第3話 水に流せないもの『紅は、水に流せない』
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『紅は、水に流せない』
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呉服問屋・浜屋の若旦那が、芸妓と心中した。
大川に浮かんだふたりは帯で結ばれ、女の頬には紅が差していたという。
三面記事はこの手の話が飯の種だ。帯の結び方がどうの、女の襦袢の色がどうのと、見てきたように書き立てる。読む方は一銭で泣けて、忘れるのはタダである。
店は醜聞に蓋をするように弔いを急ぎ、若旦那の冥婚を、うちに回してきた。
「心中者の冥婚とは、また因果な」
祖母のたけは、白無垢を畳みながら言った。
「相手の妓と添わせてやりゃよさそうなものを」
「先様は、心中じゃないと言い張ってるのよ。若旦那は騙されて道連れにされたんだ、って」
「どっちにしろ、銭は取りな。同情はおまけでいい」
はいはい、と私は風呂敷を結ぶ。
同情のおまけを付けるかどうかは、先様の顔を見てから決めることにした。
浜屋は大戸を下ろしていた。忌中の貼り紙が、川風に端をめくられている。
奥座敷で、大旦那がひとりで待っていた。
商人の背筋。なのに膝の上の手だけが、さっきから何度も、置き所を探して動いている。
「倅は、騙されたんです」
挨拶より先に、それだった。
「あれは店を継ぐ子です。身代も店も放り出して死ぬような、馬鹿な子じゃあない。騙されて、道連れにされた。……そういうことに、していただきたい」
事実の注文ではない。体裁の注文である。
体裁も商品のうちだ。私は畳に手をついて「承ります」と言った。
騙された息子と、女に狂った息子。どちらの札を貼っても、死んだ人の帳尻は合わない。帳尻を合わせたがるのは、いつも生きてる側だ。
立会人は、約束どおり座敷の端に座った。軍服は目立つので、今夜は着流しである。着流しでも目立った。
祝言。三三九度。耳を澄ます。
『——紅は、水に流せない』
「恨み言でしょうか」と、夜明けの茶で私は言った。「水に流せない。流してなるものか。……道連れの恨みと聞けば、聞こえます」
「お前は、そう聞こえなかった顔だな」
「……妙なんです。あの妓の頬の紅」
私は仕事柄、死者の顔を人より多く見る。湯灌の前の顔も、後の顔も。
死んだ人の顔から、化粧は順に消えていく。白粉が流れ、口の紅が薄れ、最後に残るのは眉の墨くらいのものだ。まして、半日も川の水に揉まれた顔である。
「口紅は落ちても、頬の紅だけ半日水に浸かって、綺麗に残るものではありません。あれでは——上がった後で、誰かが乾いた頬に差したとしか」
立会人は湯呑みを置いた。置き方で分かる。この人の「仕事」の顔だ。
「洗ってみるか」
「洗う?」
「紅をだ。番屋に掛け合う。検分のやり直しくらい、立会人の職分だ」
「申し上げておきますが、立会料は据え置きですよ。職分の分まで、うちは払えません」
「金は要らん。働きの分は、帳面の外につけておけ」
「外につけた分は、どうなさるおつもりです」
「まとめて、身柄で貰う」
本日の求婚、一件。言い方が横着なので半件に負けてやり、それから却下した。
結論から言えば、紅は水で流れた。
番屋の土間、筵の上。警察医の立ち会いで、水を含ませた晒しを、妓の頬にそっと当てる。
布を離すと、頬の色は、布の側に移っていた。
紅の染みた晒しを、警察医は長いこと見下ろしていた。毒も刃物もなければ、調べは病死と情死で閉じる時代である。その当たり前が、布一枚で崩れた顔だった。
妓の頬のそれは、水に強い上物の練り紅ではなく、水彩絵具のように脆い安物。死んだ後で、乾いた肌に差された紅だ。心中の絵面を、後から描き足した者がいる。
では、なぜ心中でなくてはならなかったのか。
心中なら、調べは早々に閉じる。醜聞を嫌う店は蓋を急ぎ、番屋も深追いをしない。蓋が閉じれば、帳場の金の出入りを検める者は、誰もいなくなる。
つまり、蓋の下に隠したいものがある者の細工だ。
そして、死んだ後の顔に紅を差せた者は、限られている。大川から上がったふたりの引き取りも湯灌も、店の名代として仕切ったのは番頭だった。手を合わせる振りで枕元に膝をつけば、絵面を描き足す機会は、いくらでもある。
そこから先は早かった。帳場の金蔵の締まり、番頭の帳簿の穴、若旦那が身請け話を進めていた妓の年季証文。眠り薬で眠らせたふたりを川へ沈め、情死に見せかけた番頭は、検分のやり直しから三日で縄についた。
若旦那は、女と死ぬ気などなかった。逆だ。年季を銭で贖って、表から迎える算段の途中だった。身請けの金が蔵から出れば、番頭の穴は表に出る。だから、ふたりまとめて、蓋にされた。
騙されてなどいなかった。馬鹿でもなかった。ただ、まっとうに惚れていただけだった。
調べの次第を聞き終えた大旦那は、「倅は」と言いかけて、やめた。
商人の背筋のまま、畳に手をついて、深く頭を下げた。畳に落ちた影が、少し震えていた。
「『紅は、水に流せない』——嘘の紅は水に流れて、想いの方は、流れませんでしたね」
若旦那が最後に遺したのは恨みではなく、あの妓への、消えない紅だったのだと思う。
弔い直しの日、浜屋は妓の墓を、若旦那の墓の隣に建てた。
体裁を注文した客が、いちばん体裁の悪い墓を、自分から建てた。注文の取り消しに、銭は取らないことにした。
墓誌に、妓の女紋が刻まれる。
「女の人のお墓には、ああして女紋を刻むんです」
石屋の鑿の音を聞きながら、私は立会人に講釈した。
「家の紋とは別に、母から娘へ伝える紋。嫁いでも変わりません。だから墓誌の女紋を辿れば、その『妻』がどこの里の女かは知れる。それが、作法です」
「墓は、紙より正直というわけか」
「ええ。紙は書き直せますけど、石は彫り直せませんから」
自分で言って、少しだけ引っかかった。何にかは、分からなかった。
浜屋の一件は、思わぬ土産をくれた。
花柳界というのは口さがなくて、そして義理堅い。妓の弔いを整えたうちの評判は、三日で色街をひと回りしたらしい。
「——死人の花嫁じゃないよ。あれは、死人の声を届けてくれる花嫁だ」
置屋の女将がそう言った、と祖母が聞いてきた。
呼び名がひとつ、変わった。
商売には、追い風である。
ただ、追い風というものは。
いい客だけを、連れてくるとは限らない。




