第22話 幕間・夜明けの側『今夜、ひと言はない。』
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今夜、ひと言はない。
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廊下は、冷える。
祝言の間の外、襖から一間半。ここが俺の定位置になって、まる一年が経った。初冬に始まり、また初冬が来た。同じ廊下の同じ板が、去年より少しだけ、俺の形に馴染んでいる。
俺、鷹尾暁人。職分は連続不審死の調べ。名目は冥婚の立会人。実情は——実情の呼び名は、俺の管轄の外にある。
襖の向こうで、盃の鳴る気配がする。
今夜の花婿は、五十年やった表具師だ。紙と糊で襖と屏風を張って、紙に埋もれて死んだ。遺した未練も、たぶん貼りかけの襖のことだろう。ああいう仕事の一言を、彼女は明け方、湯呑みを挟んで俺に訳してみせる。それを聞くのが、近頃の俺の夜明けだ。
彼女の耳を、俺は疑ったことがない。
最初の晩からだ。兄の枕元で、あの女は『俺の妻を、さがしてくれ』と聞いた。作り話をするなら、もっと売りやすい嘘がある。死人の妻をさがせという厄介な注文を、こしらえて得をする者はいない。
得にならない言葉だけが、本物だ。軍の調書で覚えた読み方が、こんなところで役に立った。
調べの方は、進んでいる。進んでいる、と書いて、手が止まる。
公報の日付は、これで三件狂っていた。初めのひとつは、迎え火の家の——あの仏壇屋の倅。それから、戦没兵の綴りに埋もれていたもう二件。日付を三日動かすと、恩給の起算が変わる。起算が変わると、金の落ち先が変わる。
書き間違いは、揃わない。揃う間違いは、間違いではない。
軍の中に、手を貸している者がいる。それも、恩給の綴りに手の届く場所にだ。軍服を着た者を疑う仕事は、軍服で行くと逃げられる。急がば回れの回り道を、いま設計している。
憲兵を動かせば早い。だが憲兵が動けば、紙が燃える。欲しいのは、燃える前の紙だ。
それから、爵位局。兄の妻の照会は、四度目も「審査中」で返った。四度目の紙には、受付の判すら掠れていた。壁というのは、叩き続けると、叩く音で厚みが分かる。あれは局のどこかの部屋一つ分、厚い。
そして、写し帳の七枚の蝶。
あの朝の彼女の声を、俺は覚えている。
母の、紋です。
平らな声だった。番茶の温度を言うのと同じ声で、あの女は自分の母親の紋が七つの墓に散っている話をした。ああいう平らさは、強さではない。堪える癖が、声の形になっただけだ。
あの癖のつき方を、俺は軍で幾つも見てきた。だから分かる。あれは、ひとりで積んできた者の声だ。
もう、ひとりでは積ませない。
兄の弔いで、俺は泣いていない。
軍人の顔というのは便利な装束で、着方は教わるが、脱ぎ方は教わらない。葬列でも、初七日でも、俺は姿勢のいい次男坊のままだった。侯爵家は、それでいいと言った。
ただ、この廊下は妙な場所だ。
見も知らぬ死者が、未練をほどかれて送られていく気配を、襖一枚越しに聞く。写真師。一等卒。三味線の師匠。番頭。そのたび、俺の中の動かなかった何かが、一寸ずつ動く。他人の弔いを借りて、兄の弔いが進む。
立会いの実利は、とうに薄い。それでも俺がこの冷える廊下をやめない本当の理由は、たぶんそれだ。
彼女には言っていない。言えばあの女は、湯呑みを置いて、聞いたままを言えと俺に言うだろう。うちは正直が身上ですので、と。
……その通りにできるなら、苦労はない。
兄の手紙のことを、書いておく。
兄が死ぬひと月ほど前に届いた手紙が、俺の手元にある。開けていない。
あの頃の俺は演習地にいて、兄の手紙はいつも説教くさくて、帰営してから読めばいいと文箱に放り込んだ。そのひと月後に、兄は死んだ。
開ければ、何か書いてあるかもしれない。開けて、何も書いていなかったら——兄が最後にくれた紙が、ただの時候の挨拶だったら、俺はたぶん、それに耐えられない。
軍人が、紙一枚を怖がっている。笑えばいい。
兄は、そういうことを笑わない人だった。
俺が軍に入ると言ったとき、家の者は皆、次男の体のいい厄介払いという顔をした。予備の流刑だと、遠縁の誰かは言った。兄だけが違った。任官の日、俺の軍帽の顎紐を指で直して、お前は物の壊れる音より、人の並ぶ音の方をよく聞く男だ、軍はお前の天職だ、と言った。
あの人に天職と呼ばれたから、俺はこの服を着ていられる。
その兄の最後の紙を、俺はまだ、開けられずにいる。
ひとつ、自分に訊いておかねばならないことがある。
俺は、なぜあの女を娶ると決めたのか。
兄の声を聞いた耳だからか。兄への線が、あの耳の向こうにしかないからか。——つまりこれは、恋の顔をした依存ではないのか。
問いを立てて、夜明けまで置いてみる。
答えの代わりに、思い出すのは妙なものばかりだ。相場の倍を突き返して「うちは相場しか頂きません」と言った手つき。他人の母子の後始末を引き受けて、自分の手の内は明かさない横顔。焼け跡で、白無垢は汚れるために着るのだと言った、あの声。
兄とは、何の関わりもないものばかりだ。
……答えになっているのか、いないのか。この問いは、まだ畳まずに置いておく。いずれ、誰の耳も借りずに答えを出す。それまでは、求婚の帳面を向こうに付けさせておけばいい。却下の字が、あの帳面で一番よく育っている。
襖の奥で、衣擦れの音がした。夜が、終わる。
俺は廊下の冷えから立ち上がり、襖に向かって一度、頭を下げる。
今夜の花婿に、だ。
名も知らん表具師どの。貴公の女房どのは、俺の連れではないが、貴公の一夜の妻ではある。妬けるな、と思う。あの女の夜は、いつも死者のものだ。
——だが、妬くのはここまでだ。
夜は、貴公らのものでいい。
夜明けは、俺が貰う。
女中が茶の盆を運んでくる。湯呑みは、ふたつ。それを確かめてから、俺は縁側の障子を開けた。




