第10話 十七番の卓『十七番の札は、外すな』
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『十七番の札は、外すな』
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「倅は、女給に入れあげて身を持ち崩しました」
酒問屋・志村屋の大旦那は、恥を吐き出すようにそう切り出した。
亡くなったのは跡取りの圭吾さん、二十三。下宿で胸を病んでの死だという。弔いの相談だというのに、病名より先に女給の話が出る。それだけで、この家の傷の在り処が知れた。
「カフェーの女に貢いで、学業も家業も放り出して。それでも、志村屋の跡取りです。せめて弔いは、家の格で」
日当は前払いで、端数まで耳が揃えてあった。恥だと仰る割に、値切りはひとつもない。
家の格で、というのは、つまり体裁の冥婚である。こういう依頼は、正直、気が重い。死者のためでなく、家の外聞を繕うための祝言だからだ。
それでも受けた。祝言の場所だけは、こちらで決めさせてもらった。
「圭吾さんの下宿で挙げます。狭い方が、故人はよく聞こえますので」
嘘である。聞こえ方に広いも狭いもない。ただ、志村屋の大広間で親族に囲まれて挙げる祝言に、あの人の未練があるとは思えなかっただけだ。
大旦那は渋い顔で、それでも異は唱えなかった。帰りぎわ、上がり框で一度だけ振り返る。
「……女に消えた金の高なら、帳面で読めます。読めんのは」
その先は言葉にならなかった。読めないのは、倅が何を考えていたか、だろう。
「読めない分を読むのが、手前どもの商いでございます」
深い辞儀を残して帰る背中が、来たときより少し、ただの父親に見えた。
祝言の晩、下宿の階段を、駆け上がってくる足音がした。
「ごめんなさい、ごめんなさい、あたし」
白いエプロンのまま、店を抜けてきたのだろう。カフェー・オリムピアの女給、雪江さん。圭吾さんが「入れあげた」という、当の人だった。
「お参りだけ。お線香だけで帰ります。あたしなんかが居ちゃいけないのは、分かってるんです」
「どうぞ、そちらへ」
私は上座を指した。いけないかどうかは、家が決めることではない。今夜だけは、花婿が決めることだ。
四畳半に、祭壇と、白無垢と、軍服と、白いエプロン。壁を背にした立会人は、目礼ひとつで場所を空けた。狭い方がよく聞こえる。吐いた嘘が、少しだけ本当になった。
三三九度。末期の水。
耳を澄ます。
『——十七番の札は、外すな』
十七番。
顔を上げると、雪江さんが両手で口を押さえていた。
「うちの店の……卓の、番号です」
夜明けの茶は、店じまいのあとのオリムピアで頂いた。
マダムは気乗りしない顔で、それでも珈琲を三つ淹れてくれた。ひとつは、窓際の立会人の前へ。壁際に、ツケの木札が並んでいる。客の名と卓番号を書いた札だ。
十七番の札。志村圭吾。日付は半年前のまま、止まっていた。
「妙でしょう」とマダムが言った。「あの学生さん、律儀でね。ツケなんか翌週には耳を揃えて払う人でさ。うちの綴りを見てごらんなさいな、綺麗なもんだ。なのに最後のこれだけ、半年も置きっぱなし。……女を捨てて出て行った男が、律儀にツケの札だけ残していくかね」
「捨てて、というのは」
「半年前さ。急に来て、『飽きた』って。それだけ言って、雪江を」
雪江さんは、俯いたままだった。
「……あたし、鈍いから。飽きられたんだって、そう思って。でも」
「でも?」
「別れ話のあいだ、あの人、一度も咳をしなかった。あの頃もう、咳の出る人だったのに。あのときだけ、一度も」
咳を、堪えていた。
病を悟らせないために。
珈琲を一口含む。苦い。苦いなりに、頭は回り出す。
ツケは借りだ。借りが残るうちは、返しに来る約束が生きている。翌週には耳を揃えて払う人が、最後の一枚だけ、半年も約束を破っている。違う。破ったのではなく、残したのだ。
それに、あのひと言は命令形だった。外すな。宛先は、札を外せる側。この店だ。
筋は素直に並ぶ。足りないのは、十七番という数の意味だけである。
「十七番は、どういう卓ですか」
「窓際の隅。あたしが初めてこの店に出た日、最初に注文を取った卓です」
断って、木札を壁から外させて頂いた。手に取って検めるのが商売の癖だ。掌の木札は思ったより軽い。半年ぶんの重さは、目方には出ないらしい。
私は木札を裏返した。マダムが、あ、と小さく言った。
札の裏に、細く畳んだ紙が挟んであった。質屋の預り証。品目、指輪一箇。請け出しの期限は、雪江さんの誕生月。
預り証の内側には、角を揃えて畳んだ紙幣が重ねてあった。開いて数える。期限までの利息と元金、一銭の欠けもない。
勘定は、済んでいたのだ。あとは、請け出しに行く足だけが、なかった。
「解けました」
私は預り証を、雪江さんの前に置いた。
「圭吾さんは、ご自分の胸の病と、余命をご存じだった。だから病を移さないうちに、待たせないうちに、憎まれて別れようとなさった。『飽きた』は、そのための嘘です。咳を堪えたのも同じ。——でも、十七番の札だけは、外せなかった」
「どうして」
「ここが、あなたに会った卓だから。ツケが残っている限り、この席は『必ず帰ってくる男の席』です。……忘れてくれと言いながら、忘れないでくれと、一枚だけ札を残したんです」
十七番の札は、外すな。
俺を帳消しにするな。それから、札の裏の指輪を、あの人に。
雪江さんは預り証を胸に当てて、長いこと、声を殺して泣いた。マダムは何も言わずに、十七番の卓に珈琲を一杯だけ運び、湯気の立つそれを空の椅子の前に置いた。
表を、始発の市電が鈴を鳴らして過ぎて行った。夜明けだ。
立会人が、木札の並ぶ壁を眺めて言った。
「ツケというのは、悪くない仕組みだな」
「鷹尾様には、ご縁のない帳面かと」
「残っている限り、帰ってくる約束になるのだろう。——俺もお前の店に、札を一枚掛けておくか」
「うちは冥婚屋でございます。生者のツケは承っておりません」
「なら即金だ。本日の求婚、一件」
「却下でございます」
手控えに書き付ける。求婚、一件。却下。備考の欄が、また一行埋まる。この欄を作らせた張本人が誰かは、書くまでもない。
「あの、花嫁さん」
帰り際、雪江さんが追いかけてきた。預り証を、まだ両手で胸に抱えている。
「別れ話の晩、あの人、妙な話をひとつだけしたんです。冥婚屋の噂なんて、なんであのときって、ずっと引っかかっていて。でも今なら、思うんです。あの人、自分の弔いの算段まで、済ませておく気だったんじゃないかって」
「噂、というのは」
「本家さんは死人を選り好みするって。金になる仏様のところにばかり、行くんだって」
死人を、選り好みする。
耳の奥で、小さく引っかかる言い方だった。
うちに回ってくるのは、本家の言う「格の低い」仕事だけ。それは知っている。なら、金になる仏様とは、どういう仏様なのだろう。
何を物差しに、選んでいるのだろう。




