第27話 十二人の夫『戸籍は、嘘をつかないはずでしょう』
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戸籍は、嘘をつかないはずでしょう。
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今夜、ひと言はない。
その代わり、紙の話をする。
朝一番で、私は区役所へ行った。
窓口の並びには、婚姻届を出しに来たらしい若い夫婦がいて、小声で産着の相談をしながら順番を待っていた。同じ窓口で、人は生まれ、嫁ぎ、死ぬ。紙の上では、どれも数行の出来事だ。
思い立ったのは、紗雪さんの名簿を見た晩だ。本家の銭の出所を辿るより先に、辿らねばならない紙が、私にはあった。
母の、戸籍である。
考えてみれば、うちは一度も、役所の紙で母を調べたことがない。冥婚の家は、人が消えることに慣れすぎている。帰らなかった、で帳面を閉じる癖が、家ごと染みついている。
白状すれば、後回しにしたのではない。怖かったのだ。写しの蝶が母の紋だと分かった晩から、母の紙を検めれば何かが数え終わってしまう気がして、私は一年、写し帳ばかり繰っていた。名簿の晩、その言い訳の年季が明けた。
窓口の若い係員が、宵坂汐、と書いた請求の紙を受け取り、綴りの棚に消えた。戻っては請求の範囲を確かめ、また奥へ消える。それを三度繰り返した。いまの戸籍一冊では足りず、嫁いだ先ごとの除籍簿を、古い順に渡っているのだという。
一刻近くして、係員は五冊分の抄しを重ね、妙な顔で戻ってきた。
「……失踪のお届けは、出ていないのですね」
「母が消えたとき、私は六つでした。父は早くに亡くなっていて、届を出せる大人は」
言いかけて、気づいた。
祖母は分家の隠居で、届の筋は本家が握っていた。本家は、出さなかったのだ。母が消えてから今日まで、一度も。
誰も届を出さなければ、紙の上で、人は死なない。
「では母は、戸籍の上では」
「ええ。……ご存命です」
生きている。
紙の上で、母は生きている。
湯呑みの茶が急に熱くなったような、妙な気の昇り方をした。生きている。どこかで。名義だけが独り歩きしているのだとしても、独り歩きできるということは、本体がどこかに——。
会えたら見せたいものまで、咄嗟に浮かんでしまった。形見の針箱だ。仕舞い込まずに、今も使っています、と言う。六つの子のままではない証を、まずあれで立てる。
「ただ、その」
係員は、綴りを繰る手を一度止めて、言いにくそうに続けた。
「お母上は、その、大変ご不幸な方のようで」
「不幸?」
「ご結婚を、十二回なさっています。十二回とも、ご主人に先立たれて」
抄しが、こちらへ向けて広げられた。
婚姻。夫死亡。次の除籍簿へ。婚姻。夫死亡——。
除籍と入籍の判が、蓮の飛び石みたいに、五冊のあいだを渡っていく。相手の家名は、どれも聞いたことのある華族の家だ。そして、どの家も、もう絶えている。
紙の上の歳月に、夫が十二人。
間遠になり、また詰まり、年の並びは揃わない。揃うのは、結末だけだ。十二の家は十二とも、婚姻から一年と保たずに絶えている。帳面の上の母は、家が沈む間際にだけ嫁ぐ女ということになる。
そんな女が、この世にいるものか。
「こんな……こんな紙が、通るものですか」
声が、商売の声にならなかった。
「戸籍は、嘘をつかないはずでしょう」
「届は、すべて正規に受理されております」
係員は、気の毒そうに、けれど役人の顔で言った。
「受理された届は、戸籍になります。戸籍になったものは——嘘では、ないのです。紙の上では」
正規に受理された嘘は、嘘ではない。
それがこの国の、紙の理屈だった。
私は戸籍の謄本を頼み、請求の綴りに自分の名を書いた。宵坂銀子。母の名の隣に、娘の名前が並んだ。
書きながら、どこかで小さく、算盤の珠がひとつ鳴った気がした。
嫌な鳴り方だった。理由は、遅れて来る。
昼過ぎ、本家の使いが縁側に立った。志乃さんだ。
呼び戻しは、これで三度目になる。一度目は文で来て、二度目は番頭格の使いが来て、三度目は、この人が自分で来た。本家も、だんだん値の張る駒を出してくる。
私は縁側で写し帳を繰りながら口上を聞いた。隠す気が起きなかったのは、疲れていたからだと思う。
口上の途中で、志乃さんの声が、止まった。
視線の先に、開いた写し帳があった。揚羽蝶の陰紋の頁。七枚を並べ直した、あの綴りだ。
志乃さんの目は、七羽の右後翅へ止まった。二本目の脈が、どれも同じところで切れている。あの夜、血筋の似た紋ではなく、ひとつの彫り型が使い回されたと分かった傷だ。
「それは」
「商売道具です。本家に納めるにしても、検めてからと」
志乃さんは、長いこと黙って、蝶の頁を見ていた。
蔑みの目を、私は覚悟していた。死人の花嫁が、身の程知らずの詮索を。そういう目を。
違った。
あれは、憐れみの目だった。
葬式で、遺族の子どもに向ける目。この子はまだ、何も知らない、という目。
「……志乃さん?」
「呼び戻しの件、確かに伝えました」
志乃さんは口上の顔に戻り、立ち上がり、そして敷居の手前で一度だけ、振り向かずに言った。
「その帳面を、本家に見せてはだめ」
棘のある声の、棘の抜けた言い方だった。
どちらが本当の志乃さんなのか、私にはまだ、分からない。
夕方、立会人が西から帰った。
汽車の煤の匂いのまま、縁側に座る。土産は、なかった。代わりに手帳が一冊、育って帰ってきた。
「西の連隊区の恩給綴り。日付の操作は、裏が取れた。手口も同じだ。それと、妙なものを見つけた。係の若い官吏の筆跡が、ある月から震えている」
「震える?」
「几帳面な字が、几帳面なまま震えるんだ。ああいう字は、書きたくないものを書かされている字だ」
「会えますか、その方に」
「段取りを組んでいる。急ぐが、急げば向こうの目に付く。生かして会いたい相手だ」
書きたくないものを書かされている人が、紙の向こうにいる。
その話を聞きながら、私は昼間の役所の一部始終を話した。十二人の夫のくだりで、立会人の眉が動き、請求の綴りに名を書いたくだりで、動きが止まった。
「——お前の名で、出したのか」
「娘ですので。他人の名では、出せません」
「……そうだな。お前の筋は、通っている」
通っている、と言いながら、この人の目は手帳の遠くを見ていた。
「筋の通った紙が、一番よく届く。届いてほしくない場所にも、だ」
昼間の、嫌な珠の鳴りの正体が、遅れて腑に落ちた。
金脈の名義の戸籍に、娘の名前が触れた。
網の目の上で、私は名乗ったのだ。
『生きている』と『生かされている』の間の距離を、私はまだ知らない。
知らないまま、その距離の上に、自分の名前を置いてしまった。




