第19話 位牌の名『位牌の名前は、俺のものじゃない』(前編)
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『位牌の名前は、俺のものじゃない』
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真柴男爵家の弟君は、「逆賊」として死んだ。
佳ツ馬様、二十四。当主である双子の兄・佳久様を毒殺しようとして果たせず、罪を苦にして自ら毒を呷った、と家は発表し、新聞は「華族の御家騒動」と書き立て、世間はそう覚えた。
覚えられたが最後、死人は言い返せない。言い返せない側の言い分を引き受けるのが、うちの商売である。
母のことは、まだ祖母に訊けていない。帰った晩に切り出しかけると、祖母は針から目も上げずに「その話は、手が空いてからだね」と言った。手の空く前に、この依頼が来た。訊く前に客が来る。うちは、そういう家だ。
冥婚を頼んできたのは、双子の乳母だった老女である。
「あたくしはあの子たちを、乳飲み子から抱いて参りました」
おきぬさんは、皺の寄った手で、袱紗ごと畳に手をついた。包みの銭には、樟脳の匂いが移っていた。長いこと箪笥の底で眠っていた、乳母の給金の、たぶん有り金だ。
「佳ツ馬様は、兄君のためなら火にでも入るお子です。六つの年、兄君が麻疹で寝付いたときなど、うつるからと引き離しても引き離しても、夜中に襖を開けて枕元に座っておいでで。……その子が兄君に毒を盛るなど、天地がひっくり返っても、ございません」
「御家は、冥婚をご承知なのですか」
「存じません。存じたら、止められます」
逆賊の弔いは、家の恥。位牌ひとつ、仏間の隅に伏せて置かれているという。
伏せられた位牌、というのが、私はこの世で一番嫌いだ。位牌は、死んだ人の名前の家だ。家ごと俯せにされて、息のできる名前があるものか。
「承ります。——ただし、揉めますよ」
「揉めるために、参りました」
七十をいくつか出た婆様が、いい顔で笑った。
果たして、揉めた。
祝言の支度が真柴の親族に知れ、私は乳母もろとも、親族会議とやらに呼び出された。
通された広間は、絶える寸前の家の匂いがした。床の間の飾りが減り、箪笥のあった壁だけ、畳の色が青い。人より先に、物から出て行く家の匂いだ。真木の御屋敷と、同じ匂いがする。
上座に、当主の叔父にあたる要蔵という人が座る。家督の後見人だそうだ。左右に親族が並び、脇には若い書生がひとり、矢立と綴りを構えて控えていた。人の出入りまで書き留める会議らしい。
そして末席に——兄君の佳久様が、いた。
双子の生き残り。青白い顔の、痩せた人だった。袖口から覗く手首だけ、顔より濃い色をしていた。会議の座敷では、妙なところばかり目に入る。
人前に出ないはずの病身の当主を、後見人はこういう席にだけ引き出すらしい。頭数より、旗印が要るのだろう。当の旗印は、毒を盛られかけた当人のはずなのに、この会議で一度も口を利かない。目だけが、時折こちらを見た。
「逆賊に冥婚とは、正気か」
要蔵氏の声は、油を売る商人のそれだった。よく回って、よく滑る。
「真柴は絶家の瀬戸際にある。当主は病がち、跡取りはない。この上、弟の醜聞を蒸し返されては、家名が保たん。家名が保たねば、御先祖に申し訳が立たん」
家名、家名。近頃、よく聞く言葉だ。焼け跡で聞いた柔らかい声と、言い回しの背骨が似ている。
「時に花嫁とやら。お前の商い、死人の声が聞こえるそうだな」
「一言だけ、伺います」
「ほう。では聞かせてもらおうか。……都合の悪い声なら、聞かなかったことにできる耳かな」
値踏みの笑いが、座敷に薄く広がった。
「畏れながら」
おきぬさんが、膝を進めた。「佳ツ馬様は、そのようなお子ではございません」
「乳母どのは黙っておれ。雇われた守りの言うことだ。……身贔屓も、乳のうちよ」
座敷がまた薄く笑った。おきぬさんの白い頭は、下がらなかった。七十過ぎの背筋が、ぴんと立ったままでいる。
この依頼を受けてよかったと、値踏みの座敷の真ん中で思った。
こういうとき、私の商売の顔は便利にできている。笑いも怒りもせず、店の秤のように黙っていられる。秤は言い返さない。目方だけ、覚えて帰る。
黙っていられたのには、もうひとつ理由がある。
いつの間にか、私の斜め後ろに、立会人が立っていた。
軍服のまま、何も言わず、ただ立っている。連続する不審死の調べの筋で、職権の書付を懐に、そこにいる。彼が座敷へ一礼すると、笑いが引いた。軍服というのは、そういう道具だ。
「祝言は、乳母どのの私事。家は関知せぬ。それでよかろう」
要蔵氏は、扇子で膝を打って話を仕舞った。仕舞い方だけ、妙に手慣れていた。
立ち去りざま、書生が綴りを閉じる音がした。
付ける先のある帳面は、閉じる音まで几帳面だ。あの写しは、どこへ届くのだろう。
「揉めますよ、とは申しましたが」
門を出てから、私は後ろの軍服に言った。
「揉める前に終わるとは、申しておりません。……助かりました」
「礼は要らん。俺が立ちたくて立った」
それだけだった。それだけの言葉が、妙に長く袖に残った。勘定の外の話は、いつも始末に困る。
祝言は、菩提寺の庫裏で挙げた。
伏せられていた位牌を、おきぬさんが胸に抱いて運んできた。布で拭いてきたのだろうに、白木の角に埃の名残がある。伏せられていた側の面だけ、灼けずに白い。裏返しの日向ぼっこを、この名前は幾日させられていたのか。
白木の位牌に、佳ツ馬様の戒名。逆賊の戒名は、院号も居士も削られた、痩せた文字の並びだった。戒名は、生きているうちの行いではなく、死んだときの家の都合で太ったり痩せたりする。
おきぬさんは位牌の前に、小さな紙包みを供えた。開くと、飴玉がふたつ。
「お小さい頃、お二人が喧嘩をなさるたび、仲直りの印に、あたくしがおひとつずつ」
ふたつ、である。ひとつではない。
この人の帳面では、あの双子は今も、ふたりで一組なのだ。
三三九度。末期の水。
耳を澄ます。
『——位牌の名前は、俺のものじゃない』
……。
位牌の名前は、佳ツ馬。
それが、俺のものじゃない、ということは。
綿帽子の内で、私はゆっくりと、検算の指を折り始めた。
一つ。双子は、顔が同じ。
二つ。当主は病がちで、人前に出ない。
三つ。死んだのは——本当に、弟の方か?




