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第28話 手袋を預けておく『掟が、憎い』

 ◆◆◆

 掟が、憎い。

 ◆◆◆


 溜まった三件分の祝言支度の、三枚目の白無垢が、妙に重かった。

 覚えているのは、柳行李を持ち上げた拍子に、土間が斜めになったこと。祖母の声が、遠くで銭函の蓋みたいに鳴ったこと。

 それきりだ。

 名指しの依頼が続いて、この半月、祝言のない夜の方が少なかった。死人の相手はこたえない、というのが私の売りだったが、体の方は、その売り文句を読んでいなかったらしい。積もった分は、いつか払わされる。利子付きで。


 熱の中の記憶は、切れ切れの帳面みたいなものだ。

 頁のあいだに、いくつか、妙にはっきりした行がある。

 医者の声。過労と、風邪の拗れ。二日は動かすな。それから枕元の誰かへ、あんたも少し寝なさい。いえ、結構です。即答だった。医者をひと息で引き下がらせる断り方に、聞き覚えがあった。

 祖母の声。銀子、聞こえるかい。ばかだね、お前は。銭の取り方は教えたが、体の使い潰し方は教えてないよ。

 それから、燐寸を擦る音。行灯の火が続いた。夜通し、一度も暗くならなかった。誰かが火を継いでいた。

 鷹尾の兄君の祝言の晩を、熱の中で思い出していた。蝋燭が尽きるたび、奉公人を呼ばずに自分で立って火を継いだ、あの妙なお客。

 ああ、あの人だ、と思った。

 思ったら、なぜだか目の縁が熱くなって、瞬きで散らした。

 熱の底で、古い夢を見た。六つの年の夢だ。行灯の下で、母の背中が白無垢を畳んでいる。針箱の鈴の音がして、振り向く。襟の白だけが明るくて、顔のところだけ、行灯の影になっている。どうしても、思い出せない。思い出せないことに、夢の中の私は泣いていた。目が覚めかけたとき、枕が本当に濡れていた。熱のせいだ。熱のせいということに、しておいた。

 夜半に、医者がもう一度来たらしい。帰りしなに次の間で祖母と何か話す低い声がして、それからまた、火の継がれる音が続いた。この家の夜が、こんなに人の気配でできているのを、私は倒れて初めて知った。

 手拭いが替わる。水音。絞る音。額に触れるのは、布だけだ。布の向こうの手は、決して触れない。こんなときまで、律儀に一枚、間に置いている。

 その一枚が。

 その晩に限って、無性に。

「……掟が」

 言った覚えは、ある。袖を、掴んだ覚えも。

「掟が——憎い」

 商売の顔も、断りの口上も、熱は全部溶かしてしまう。残った芯のところに、その一言だけがあった。

 袖の主は、身じろぎもしなかった。

 やがて、静かな声がした。

「知っている」

 それだけだった。

 それだけの声が、手拭いより効いた。


 目が覚めたのは、二日目の明け方だ。

 熱は下がっていた。障子が白い。頭の中も、久しぶりに白い。

 枕元に、見慣れないものがあった。

 軍の、革手袋。片方だけ。

 革の指が、少し開いた形のまま癖になっている。握られた形ではない。差し出した形だ。

 ぼんやりと、夜の記憶が繋がった。熱の中で、誰かがこれを枕元に置いて、言ったのだ。

 ——預けておく。俺の手だと思って握れ。掟に見つかったら、手袋のせいにしろ。

 握った覚えは、ない。ないことに、してある。

 廊下で、衣擦れの音がした。

 私は、目を閉じた。狸寝入りは、商売柄、得意である。寝顔の検分なら、いくらでも受けて立つ。

 障子が細く開いて、気配が枕元まで来て、止まった。

 しばらく、何もしない。何も言わない。息遣いだけが、枕元の高さに、ある。

 やがて、独り言の背丈まで絞った声が、落ちてきた。

「……軍で、人の死には慣れたつもりでいた」

 布団の中で、息を止める。

「お前の熱ひとつで、その慣れは全部、嘘になった。——俺の帳面も、当てにならんものだ」

 返事の要らない言い方だった。返事をしたら、狸寝入りが割れる。割れたら、この人は二度と、こういう言い方をしなくなる。

 だから私は、寝たふりの職分を全うした。

 したのだが。

 布団の中の手が、勝手に、枕元の手袋を握っていた。

 気配が少し笑った、気がした。障子が閉まる。軍靴の音が、土間を渡って、遠くなる。

 握った手袋は、革の冷たさの底の方に、ほんの少しだけ、ぬくもりの残りがあった。

 掟に見つかったら、手袋のせいにしろ。

 ひどい理屈だ。理屈になっていない。

 なっていないのに、こんなに効く理屈を、私は他に知らない。


 昼、起きられるようになってから、祖母に手袋のことを訊かれた。

「拾い物です」

「ふうん。軍の型の拾い物かい」

 祖母は煙管をひと吸いして、それ以上は何も言わなかった。代わりに、粥を炊いてくれた。梅干しがふたつ、乗っていた。ひとつは私の分で、もうひとつは、たぶん減らず口の分だ。

「お祖母ちゃん。……うちの掟は」

「掟の話は、粥が済んでからだよ」

「……看病を、お断りにならなかったんですね」

「掟は恋の禁止だよ。看病の禁止じゃない」

 祖母は素知らぬ顔で、梅干しの種を出した。

「それにね、あの男の火の継ぎ方は丁寧だ。丁寧な火は、家を焼かないもんさ」

 済んでから訊き直したら、祖母は先に寝ていた。狸寝入りかどうかは、検めなかった。あの人の狸寝入りを暴ける者は、この帝都にいない。


 夕方、床を上げて、求婚帳簿を開いた。

 本日の求婚、なし。看病、一晩。火の番、一晩。手袋、片方。

 この貸し借りは、どの欄に付ければいいのだろう。

 あれは求婚のための紙だ。看病の欄はない。作る気も、なかったはずだ。

 しばらく筆を持ったまま迷って、結局、備考の欄にこう書いた。

 『手袋、預かり。当分、返せる見込みなし』

 革を火鉢の傍で乾かし、母の針箱の隣へ置いた。いつもなら商売道具の置き場へ私物を混ぜるのは嫌うのに、その晩は、箱を少しだけ横へずらした。

 片方ぶんの場所は、ちょうど空いた。


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