。白無垢はもう柳行李の中だ。
「顔色が悪いな」
二杯目を注いで、立会人が言った。
「白粉の下は、いつもこの色です」
「夜通しの正座も日当のうちか」
「座ってからが本番の商いですので」
立会人は湯呑みの中を一度だけ見て、それから言った。
「俺の家なら、炭は年中切らさん」
一拍、間が空いた。
私は湯呑みを置いた。
「本日の求婚、二件目。炭のついでのようでしたので、備考欄に付けておきます」
「本気だが」
「備考欄も、帳簿のうちです」
妙なお客は、それ以上は言わない。同じ朝に二件目でも、売り口上だけは使い回さない。そういう商法らしい。
さて、仕事だ。
手掛かりは、三つある。
まず、予約台帳の隅の鉛筆書き。『四月・祝言写真(仮)』。客の名は、ない。
台帳は夜のうちに繰ってある。前後の頁は客の名と日取りでびっしり埋まっているのに、この一行だけが名を伏せ、(仮)の二文字で口を噤んでいる。名を書けない客か。それとも、名を書けば壊れてしまう写真か。
次に、定着液の減りが、ひと月分にしては少なすぎる。強請りの焼き増しどころか、この店はこのひと月、ほとんど写真を仕上げていない。
瓶を朝の光に透かすと、液の嵩は肩口まで残っていた。強請りが商売なら、焼き増しで液は減る。減っていないなら、この店の主は撮っただけで、仕上げずにいたのだ。
最後に、お律さんの言葉だ。写真嫌いで、あの人に一度も撮らせてあげなかった、という。
三つを、膳の上に並べてみる。一枚だけ、席次の合わない客がいる。
「一度も撮らせなかった人の店に、どうして『七枚目』があるんでしょうね」
「どういう意味だ」
「六枚目までは、お客の種板。でも七枚目だけは、台帳に載っていない。載せられない写真。撮ったことを、本人にも言えない写真です」
隠し撮り、という言葉を、私はできるだけ柔らかく言った。
「確かめるか」
「ええ。ただし、ご本人の立ち会いで。断りもなく人様の顔を検分するのは、それこそ隠し撮りと同じですから」
現像は、写真師組合の老職人に頼んだ。
偏屈で名の通った爺様だという。事情を話すと、皺の奥の目を一度だけ瞑り、「洗い場を貸せ」とだけ言った。職人は、口より先に手が動く。
使いをやると、お律さんは小間物屋の前掛けのまま駆けつけて来た。
「私……見て、いいんでしょうか」
「あなたが見ないで、誰が見るんです」
暗室の戸口で、お律さんは俯いた。
「写真の中の私、いつも他人みたいな顔をしているんです。硬くて、澄まして。……あんな顔を、あの人の手元に残したくなかった」
写真嫌いの種は、それだけだった。それだけのことを、この人はいま、後悔で煮詰めている。乾かすのは私の仕事ではない。私の仕事は、像を出すことだ。
老職人の手は、迷わない。竹の挟みで種板の端だけを摘まみ、水盤をゆっくり揺すって、頃合いを目だけで計る。
紅い灯りの下、水盤の中で、七枚目の像がゆっくり浮かんでくる。
店先の陳列窓を拭く、若い娘の横顔だった。
笑っている。拭き掃除の途中で、硝子越しに誰かの冗談に吹き出した、そういう笑い方だ。写真嫌いの人が鏡台の前で作る顔ではない、素の顔。
「————」
お律さんは水盤の縁を掴んで、声もなく泣いた。
「……あの人には、私、こんなふうに見えていたんですか」
「四月の祝言写真は、これの焼き増しを引出物にするつもりだったんでしょう。撮られると知ったら、あなたが逃げてしまうから」
死ぬ前のひと月、店を閉めてかかり切りだったのも、きっとこの支度だ。台紙を選び、飾り枠を誂え、御披露目の趣向を組む。焼き増しがまだだから、定着液は減っていない。あの人の隠し事は、はじめから、引出物ひとつだった。
光に当てるな。
種板の理屈で言えば、現像前の像を守る職人の言葉。
でもきっと、もうひとつ。——この笑顔を、醜聞の光に晒すな。俺の店の噂ごときで、この人を泣かせるな。
そういう、恋の言葉でもあったのだと思う。
「では、六枚目には何が写っていた」
立会人の問いに、老職人が答えをくれた。種板は盗られても、試し焼きの端切れが、乾板袋に残っていたのだ。
「試し焼きは職人の控えでな。捨てずに袋へ戻すのは、腕のいい証拠だ」
爺様は自慢とも供養ともつかない声で言って、天眼鏡ごと端切れを寄越した。小指の先ほどの画面に、目を寄せる。
写っていたのは、醜聞ではなかった。
小さな祝言だ。どこかの屋敷の庭先。紋付の若い男と、木綿の着物の花嫁。仲人も金屏風もない、駆け落ち同然の祝言。
立会人が、写真の端を指で押さえた。
「この男は、見覚えがある。勘当された、さる華族の元子息だ。家を捨てて、奉公の女中と一緒になったと聞いた。家は醜聞を恐れて、なかったことにしている」
筋は、そこから素直に繋がった。
偶然この祝言を写してしまった千秋さんのもとへ、家の使いが乾板を買いに来た。断られて、揉み合いになって、薬品棚が倒れた。番屋が調べ直すと、当日、店の前に停まっていた立派な箱馬車を、青物屋の小僧が覚えていた。
千秋さんは、売らなかったのだ。売れば、世間の言う通りの強請り屋になる。突き返せば、ただの写真師のままでいられる。倒れた棚の薬液が毒気になることまでは、きっと、どちらも考えていなかった。
事故だ。けれど、強請りではない。
汚名の方は、雪がれた。
三面記事は強請り屋の死を三行で書いたが、雪いだ話は一行にもならない。世間とは、そういう帳面だ。
弔い直しの朝、お律さんは「一枚だけなら」と言って、写真館の前に立った。
私が撮った。老職人に叱られながらの、不格好な一枚だ。マグネシウムが白く閃いて、焦げた匂いが往来に流れた。それでも彼女は、七枚目と同じ顔で笑った。
写真代は、取り損ねた。銭は取りな、が祖母の教えだけれど、まあ、あれは香典だ。帳面には、そう付けておく。
帰り際、私はもう一度、六枚目の試し焼きを見せてもらった。
気になったのは、人ではない。庭先に停まった箱馬車——その扉の紋だった。
揚羽蝶を、細い線だけで描いた紋。陰紋というやつだ。それ自体は、珍しくもない。
ただ、どこかで見た気がした。
思い出せないまま、私は写真を伏せた。
「どうした」
「いえ。……洒落た紋だと思っただけです」
このときの私に、教えてやりたい。
お前はこの紋を、これから何度も、墓の上で見ることになる。




