第28話 手袋を預けておく『掟が、憎い』
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掟が、憎い。
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溜まった三件分の祝言支度の、三枚目の白無垢が、妙に重かった。
覚えているのは、柳行李を持ち上げた拍子に、土間が斜めになったこと。祖母の声が、遠くで銭函の蓋みたいに鳴ったこと。
それきりだ。
名指しの依頼が続いて、この半月、祝言のない夜の方が少なかった。死人の相手はこたえない、というのが私の売りだったが、体の方は、その売り文句を読んでいなかったらしい。積もった分は、いつか払わされる。利子付きで。
熱の中の記憶は、切れ切れの帳面みたいなものだ。
頁のあいだに、いくつか、妙にはっきりした行がある。
医者の声。過労と、風邪の拗れ。二日は動かすな。それから枕元の誰かへ、あんたも少し寝なさい。いえ、結構です。即答だった。医者をひと息で引き下がらせる断り方に、聞き覚えがあった。
祖母の声。銀子、聞こえるかい。ばかだね、お前は。銭の取り方は教えたが、体の使い潰し方は教えてないよ。
それから、燐寸を擦る音。行灯の火が続いた。夜通し、一度も暗くならなかった。誰かが火を継いでいた。
鷹尾の兄君の祝言の晩を、熱の中で思い出していた。蝋燭が尽きるたび、奉公人を呼ばずに自分で立って火を継いだ、あの妙なお客。
ああ、あの人だ、と思った。
思ったら、なぜだか目の縁が熱くなって、瞬きで散らした。
熱の底で、古い夢を見た。六つの年の夢だ。行灯の下で、母の背中が白無垢を畳んでいる。針箱の鈴の音がして、振り向く。襟の白だけが明るくて、顔のところだけ、行灯の影になっている。どうしても、思い出せない。思い出せないことに、夢の中の私は泣いていた。目が覚めかけたとき、枕が本当に濡れていた。熱のせいだ。熱のせいということに、しておいた。
夜半に、医者がもう一度来たらしい。帰りしなに次の間で祖母と何か話す低い声がして、それからまた、火の継がれる音が続いた。この家の夜が、こんなに人の気配でできているのを、私は倒れて初めて知った。
手拭いが替わる。水音。絞る音。額に触れるのは、布だけだ。布の向こうの手は、決して触れない。こんなときまで、律儀に一枚、間に置いている。
その一枚が。
その晩に限って、無性に。
「……掟が」
言った覚えは、ある。袖を、掴んだ覚えも。
「掟が——憎い」
商売の顔も、断りの口上も、熱は全部溶かしてしまう。残った芯のところに、その一言だけがあった。
袖の主は、身じろぎもしなかった。
やがて、静かな声がした。
「知っている」
それだけだった。
それだけの声が、手拭いより効いた。
目が覚めたのは、二日目の明け方だ。
熱は下がっていた。障子が白い。頭の中も、久しぶりに白い。
枕元に、見慣れないものがあった。
軍の、革手袋。片方だけ。
革の指が、少し開いた形のまま癖になっている。握られた形ではない。差し出した形だ。
ぼんやりと、夜の記憶が繋がった。熱の中で、誰かがこれを枕元に置いて、言ったのだ。
——預けておく。俺の手だと思って握れ。掟に見つかったら、手袋のせいにしろ。
握った覚えは、ない。ないことに、してある。
廊下で、衣擦れの音がした。
私は、目を閉じた。狸寝入りは、商売柄、得意である。寝顔の検分なら、いくらでも受けて立つ。
障子が細く開いて、気配が枕元まで来て、止まった。
しばらく、何もしない。何も言わない。息遣いだけが、枕元の高さに、ある。
やがて、独り言の背丈まで絞った声が、落ちてきた。
「……軍で、人の死には慣れたつもりでいた」
布団の中で、息を止める。
「お前の熱ひとつで、その慣れは全部、嘘になった。——俺の帳面も、当てにならんものだ」
返事の要らない言い方だった。返事をしたら、狸寝入りが割れる。割れたら、この人は二度と、こういう言い方をしなくなる。
だから私は、寝たふりの職分を全うした。
したのだが。
布団の中の手が、勝手に、枕元の手袋を握っていた。
気配が少し笑った、気がした。障子が閉まる。軍靴の音が、土間を渡って、遠くなる。
握った手袋は、革の冷たさの底の方に、ほんの少しだけ、ぬくもりの残りがあった。
掟に見つかったら、手袋のせいにしろ。
ひどい理屈だ。理屈になっていない。
なっていないのに、こんなに効く理屈を、私は他に知らない。
昼、起きられるようになってから、祖母に手袋のことを訊かれた。
「拾い物です」
「ふうん。軍の型の拾い物かい」
祖母は煙管をひと吸いして、それ以上は何も言わなかった。代わりに、粥を炊いてくれた。梅干しがふたつ、乗っていた。ひとつは私の分で、もうひとつは、たぶん減らず口の分だ。
「お祖母ちゃん。……うちの掟は」
「掟の話は、粥が済んでからだよ」
「……看病を、お断りにならなかったんですね」
「掟は恋の禁止だよ。看病の禁止じゃない」
祖母は素知らぬ顔で、梅干しの種を出した。
「それにね、あの男の火の継ぎ方は丁寧だ。丁寧な火は、家を焼かないもんさ」
済んでから訊き直したら、祖母は先に寝ていた。狸寝入りかどうかは、検めなかった。あの人の狸寝入りを暴ける者は、この帝都にいない。
夕方、床を上げて、求婚帳簿を開いた。
本日の求婚、なし。看病、一晩。火の番、一晩。手袋、片方。
この貸し借りは、どの欄に付ければいいのだろう。
あれは求婚のための紙だ。看病の欄はない。作る気も、なかったはずだ。
しばらく筆を持ったまま迷って、結局、備考の欄にこう書いた。
『手袋、預かり。当分、返せる見込みなし』
革を火鉢の傍で乾かし、母の針箱の隣へ置いた。いつもなら商売道具の置き場へ私物を混ぜるのは嫌うのに、その晩は、箱を少しだけ横へずらした。
片方ぶんの場所は、ちょうど空いた。




