第4話 暗室の祝言『七枚目の種板を、光に当てるな』(前編)
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『七枚目の種板を、光に当てるな』
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「暗室で、薬の毒気にあてられて……警察は、事故だか自死だか分からないと、それきりで」
朝一番の客は、暖簾を出す前から敷居の外に立っていた。
小間物屋の看板娘、お律さん。十日前に死んだ湊川写真館の若主人、湊川千秋さんの許嫁だった人だ。目の下の隈だけが、白粉で隠しきれていない。
畳に置かれた風呂敷包みには、皺ひとつない紙幣が、角まできっちり揃えてあった。嫁入りの支度金だと、ひと目で分かる揃え方だ。
涙より先に銭の話ができる客は、信用できる。泣くのはタダだが、涙は前金にならない。
「世間はあの人を、強請り屋だと言うんです」
お律さんは、まばたきを堪えるように言った。
「お華族様の醜聞を写真に撮って、強請っていた。その報いだって。お店の乾板が一枚盗られていたから、仲間割れだろうって」
三面記事が書き立て、湯屋と床屋が運んだ噂だ。死んだ者は、言い返せない。
「湊川さんは、どんな方でしたか」
少し黙って、答えが返った。
「勘定を、一銭も間違えない人でした」
惚気でも弁明でもなく、そこから始める娘だった。
「写場ではお客を笑わせてばかりのくせに、勘定書きの字だけは、判で捺したようで」
「祝言は」
「この秋の、はずでした」
少し間を置いて、お律さんは言い足した。
「私、写真が嫌いで。あの人に、一度も撮らせてあげませんでした。写真屋の女房になるくせにって、笑われながら」
風呂敷の結び目を撫でて、お律さんは続けた。
「支度金は、五年かけて貯めました。強請りで肥えた人のところへ嫁ぐのに、五年も……おかしいでしょう」
おかしいでしょう、と言う声は、少しも笑っていなかった。
「お律さんは、どう思っておいでですか」
「分かりません。分からないから、悔しいんです」
膝の上の手が、白くなった。
「あの人、私に隠し事をしていました。死ぬ前のひと月、店を閉めて、何かにかかり切りで。訊いても、笑って誤魔化すばかり。だから、強請りじゃないという証も、私には、ないんです」
隠し事の値段は、生きているうちなら喧嘩ひとつで済む。死なれると、相場が跳ね上がる。
「では、ご本人に伺いましょう」
私は商売の顔で言った。
「それが、うちの商いです」
「あの……これで、足りますか」
「多うございます」
頂く分だけ取り、残りは風呂敷ごと押し返す。
「うちは相場しかいただきません。多く取ったら、強請りと同じになってしまうので」
お律さんは、そこで初めて泣いた。銭の勘定で泣いた客は、この人が最初だ。
約束は、ひとつだけした。
「聞いたままを、そのままお伝えします。良いことも、悪いことも」
「それで、構いません」
目許を拭いた顔は、もう客の顔に戻っていた。
湊川写真館は、表通りの角にある小さな店だ。
硝子の陳列窓には、婚礼写真の見本と、勲章をつけた老人の肖像。写真館というのは、婚礼と葬式の両方に立ち会う商売だ。うちと、少し似ている。
写場に入ると、マグネシウムの閃光の焦げた匂いが、まだ薄く残っていた。十日経っても、匂いは商売を覚えている。
立会人は、日が落ちてから軍服のままで来た。約定どおりとはいえ、毎度律儀なことだ。
彼は店に上がると、まず仏間の位牌に深く一礼した。弔いの礼ではない。会ったこともない町場の写真師に、同輩へ執る礼だった。
妙なお客は、今夜も妙だ。
「祝言は、暗室で」
私がそう言うと、立会人が眉を動かした。
「広間ではなくか」
「あの方が最期にいらした場所ですから。それに、乾板がまだ中に。写真師の魂は、種板に宿ると申します」
それから、先に断っておくことにした。
「入るのは、私とお位牌だけ。狭くて、立会人の席がございません」
「扉の外に立つ。……歩哨は慣れている」
暗室は、紅い安全灯がひとつきりの、小さな洞窟だった。
現像液の匂い。硝子の乾板が並ぶ棚。棚には番号札が振ってある。一、二、三、四、五。六が、ない。七は、ある。
番号札の字は、判で捺したように几帳面だった。なるほど、一銭も間違えない人の字だ。
数え直す。二度。銭と手がかりは二度数えろというのが、祖母の教えの二条目だ。二度数えても、六だけがない。
盗られたのは六枚目。七枚目は、無事。
手燭は持ち込まない。種板の眠る部屋で許される灯りは、この紅ひとつきりだ。
紅い灯りの下に白無垢で座ると、自分の袖まで薄紅に染まって見えた。
位牌を花婿の席に、膳は現像台の隅に。こんなに狭い祝言は初めてだ。扉一枚の向こうで、軍靴が止まる音がした。
三三九度。末期の水。
耳を、澄ます。
『——七枚目の種板を、光に当てるな』
光に、当てるな。
現像前の種板は、光に晒せば像が消える。写真師なら誰でも知っている理屈だ。
でも。
強請り屋の最期の言葉が、それでいいのだろうか。恨みでも、無念でもなく、たった一枚の種板を庇う言葉で。
位牌の隣で、夜明けまで考えた。
最期のひと言は、いわば言葉の財産目録だ。人は死に際に、一番惜しいものの名を言う。恨む相手がいれば恨みを、返したい借りがあれば借りを。
この人が惜しんだのは、盗られた六枚目ではない。まだ手元にある、七枚目だった。
順番が、おかしい。取り返してくれ、でもなく。盗った奴を許すな、でもなく。
番号札も種板も、黙っている。よく黙る店だ。
「聞けたか」
暗室の外で、立会人が待っていた。
答えかけた口の先に、湯呑みが差し出される。
「先に、茶だ。夜通し座った耳に、いきなり働けと言う趣味はない」
夜明けの写場は、西洋庭園の書割まで灰色に覚めていた。歩哨のくせに、茶の支度だけは覚えたらしい。
受け取るとき、指は触れない。器越し。うちの掟と、この人の流儀は、妙なところで折り合いがいい。
「お茶代は、経費に付けませんよ」
「俺の茶葉だ。付けようがあるか」
彼は、硝子の陳列窓を顎で示した。婚礼写真の見本が、朝の光に白い。
「いずれ、ああいう一枚を撮らせる。俺と、お前とで」
「本日の求婚、一件」
頭の中の頁に付ける。付け終えてから、答えた。
「写真は形に残ります。証拠の残る求婚をなさる方は、初めてです。——却下」
茶をもう一口。それで、耳が戻った。
「聞けました。鷹尾様、写真の強請りというのは、普通、種板を何枚も焼き増しするものですよね」
「だろうな。種板一枚が命綱では、商売にならん」
「なら、妙です」
私は、紅い灯りの暗室を振り返った。
「あの人が命懸けで庇ったのは、七枚目、たった一枚。——盗られた六枚目じゃ、ないんです」




