第25話 十三通目『十三通目は、雨に濡らすな』
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『十三通目は、雨に濡らすな』
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秋雨の朝、本家から使いが来た。
番頭格の男衆である。用向きは、聞くまでもない。男爵家の一件からこっち、華族がたの名指しの依頼が続いたのが、余程障ったのだろう。去年の梅雨どき、本家から文が一通届いた。銀子は本家に戻り、差配の下で勤めよ。分家の勝手な受注は、まかりならん。
返事を書かずに置いたら、年をまたいだこの秋、人が来た。口上は、あの文と一言一句同じ。つまりこの使いは、文の返事を取りに来たのだ。
返事の代わりに、私は一枚の紙を出した。
連続不審死の調べに係る立会契約。依頼主、帝国陸軍少佐・鷹尾暁人。期間、調べの終結まで。契約先は宵坂銀子。分家の私、個人である。
「軍の調べの筋のお勤めです。中途で投げれば、宵坂の暖簾に障ります。……本家の姉様がたに障りが及んでは、いけませんので」
使いは紙と私を三度見比べて、帰った。一通目の返事は、これで済んだ勘定になる。
紙は、盾にもなる。この頃、覚えたことだ。
「うまく使う」
縁側で聞いていた立会人が言った。
「あなたの仕込んだ紙です」
「仕込みは半分だ。振り回したのは、お前の口上だ」
祖母が奥で、聞こえよがしに煙管を鳴らした。話を進めな、という合図である。
雨合羽の若い男が、土間で制帽を胸に当てた。
「先達の、千吉さんの冥婚を」
参平さん、二十二。局の配達夫で、赤い自転車を表に停めている。
千吉さん、六十。四十年、同じ坂の上の区を配って、ひと月前の雨の日、橋の上で倒れて死んだ。心の臓が悪いのを隠して、雨の日も配達を代わらなかった人だという。
雨の日の千吉さんは、番傘を差さなかったそうだ。傘を持つ手があるなら、その手で鞄を庇う。濡れるのは頭で、郵便ではない。四十年、それで通した人だ。
「見つけたとき、鞄を胸に抱え込んでました。中の郵便は、一通も濡れてませんでした」
自分は濡れて死んで、郵便は濡らさなかった。
四十年の配達夫の、それが最後の配達姿だった。
「それで……これなんです」
参平さんが風呂敷を解いた。局が遺族代わりに預かった、千吉さんの私物である。
手文庫の中に、下書きの束。十二通ぶん。
宛名はどれも同じ。坂上のお鶴様。
差出人の名は——お鶴さんの、息子さんの名前だった。
「勇作さんは五年前に、演習の事故で亡くなってます。俺も配達で知ってました。なのに、この下書きは……去年の日付のもある」
死んだ息子の手紙を、配達夫が書いていた。五年間、十二通。
そして手文庫の底に、もう一通。書き上がって、封もされて、切手だけがない手紙が一通、眠っていた。
十三通目である。
祝言は、郵便局の裏の、自転車置き場で挙げた。
参平さんが同僚と掛け合って、ひと晩だけ借りてくれたのだ。赤い自転車の並ぶ土間に祭壇を組み、位牌の脇に、あの配達鞄を掛けた。
外は、また雨。トタン屋根を打つ音が、通夜の読経より正直に聞こえた。
参平さんが、位牌の前に自転車の鈴をひとつ供えた。四十年の相棒の、換えの鈴だという。祝言のあいだ、雨音の底で、時折それが小さく鳴った。
三三九度。末期の水。
耳を澄ます。
『——十三通目は、雨に濡らすな』
最期の息まで、配達の心配だ。
いや、違う。
この人の帳面では、それは同じことなのだ。届けると決めた紙を守ることと、生きることが。
夜明けの茶で、十三通目を検めた。開封は、宛先の人の前でと決めて、封は切らずに。
「問題は、届けるかどうかです」
「迷う筋があるのか」
「偽の手紙です。五年間の、偽の」
「なら訊くが」立会人は湯呑みを置いた。「その五年、婆さんは生きたのか」
「……生きました」
「なら偽の手紙ではない。効いた薬だ」
処方した医者が死んだ。最後の一服を、届けるかどうか。
私は、届けると決めた。決め手は薬の理屈ではない。雨に濡らすな、というあのひと言だ。濡らすなということは、届くまで在るということだ。破棄する手紙に、濡れる心配はいらない。
坂上の家で、お鶴さんは、格子の内から先に手を出した。
「珍しいねえ、配達さんが二人かい」
郵便を受け取る形に慣れきった、皺の深い手だった。
参平さんが、十三通目を渡した。お鶴さんは仏壇の眼鏡を取ってきて、それでも読めずに、いつも通りに頼んだ。
「悪いけど、読んどくれ。近頃、目がいけない」
千吉さんも、ずっとそうして読まされてきたのだろう。自分で書いた手紙を、自分の声で。
参平さんが、封を切った。読み始めの声が、一度だけ揺れて、戻った。
「——母さん。永らく便りを続けてまいりましたが、自分はこのたび、遠くへ移ることになりました。手紙は、これで仕舞いになります」
「自分は達者です。母さんの飯で育った体は、どこでも保ちます」
「もう、門で待たないでください。雨の日は、なおのこと」
「五年ぶんの返事は、いつか、まとめて聞きに帰ります」
お鶴さんは、膝の上で手紙を受け取り、胸に当てた。
「……そうかい。仕舞いかい」
それから、五年遅れの泣き方をした。訃報の日に泣けなかったぶんまで、まとめて泣く泣き方だった。
参平さんは、読み終えた姿勢のまま、長いこと頭を下げていた。読み上げた手紙を書いたのが誰か、この人はたぶん、途中から気づいていた。気づいて、最後の一行まで、声を似せて読み切った。いい後任だと思う。
泣き終えたお鶴さんが、仏壇の抽斗を開けて、油紙の包みを出した。皺の手が、中から一通だけ選り出す。
「報せと前後して着いた、あの子の仕舞いの便りだよ。今日のと、並べてやっとくれ」
預かって、十三通目と並べ、仏壇に置き直す。傍らには、五年前の戦死の報せが、色褪せて立ててあった。
お鶴さんは、訃報を知らなかったのではない。五年前、役場の人に二度読み上げてもらい、自分で仏壇へ置いた。それでも翌月に千吉さんが「勇作」の便りを持ってくると、送り返さなかった。
「千吉さんの字だって、二通目には分かってたよ」
皺の指が、十三通目の折り目を撫でた。
「分かってても、あれが来るうちは、あの子を土の下へやらずに済んだんだ。あの人は、あたしに五年も喪服を着る猶予をくれた」
生存を偽る手紙ではなかった。死を受け入れる日を、一月ずつ先へ運ぶ手紙だったのだ。
置くとき、癖で日付を読んだ。読んで、手が止まった。
報せの日付と、仕舞いの便りの消印が、合わない。
息子は、死んだはずの日の三日後に、手紙を出している。
三日。
また、三日だ。
迎え火の家と、同じずれ。
立会人と目が合った。何も言わなかった。言わないまま、彼は手帳に日付をひとつ書き足した。
あの頁の日付は、これで四件目になる。
帰り道、雨は上がっていた。
「あなたは、手紙をお書きにならないんですか」
「書かん」
即答だった。
「書けば、十三通では済まん。局に迷惑だ」
本日の求婚、書面につき未着。帳面には、そう付けておいた。




