第20話 兄弟の傷
「聞いたままを、申します。位牌の名前は、俺のものじゃない——と」
夜明けの茶は、庫裏の囲炉裏端で頂いた。
おきぬさんは、湯呑みを取り落としそうになった。立会人が、黙って受け止めた。
「名前が、違う……?」
「乳母どの」と、立会人が静かに訊いた。「双子のお二人を、見分けられるのはあなただけと伺った。棺のお顔は、検められたか」
「……いいえ。お棺は、要蔵様のお指図で、あたくしが駆けつける前に釘を。お顔は、見せて頂けませんでした」
釘を打たれた棺。伏せられた位牌。手慣れた仕舞い方。
検算の指が、また一本折れる。
「気を悪くなさらずに伺います。佳久様と佳ツ馬様、お体で違うところは」
「佳久様は、お小さい頃から胃の腑がお弱くて。この二年は殊に、主治医の先生が月に三度も。おやつれになって、あたくしは、抱いた時分の重さを思い出しては」
病んでいたのは、兄。
死んだことになっているのは、弟。
そして会議の末席で、一度も口を利かなかった、青白く痩せた「兄」。
痩せ方には、種類がある。心労の痩せと、長患いの痩せは、違う。あの人のは、どちらだったか。
目を閉じて、会議の座敷を思い出す。人の顔は忘れない。耳のほかの、商売の元手だ。
あの「佳久様」の手首は、日に灼けていた。青白いのは顔だけだ。顔色は作れる。手首の灼けは、作れない。二年も床に就きがちの人の手首では、ない。
「鷹尾様。検死の書付は、引けますか」
「毒を呷った『逆賊』の検分だ。番屋に綴りがある。何を見る」
「主治医の記録です。ご病気と、昔の傷と。顔色だけでは、違うとは言えませんから」
三日後、立会人が綴りの写しを持ってきた。
検死をした医師は長患いの痕を認め、主治医の病状書付とも一致すると記していた。けれど、私たちはその紙だけで名前を決めなかった。
おきぬさんへ、兄弟の昔の怪我をもう一度訊いた。
もう一度、真柴の家に人が集まった。今度は番屋の立ち会いつきの、検めの席である。
綴りの写しが読み上げられ、座がざわめく中で、最初に動いたのは、おきぬさんだった。
杖も突かずに末席まで歩き、「佳久様」の前に膝を折る。それから断りもなく、その左の耳の後ろへ、皺だらけの指を伸ばした。
「六つの年、木登りで落ちて、こさえた傷がございます。膏薬を貼ったのは、あたくしです。……兄君の方には、ございません」
指が、小さな傷痕の上で止まった。二度、三度、撫でて確かめて。
「——佳ツ馬様。お帰りなさいませ」
その一言で、末席の人は、ほどけるように頭を垂れた。
「……兄上が、仰ったのです」
佳ツ馬様だった。双子の弟、逆賊として位牌に彫られた当の人が、そこに生きて座っていた。
「俺はもう保たない。俺が死ねば、叔父上は必ずお前に濡れ衣を着せて、家を取る。だから先に、入れ替わっておく。死ぬのは病人の俺でいい。生きて家を継ぐのは、達者なお前であれ——と。兄上は、笑ってさえおいででした。双子に生まれた甲斐があったな、と。……俺は、笑えませんでした」
支度は、二人きりで進めていたという。筆跡の稽古。咳の癖。床の中の兄が点をつけた。その咳は俺より俺だ、と。
あの晩は、支度半ばに来た。
「叔父上から、俺を名指しに、労いの茶が一服届きました。兄上は包みを一目見て、俺に蔵の刀の手入れを申し付けられました。当主の命だ、朝まで戻るな、と。あんな強いお声は、初めてで」
「明け方、母屋が騒がしくなりました。駆けつけたときには、もう」
言葉が、そこで切れた。火の爆ぜる音だけが、席の続きを務めた。
「枕元には、叔父上の手の者が、医者より先に来ておりました。生きている俺を見て、言ったのです。佳ツ馬様が兄君に毒を盛ろうとして果たせず、その毒を呷られた、と。俺の名で、です。棺の釘は、その日のうちに。乳母にも、顔は見せずに」
「なぜ、すぐ仰らなかったのです」
おきぬさんが訊いた。
「兄上のしたことを、無駄にしてしまうと思った」
「お骨は、佳ツ馬様の名で送られました」
「分かっている」
「分かっておいでなら」
おきぬさんの声が裂けた。弟は両手を畳へ置いた。
「怖かったんだ。次は俺だと思った。兄上の顔をしていれば、少しは保つと思った」
叔父は入れ替わりを知らず、弟を除いたつもりで棺を閉じた。残された弟も、訂正しなかった。
おきぬさんは伸ばした手を途中で止め、それでも弟の背へ置いた。
毒の出所は、要蔵氏の書生が吐いた。氏が「家名存続の相談役」と呼ぶ、名乗らない世話人から届いた包みだという。弟に罪を着せて早く綴じよ、という知恵も、同じ筋から出ている。会議の綴りの写しも、毎度そこへ届いていた。誰なのかは、書生も知らない。
名乗らない相談役。手慣れた仕舞い方。届く毒と、添えられる筋書き。
蜘蛛の巣、という言葉が浮かんだ。巣というものは、掛かった羽虫からは全体が見えない。見えないように、張るものだからだ。
要蔵氏は縄についた。
位牌の名前は、俺のものじゃない。
あれは、入れ替わりの告発だった。弟に着せられた濡れ衣ごと、仕組みを割るための。
紙の上の名前は、元へ戻ることになった。死んだのは佳久様。生きて家を継ぐのは佳ツ馬様。逆賊の位牌は削り直され、死んだ人には死んだ人の名前が、生きた人には生きた人の名前が返った。うちの商いは、つまるところ、いつもこれだ。
弔い直しの祝言で、おきぬさんはまた、飴玉をふたつ供えた。
「もう、喧嘩の種もございませんでしょうから」
新しい位牌の名前は、佳久様。
今度は誰も、伏せなかった。
「見事な検めでしたわね」
数日後、うちの土間に、紗雪さんが菓子折を提げて現れた。
「社交界は、その話で持ち切りよ。真柴の検めをした冥婚屋の花嫁——どこの家の奥向きも、あなたの名を知りたがっているわ。教えて差し上げたけれど」
「教えたのですか」
「宣伝ですもの」
友人というのは、勝手に商いを広げるものらしい。
果たして、その月のうちに、華族からの名指しの依頼が三件来た。三件とも、本家を通さず、うちの分家に直で、である。
そして月末、本家から呼び出しが来た。
当主直々の文で、いわく、銀子は明日より本家に戻り、本家の差配の下で勤めに出ること。分家の勝手な受注は、以後まかりならん。
「今さら、どういう風の吹き回しでしょうね」
祖母は文を火鉢の縁でとんとんと揃え、鼻で笑った。
「決まってるだろ。あんたが銭になり始めたからさ」
それだけなら、いい。銭の話なら、分かる。
分からないのは、文の末尾の一行だ。
『客筋への義理あるにつき、遅滞なきこと』
客筋。
本家の客とは、誰のことだろう。




