第18話 藍の銘仙『藍の銘仙に、値を付けるな』
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『藍の銘仙に、値を付けるな』
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「祝言くらい、店で出してやりませんとな」
呉服屋・布袋屋の主人は、そう言って冥婚を頼んできた。
仏は、大番頭の徳三さん、七十一。十一の年から数えて六十年の奉公、生涯独身。棚卸しの晩に三番蔵へ入ったきり戻らず、朝、棚卸しの綴りを抱えたまま冷たくなっているのが見つかった。卒中だという。
六十年勤めて、湯屋と髪結い床のほかに銭を使った姿を、誰も見たことがない。若い衆は陰で守銭奴と呼び、表では爺やと呼んだ。呼び分けの器用な店だ。
祝言を、とは殊勝な申し出に聞こえる。だが四代目のこの主人、徳三さんより三十も若い。
「正直に申せば、私はあの爺やが苦手でした」
と、主人は苦笑した。
「渋くて、細かくて。反物一寸の値切りにも眉を動かさない。……ですが先代が、死に際に言い遺したのです。徳三にだけは、義理を欠くなと」
義理の中身は、先代も言わなかったそうだ。
中身の分からない義理ほど、値の付けにくいものはない。付けにくい値札を、うちに回してきたわけだ。
祝言は、三番蔵の前で挙げた。
蔵の中でと願ったのだが、主人が渋った。三番蔵は反物の蔵で、火が入れられないのだという。もっともな話なので、蔵の戸前に祭壇を組んだ。
土蔵の白壁に、白無垢。月が出て、どちらも青く染まった。
立会人は、白壁を背に立った。月の下では、軍服も墨色になる。
「蔵の前の祝言は、初めて見る」
「花婿の席が蔵の中ですから。……錠前ごしの祝言も、うちでは商いのうちです」
鍵は主人が握って離さない。蔵と一緒に、何を仕舞っているのだか。
三三九度。末期の水。
耳を澄ます。
『——藍の銘仙に、値を付けるな』
銘仙。
女ものの、普段着の絹だ。女学生の矢絣も、長屋のおかみさんの縞も、たいていは銘仙である。呉服屋の蔵なら、何十反もあって当たり前の品。
その銘仙に、値を付けるな。番頭の言葉としては、あべこべだ。
値を付けるのが、番頭の仕事なのだから。生涯かけて値を付け続けた人が、最期の息で、たった一反の値付けを拒んだ。
夜明けの茶の席で、私は主人に蔵の検めを願い出た。
立会人と、徳三さんの残した綴りと、三人がかりで三番蔵に入る。反物の棚が天井まで並び、畳紙の匂いがした。紙と絹の匂いは、蔵の中では線香に似る。
「帳面と棚を、突き合わせます」
こういう検分は、性に合っている。端から順に、感傷を挟まず、数を数えるように。
あった。
最上段の奥。綴りに『藍銘仙一反、売れ残り』とだけ載って、五十年、売れも動きもしていない反物が。
立会人が梯子を押さえ、私が下ろした。畳紙は古いのに、綴じの紙縒りだけ、何度も結び直した跡がある。年に一度、誰かが開けて、閉じてきた紙の顔だ。
畳紙を解くと、藍が出た。
蔵の薄闇で、そこだけ夜明けが来たような藍だった。深い、明け方の空の色に、細い雪輪の飛び柄。今の流行りからは二回りも古い柄行きだが、糸がいい。素人目にも分かるほど、糸がいい。
「これは……銘仙の値ではありませんな」
主人が唸った。「誂えの、それも花嫁衣装の下に着る色でしょう。誰がこんな上物を銘仙で」
「仕入れの記録は」
「ない。五十年前から『売れ残り』の四文字だけです」
仕入れのない売れ残りは、この世にない。あるとすれば、それは商品ではないのだ。帳面の顔をした、別のものだ。
種を明かしたのは、隠居の身の、先々代の女中頭である。九十近い婆様は、藍の反物と聞くと、駕籠を断って、杖をつきながら自分の足で蔵まで来た。広げた藍の前に膝を折り、目より先に、手が伸びた。皺の指の腹が、雪輪の柄をひとつ、たしかめるように撫でる。
「お絹さんの、嫁入りの反物だよ」
五十年前——徳三さんが二十一の年、言い交わした人がいた。仕立て屋の娘のお絹さん。祝言はひと月先に決まっていて、徳三さんは給金をはたいて、その反物を織元に誂えさせた。
祝言を待たず、材木町の大火があった。
お絹さんは、帰らなかった。
「徳三さんはそれっきり、嫁取りの話を全部断ってねえ。反物だけ、売れ残りってことにして蔵に置いた。棚卸しの晩だけは、誰にも蔵に入らせなかったよ。一年に一度、あの人はあの藍を広げてたんだろ」
五十年、一年に一度の逢瀬だ。
死んだのも、棚卸しの晩だった。藍を広げた帳面の前で、あの人の勘定は止まった。
それから、溜め込んだという給金の行き先は、手控えが教えてくれた。店の綴りではない。徳三さんが、自分ひとりで付けていた手控えだ。
大火の年から五十年分、藪入りの季節ごとに、同じ書き付けが並ぶ。『店より、奉公人へ路銀』。店の温情を装って、親のない奉公人たちに配られてきた藪入りの銭は、全部、番頭の給金から出ていた。
大火で親を亡くした子が、帰る在所もなく店に残るのを、あの人は五十年、黙って見てきたのだ。自分がそうやって、帰る先を焼かれた側だから。
「守銭奴、か」
立会人が、手控えを閉じて言った。
「五十年、一銭も使わなかった男の、これが遣い道の全部か」
「値を付けるな、と仰るはずです」
あの藍は、商品ではない。お絹さんそのものだ。売り値のつく品なら、五十年前に売れている。
布袋屋の主人は、藍の銘仙を仏前に納め、奉公人一同で徳三さんの弔いをやり直した。守銭奴と呼んでいた若い衆が、一番泣いた。先代の言い遺した義理の中身を、四代目は初めて、紙の外で受け取ったことになる。
帰り際、私は畳紙の隅の、織元の墨判を写し取った。紋と判を写すのは、もう癖である。
「織元は、遠いのですか」
女中頭の婆様に訊くと、北寄りの在の名が返ってきた。
聞いた瞬間、写しの手が止まった。
その土地の名を、私は知っている。
六つの年。母が最後の冥婚に発つ朝、迎えに来た本家の女中が、切符の駅の名を口にするのを、私は襖の陰で聞いていた。意味も分からず、音の並びだけ覚えた。子どもの耳は、ときどき、そういう仕舞い方をする。
あの駅のある在が——織元の、この在だ。
「……銀子」
立会人が、写し終えるのを待って言った。この人が名を呼ぶのは、珍しい。
「顔に出ている」
「……ええ。出ていると思います」
母の発った土地。母の帰らなかった土地。
いつか調べようと思って、いつかのまま今日まで、袖に仕舞ってきた土地の名だ。
いつか、は今日で終いにする。
帰ったら、まず祖母に訊く。母が請けた最後の冥婚は、どこの家の、誰の祝言だったのか。




