第24話 一コマの求婚『三巻目で、灯りを点けるな』
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『三巻目で、灯りを点けるな』
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夏の盛りの活動写真小屋には、怪談がよく似合う。
似合いすぎて、本物の騒ぎになることがある。
「呪いのフィルムなんです」
うちの土間で、電気館の主人は手拭いで首を拭き拭き言った。
「うちの看板弁士だった水島燕声が、ひと月前に楽屋で倒れまして。卒中で、そのまま。……それからです。あの人が語りをつけてた『嵐の孤児』の三巻目にだけ、変なものが映る」
「変なもの、と申しますと」
「字です。一瞬、画面いっぱいに、字が」
映るはずのない字が閃く。客席は悲鳴、婦人がひとり気を失った。死んだ弁士の声が、字になって画面に出るのだ。噂は三日で町内を回り、いまや三巻目に入る前に場内の灯りを点け、上映を止めるのが決まりになっているという。
「お祓いも考えたんですが、うちは活動写真小屋だ。坊さんを呼んだら、それこそ本物の曰く付きになっちまう。そこへ来て、おたくの噂を聞きましてね。死んだ本人に訊けるってんなら、それが一番早い」
理屈の通った客だ。
「承ります。祝言は、小屋で挙げさせてください。銀幕の前で」
「……絵になりますな」
商売人同士、話が早かった。
夜の電気館は、昼間より広く見えた。
空の客席。銀色の幕。映写室の小窓がひとつ、目のように暗い。
幕の前に祭壇を組み、位牌を据えた。楽屋から出てきた遺品は、湯呑みと、扇子と、使い込んだ語りの台本が一冊。台本の余白は書き込みで真っ黒だった。声の商売の人は、紙の上でも喋るらしい。
書き込みを、断って読ませてもらった。『ここ、間を三つ』『泣かせにいくな。堪えた声で言え』。どれも語りの指図だ。恋の場面の頁ほど、指図が細かい。人の恋を千べん語ってきた声の人が、自分の恋は、一度も声にしなかった。
切符売りのお文さんが、隅の席で膝を揃えていた。十九。燕声さんが目を掛けていた娘だという。十二の年の熱病で、耳が聞こえない。
弁士の小屋の切符売りが、弁士の声を一度も聞いたことがない。
切符を切る鋏の速さは小屋一番で、客の顔を覚えるのも一番だという。音の消えた世界から、この人は指と目だけで、十年、この小屋を支えてきた。
そのことを、私は支度のあいだじゅう、考えていた。
三三九度。末期の水。
耳を澄ます。
『——三巻目で、灯りを点けるな』
恨みではない。呪いでもない。
注文だ。それも、ずいぶん切実な。
灯りを点けるな。上映を、止めるな。三巻目を、終いまで回せ——。
夜明けの茶は、映写室の隣の小部屋で頂いた。映写技師の淹れた番茶は、フィルムの匂いがした。
「三巻目に、何を仕込みました?」
技師に訊くと、若い技師は首を振った。
「俺じゃありません。ただ……妙なことなら、ひとつ。燕声さん、死ぬ前のふた月ばかり、興行がハネたあとも一人で映写室に残ってました。フィルムを触らせてくれって。弁士がフィルムを触るなんて、聞いたことがない」
「見せて頂けますか。三巻目を、ゆっくり」
技師が手回しで、一コマずつ送ってくれた。
あった。
本編のコマの間に、別のコマが、一枚だけ挟まっている。黒地に白の、字幕のコマだ。
『お文さん』
一枚きりだから、普通に回せば瞬きの間に消える。それが「呪いの字」の正体だった。
技師が息を呑んで、さらに送る。三巻目の終い、本編が終わった後の尻尾。そこに今度は、字幕が何枚も続けて継いであった。
『お文さん。俺の声は、あなたに届いたことがない』
『けれど字幕は届く。あなたは十年、誰より字幕を読んできた人だ』
『声のいらない返事をひとつだけ、聞かせてほしい』
『——俺の女房に、なってくれませんか』
最後の一枚は、糊を半分引いたところで終わっていた。
若い技師が、切れたフィルムの端を指で挟んだ。
「燕声さん、声を捨ててまで、これを」
本編の途中に挟まった『お文さん』の一枚は、最初の試しだったのだろう。その一枚だけが先に客へ届き、呪いと呼ばれて、肝心の求婚を止めていた。
「……呪いの正体、という帳面の付け方をするなら」
私は言った。
「恋文、と付けるほかありません」
その晩、電気館は貸し切りで三巻目を回した。
客席にはお文さんと、小屋の者と、私と、立会人だけ。灯りは落とした。遺言どおりだ。
嵐の孤児が家に帰り着き、本編が終わる。ひと呼吸おいて、字幕が始まった。
お文さんの指が、最初の字幕を追った。二枚目で止まり、三枚目で胸元を掴んだ。最後の一枚が消えるまで、瞬きひとつしなかった。
幕が白へ戻ってから、ようやく両手で口を覆った。肩だけが大きく揺れている。やがて右手を胸へ置き、位牌へ向けて、深く一度、頷いた。
位牌は幕の前、いちばんよく見える席に置いたままだった。
お文さんは立ち上がると、映写室へ行った。技師に頼んで三巻目を外してもらい、最後の継ぎ目へ、そっと指を置く。糊の乾いた一筋を、声の人の喉にでも触れるように撫でた。
それから切符鋏を借り、未使用の半券へ、小さな穴を二つ並べて開けた。
一枚は位牌の前へ。もう一枚は、自分の帯のあいだへ。
十年、客を入れてきた人の返事だった。今度は二人ぶんの席を、自分で取ったのだ。
「今夜は、お静かでしたね」
帰り道、つい、私の方から言ってしまった。言ってから、しまったと思った。
「人の求婚を見届けた日くらい、静かにしている」
立会人は前を向いたまま、それだけ言った。
……こういう静かさを、なんと帳面に付ければいいのだろう。付けようがないので、今夜は帳面ごと閉じることにした。
閉じ損ねたのは、帳面ではなく、別のものだった。
映写室へ灯りが戻っても、お文さんはしばらく立てなかった。
白い幕に向けた指先だけが、何度も同じ形を結んでいる。
小屋の者に意味を訊くのは、野暮だった。
あれはきっと、燕声さんが一生かけても聞けなかった、声のいらない返事だった。




