↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
4/35

第4話 暗室の祝言『七枚目の種板を、光に当てるな』(前編)

 ◆◆◆

 『七枚目の種板を、光に当てるな』

 ◆◆◆


「暗室で、薬の毒気にあてられて……警察は、事故だか自死だか分からないと、それきりで」

 朝一番の客は、暖簾を出す前から敷居の外に立っていた。

 小間物屋の看板娘、お律さん。十日前に死んだ湊川写真館の若主人、湊川千秋さんの許嫁だった人だ。目の下の隈だけが、白粉で隠しきれていない。

 畳に置かれた風呂敷包みには、皺ひとつない紙幣が、角まできっちり揃えてあった。嫁入りの支度金だと、ひと目で分かる揃え方だ。

 涙より先に銭の話ができる客は、信用できる。泣くのはタダだが、涙は前金にならない。

「世間はあの人を、強請り屋だと言うんです」

 お律さんは、まばたきを堪えるように言った。

「お華族様の醜聞を写真に撮って、強請っていた。その報いだって。お店の乾板が一枚盗られていたから、仲間割れだろうって」

 三面記事が書き立て、湯屋と床屋が運んだ噂だ。死んだ者は、言い返せない。

「湊川さんは、どんな方でしたか」

 少し黙って、答えが返った。

「勘定を、一銭も間違えない人でした」

 惚気でも弁明でもなく、そこから始める娘だった。

「写場ではお客を笑わせてばかりのくせに、勘定書きの字だけは、判で捺したようで」

「祝言は」

「この秋の、はずでした」

 少し間を置いて、お律さんは言い足した。

「私、写真が嫌いで。あの人に、一度も撮らせてあげませんでした。写真屋の女房になるくせにって、笑われながら」

 風呂敷の結び目を撫でて、お律さんは続けた。

「支度金は、五年かけて貯めました。強請りで肥えた人のところへ嫁ぐのに、五年も……おかしいでしょう」

 おかしいでしょう、と言う声は、少しも笑っていなかった。

「お律さんは、どう思っておいでですか」

「分かりません。分からないから、悔しいんです」

 膝の上の手が、白くなった。

「あの人、私に隠し事をしていました。死ぬ前のひと月、店を閉めて、何かにかかり切りで。訊いても、笑って誤魔化すばかり。だから、強請りじゃないという証も、私には、ないんです」

 隠し事の値段は、生きているうちなら喧嘩ひとつで済む。死なれると、相場が跳ね上がる。

「では、ご本人に伺いましょう」

 私は商売の顔で言った。

「それが、うちの商いです」

「あの……これで、足りますか」

「多うございます」

 頂く分だけ取り、残りは風呂敷ごと押し返す。

「うちは相場しかいただきません。多く取ったら、強請りと同じになってしまうので」

 お律さんは、そこで初めて泣いた。銭の勘定で泣いた客は、この人が最初だ。

 約束は、ひとつだけした。

「聞いたままを、そのままお伝えします。良いことも、悪いことも」

「それで、構いません」

 目許を拭いた顔は、もう客の顔に戻っていた。


 湊川写真館は、表通りの角にある小さな店だ。

 硝子の陳列窓には、婚礼写真の見本と、勲章をつけた老人の肖像。写真館というのは、婚礼と葬式の両方に立ち会う商売だ。うちと、少し似ている。

 写場に入ると、マグネシウムの閃光の焦げた匂いが、まだ薄く残っていた。十日経っても、匂いは商売を覚えている。

 立会人は、日が落ちてから軍服のままで来た。約定どおりとはいえ、毎度律儀なことだ。

 彼は店に上がると、まず仏間の位牌に深く一礼した。弔いの礼ではない。会ったこともない町場の写真師に、同輩へ執る礼だった。

 妙なお客は、今夜も妙だ。

「祝言は、暗室で」

 私がそう言うと、立会人が眉を動かした。

「広間ではなくか」

「あの方が最期にいらした場所ですから。それに、乾板がまだ中に。写真師の魂は、種板に宿ると申します」

 それから、先に断っておくことにした。

「入るのは、私とお位牌だけ。狭くて、立会人の席がございません」

「扉の外に立つ。……歩哨は慣れている」

 暗室は、紅い安全灯がひとつきりの、小さな洞窟だった。

 現像液の匂い。硝子の乾板が並ぶ棚。棚には番号札が振ってある。一、二、三、四、五。六が、ない。七は、ある。

 番号札の字は、判で捺したように几帳面だった。なるほど、一銭も間違えない人の字だ。

 数え直す。二度。銭と手がかりは二度数えろというのが、祖母の教えの二条目だ。二度数えても、六だけがない。

 盗られたのは六枚目。七枚目は、無事。

 手燭は持ち込まない。種板の眠る部屋で許される灯りは、この紅ひとつきりだ。

 紅い灯りの下に白無垢で座ると、自分の袖まで薄紅に染まって見えた。

 位牌を花婿の席に、膳は現像台の隅に。こんなに狭い祝言は初めてだ。扉一枚の向こうで、軍靴が止まる音がした。

 三三九度。末期の水。

 耳を、澄ます。


『——七枚目の種板を、光に当てるな』


 光に、当てるな。

 現像前の種板は、光に晒せば像が消える。写真師なら誰でも知っている理屈だ。

 でも。

 強請り屋の最期の言葉が、それでいいのだろうか。恨みでも、無念でもなく、たった一枚の種板を庇う言葉で。

 位牌の隣で、夜明けまで考えた。

 最期のひと言は、いわば言葉の財産目録だ。人は死に際に、一番惜しいものの名を言う。恨む相手がいれば恨みを、返したい借りがあれば借りを。

 この人が惜しんだのは、盗られた六枚目ではない。まだ手元にある、七枚目だった。

 順番が、おかしい。取り返してくれ、でもなく。盗った奴を許すな、でもなく。

 番号札も種板も、黙っている。よく黙る店だ。

「聞けたか」

 暗室の外で、立会人が待っていた。

 答えかけた口の先に、湯呑みが差し出される。

「先に、茶だ。夜通し座った耳に、いきなり働けと言う趣味はない」

 夜明けの写場は、西洋庭園の書割まで灰色に覚めていた。歩哨のくせに、茶の支度だけは覚えたらしい。

 受け取るとき、指は触れない。器越し。うちの掟と、この人の流儀は、妙なところで折り合いがいい。

「お茶代は、経費に付けませんよ」

「俺の茶葉だ。付けようがあるか」

 彼は、硝子の陳列窓を顎で示した。婚礼写真の見本が、朝の光に白い。

「いずれ、ああいう一枚を撮らせる。俺と、お前とで」

「本日の求婚、一件」

 頭の中の頁に付ける。付け終えてから、答えた。

「写真は形に残ります。証拠の残る求婚をなさる方は、初めてです。——却下」

 茶をもう一口。それで、耳が戻った。

「聞けました。鷹尾様、写真の強請りというのは、普通、種板を何枚も焼き増しするものですよね」

「だろうな。種板一枚が命綱では、商売にならん」

「なら、妙です」

 私は、紅い灯りの暗室を振り返った。

「あの人が命懸けで庇ったのは、七枚目、たった一枚。——盗られた六枚目じゃ、ないんです」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。