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第27話 十二人の夫『戸籍は、嘘をつかないはずでしょう』

 ◆◆◆

 戸籍は、嘘をつかないはずでしょう。

 ◆◆◆


 今夜、ひと言はない。

 その代わり、紙の話をする。


 朝一番で、私は区役所へ行った。

 窓口の並びには、婚姻届を出しに来たらしい若い夫婦がいて、小声で産着の相談をしながら順番を待っていた。同じ窓口で、人は生まれ、嫁ぎ、死ぬ。紙の上では、どれも数行の出来事だ。

 思い立ったのは、紗雪さんの名簿を見た晩だ。本家の銭の出所を辿るより先に、辿らねばならない紙が、私にはあった。

 母の、戸籍である。

 考えてみれば、うちは一度も、役所の紙で母を調べたことがない。冥婚の家は、人が消えることに慣れすぎている。帰らなかった、で帳面を閉じる癖が、家ごと染みついている。

 白状すれば、後回しにしたのではない。怖かったのだ。写しの蝶が母の紋だと分かった晩から、母の紙を検めれば何かが数え終わってしまう気がして、私は一年、写し帳ばかり繰っていた。名簿の晩、その言い訳の年季が明けた。

 窓口の若い係員が、宵坂汐、と書いた請求の紙を受け取り、綴りの棚に消えた。戻っては請求の範囲を確かめ、また奥へ消える。それを三度繰り返した。いまの戸籍一冊では足りず、嫁いだ先ごとの除籍簿を、古い順に渡っているのだという。

 一刻近くして、係員は五冊分の抄しを重ね、妙な顔で戻ってきた。

「……失踪のお届けは、出ていないのですね」

「母が消えたとき、私は六つでした。父は早くに亡くなっていて、届を出せる大人は」

 言いかけて、気づいた。

 祖母は分家の隠居で、届の筋は本家が握っていた。本家は、出さなかったのだ。母が消えてから今日まで、一度も。

 誰も届を出さなければ、紙の上で、人は死なない。

「では母は、戸籍の上では」

「ええ。……ご存命です」

 生きている。

 紙の上で、母は生きている。

 湯呑みの茶が急に熱くなったような、妙な気の昇り方をした。生きている。どこかで。名義だけが独り歩きしているのだとしても、独り歩きできるということは、本体がどこかに——。

 会えたら見せたいものまで、咄嗟に浮かんでしまった。形見の針箱だ。仕舞い込まずに、今も使っています、と言う。六つの子のままではない証を、まずあれで立てる。

「ただ、その」

 係員は、綴りを繰る手を一度止めて、言いにくそうに続けた。

「お母上は、その、大変ご不幸な方のようで」

「不幸?」

「ご結婚を、十二回なさっています。十二回とも、ご主人に先立たれて」

 抄しが、こちらへ向けて広げられた。

 婚姻。夫死亡。次の除籍簿へ。婚姻。夫死亡——。

 除籍と入籍の判が、蓮の飛び石みたいに、五冊のあいだを渡っていく。相手の家名は、どれも聞いたことのある華族の家だ。そして、どの家も、もう絶えている。

 紙の上の歳月に、夫が十二人。

 間遠になり、また詰まり、年の並びは揃わない。揃うのは、結末だけだ。十二の家は十二とも、婚姻から一年と保たずに絶えている。帳面の上の母は、家が沈む間際にだけ嫁ぐ女ということになる。

 そんな女が、この世にいるものか。

「こんな……こんな紙が、通るものですか」

 声が、商売の声にならなかった。

「戸籍は、嘘をつかないはずでしょう」

「届は、すべて正規に受理されております」

 係員は、気の毒そうに、けれど役人の顔で言った。

「受理された届は、戸籍になります。戸籍になったものは——嘘では、ないのです。紙の上では」

 正規に受理された嘘は、嘘ではない。

 それがこの国の、紙の理屈だった。

 私は戸籍の謄本を頼み、請求の綴りに自分の名を書いた。宵坂銀子。母の名の隣に、娘の名前が並んだ。

 書きながら、どこかで小さく、算盤の珠がひとつ鳴った気がした。

 嫌な鳴り方だった。理由は、遅れて来る。


 昼過ぎ、本家の使いが縁側に立った。志乃さんだ。

 呼び戻しは、これで三度目になる。一度目は文で来て、二度目は番頭格の使いが来て、三度目は、この人が自分で来た。本家も、だんだん値の張る駒を出してくる。

 私は縁側で写し帳を繰りながら口上を聞いた。隠す気が起きなかったのは、疲れていたからだと思う。

 口上の途中で、志乃さんの声が、止まった。

 視線の先に、開いた写し帳があった。揚羽蝶の陰紋の頁。七枚を並べ直した、あの綴りだ。

 志乃さんの目は、七羽の右後翅へ止まった。二本目の脈が、どれも同じところで切れている。あの夜、血筋の似た紋ではなく、ひとつの彫り型が使い回されたと分かった傷だ。

「それは」

「商売道具です。本家に納めるにしても、検めてからと」

 志乃さんは、長いこと黙って、蝶の頁を見ていた。

 蔑みの目を、私は覚悟していた。死人の花嫁が、身の程知らずの詮索を。そういう目を。

 違った。

 あれは、憐れみの目だった。

 葬式で、遺族の子どもに向ける目。この子はまだ、何も知らない、という目。

「……志乃さん?」

「呼び戻しの件、確かに伝えました」

 志乃さんは口上の顔に戻り、立ち上がり、そして敷居の手前で一度だけ、振り向かずに言った。

「その帳面を、本家に見せてはだめ」

 棘のある声の、棘の抜けた言い方だった。

 どちらが本当の志乃さんなのか、私にはまだ、分からない。


 夕方、立会人が西から帰った。

 汽車の煤の匂いのまま、縁側に座る。土産は、なかった。代わりに手帳が一冊、育って帰ってきた。

「西の連隊区の恩給綴り。日付の操作は、裏が取れた。手口も同じだ。それと、妙なものを見つけた。係の若い官吏の筆跡が、ある月から震えている」

「震える?」

「几帳面な字が、几帳面なまま震えるんだ。ああいう字は、書きたくないものを書かされている字だ」

「会えますか、その方に」

「段取りを組んでいる。急ぐが、急げば向こうの目に付く。生かして会いたい相手だ」

 書きたくないものを書かされている人が、紙の向こうにいる。

 その話を聞きながら、私は昼間の役所の一部始終を話した。十二人の夫のくだりで、立会人の眉が動き、請求の綴りに名を書いたくだりで、動きが止まった。

「——お前の名で、出したのか」

「娘ですので。他人の名では、出せません」

「……そうだな。お前の筋は、通っている」

 通っている、と言いながら、この人の目は手帳の遠くを見ていた。

「筋の通った紙が、一番よく届く。届いてほしくない場所にも、だ」

 昼間の、嫌な珠の鳴りの正体が、遅れて腑に落ちた。

 金脈の名義の戸籍に、娘の名前が触れた。

 網の目の上で、私は名乗ったのだ。

 『生きている』と『生かされている』の間の距離を、私はまだ知らない。

 知らないまま、その距離の上に、自分の名前を置いてしまった。


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