第21話 写し帳『帝都の墓が、誰かの帳簿になっている』
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『帝都の墓が、誰かの帳簿になっている』
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梅雨が明けて、商いがひと息ついた晩のことだ。
私は行灯の下で、写し帳の綴じ直しをしていた。
過去帳や墓誌から写し取った紋と戒名の控えだ。商いの数だけ頁が増える。母の代からの分も合わせると、綴りはもう四冊になる。二冊目の途中で、筆の主が母から祖母に替わる。母が消えたあとの頁だ。針を持つ手の字で、それでも一件も欠けていない。
本家に戻れという文が来た以上、商売道具の写し帳は検めておきたかった。取り上げられるにしても、中身をこの頭に写してからだ。うちの身代で、盗まれない蔵は頭の中しかない。
「まめなのは、汐に似たね」
祖母が、繕い物の手を止めずに言った。
「お祖母ちゃん。……母さんの最後の冥婚のこと、訊いてもいい?」
生まれてこの方、正面から訊いたのは、これが二度目だった。一度目は十歳のときで、祖母は答えなかった。
今夜の祖母は、針を布に刺したまま、少し黙った。
「……分家には、何も知らされなかったんだよ」
「何も?」
「請け状は、本家が握ってた。行き先も、客の名も、仏の名も。汐は本家の座敷で支度して、本家の車で出た。あたしらが知ってるのは、帰らなかったことだけだ」
布袋屋の藍の織元の在所、北寄りのあの土地の名を出すと、祖母は初めて針を置いた。
「……ああ。汽車の切符の手配で、本家の女中がそこの駅の名を言ってた。それだけは、あたしも覚えてる。忘れようがあるかい」
あの日から誰にも言わずに覚えていた駅の名を、祖母は番茶を飲むような声で言った。ああいう声の出し方は、覚えのある者にしかできない。
偶然かもしれない。偶然でないかもしれない。どちらにせよ、請け状の紙は本家の蔵の中だ。壁の向こうで誰かが紙を握って離さない。近頃、こんな話ばかりだ。
夜が更けて、祖母が寝てから、私は四冊の写し帳を全部開いた。
いつもは日付の順に綴じてある。それを今夜は、思い立って、紋の種類で並べ直してみた。商いの筋で分けるより、紋で分けた方が、本家に口上を立てやすいと思ったのだ。
桐、片喰、木瓜、藤。女紋の定番が、行灯の下で山を作っていく。
その中に。
妙な山が、ひとつ、できた。
揚羽蝶の陰紋。細い線だけの蝶。線が細いから、写しでは潰れて、黒い染みのようになる紋。染みになるから、一枚ずつ見ている限り、目が素通りする紋だ。
一枚なら、見過ごす。二枚でも、まだ流せる。
七枚、あった。
真木子爵家の墓誌。あれが最初だと思っていた。違った。母の代の古い綴りに、同じ蝶が三枚。私の代の綴りに、真木家を入れて四枚。日付は、十四年前から今年まで、飛び飛びに続いている。
行灯を引き寄せて、一枚ずつ、突き合わせる。
七羽とも、右の後翅、二本目の脈だけが途中で切れていた。私の写し損じなら、七度も同じところを欠かない。母系に伝わる似た紋でも、彫り型の傷までは継がれない。
同じ型から出た蝶だ。
家も、土地も、宗旨も違う七つの墓へ、誰かが同じ傷を押して歩いた。
別々の「妻」を示す紋ではない。ひとりの女——少なくとも、ひとり分の名義を、頁の付け替えのように、あちこちの死者へ嫁がせた印ではないか。
仮説にしては、七羽の傷が揃いすぎていた。
それから、思い出したものが、もうひとつあった。
写真館の一件で覗いた、六枚目の試し焼き。勘当子息の内緒の祝言、その庭先に停まっていた箱馬車の扉。あれも、この蝶だった。
紙から消された祝言の庭先に、この蝶がいた。墓の上だけではない。生きて動く車の扉にまで、この紋は乗っている。
紙は書き直せる。石は彫り直せない。だから紙で済む嘘を、わざわざ石に彫るのは、後から検めに来る者のためだ。あの晩、真木の墓誌の前で気味が悪いと思ったことの正体が、行灯の下で、ゆっくり形になった。
帝都の墓が、誰かの帳簿になっている——。
手が、勝手に動いた。
懐から針箱を出す。母の形見の、私の商売道具。
蓋を裏返す。
細い線の、揚羽の蝶。
写し帳の七枚と、針箱の蓋裏を、行灯の火の下で並べる。
線の細り方。羽根の反り。
同じ、だった。
……験担ぎだと、思っていた。洒落者の母の、ただの蝶だと。
これは、紋だ。母の、女紋だ。私が教わらないまま大きくなった、母から私へ伝わるはずだった紋だ。
その紋が、見も知らぬ七人の死者の墓に、「妻」として刻まれている。
十四年前から。母が消えたのは、その翌年だ。
指先が、冷えた。
初めの三枚は、母がまだこの家にいた頃の墓だ。生きて、笑って、この針箱で私の袖を繕っていた人の紋が、そのころもう、見知らぬ死者の隣に刻まれていた。
母は、知っていたのだろうか。自分の蝶が、勝手に嫁がされていたことを。
知っていたから——あの冥婚から、帰らなかったのだろうか。
考えるだけ日当にならない。いつもの独り言は、今夜だけ、効かなかった。
夜明けを待って、私は鷹尾の屋敷に使いを出した。
立会人は、朝駆けで来た。軍服の釦がひとつ、掛け違ったままだった。この人の着付けの乱れを見たのは、初めてだ。使いの文には「お見せしたい帳面あり」としか書いていない。帳面の四文字で走る客は、この人くらいのものである。
「どうした」
「……見て頂きたいものが、あります」
縁側に、写し帳を七枚、開いて並べる。それから針箱の蓋を、その隣に。
彼は長いこと、黙って見ていた。この人の黙り方には種類がある。今日のは、一番深いやつだった。
「帝都の墓が、誰かの帳簿になってるんです」
声が、思ったより平らに出た。商売の声だ。商売の声しか、出し方が分からなかった。
「それで——この紋の、持ち主は」
言え、と自分に言う。うちの商いは、正直が身上だ。
「母の、紋です」




