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第17話 焼け跡の白無垢『梯子の下で、俺を呼ぶな』

 ◆◆◆

 『梯子の下で、俺を呼ぶな』

 ◆◆◆


 春先の強風の晩、指物町から出た火は、ひと晩で三つの町を舐めた。

 死人は、ふたり。逃げ遅れた寝たきりの婆様。それから、婆様の隣家の子を助けに戻って、梁の下敷きになった、町火消の纏持ちである。

 佐吉さん、二十九。火消しの纏を持って七年、町の若い衆の頭株だった人だ。

 冥婚を頼んできたのは、町会の面々である。

「あいつは、逃げ遅れたんじゃねえ」

 鳶口を担いだ古株が、腫れた目で言った。

「戻ったんだ。餓鬼の泣き声を聞いて、退け時を過ぎてから。……なのに検分の書付にゃ『避難の遅れ』とある。逃げ遅れと、戻ったのとじゃ、火消しの死に方としては天と地だ」

「書付は、直せるかもしれません」と私は言った。「その前に、ご本人に伺いましょう」

 銭の話になると、古株は縁の焦げた銭函を抱えてきた。町会の払いだという。

「焼け出された町から取るのかい、とは訊かねえんだな」

「頂きます。只の弔いは、軽く扱われますので」

 銭函ごと、その場で検めさせて頂いた。古株が、息だけで笑う。

「そうかい。佐吉の弔いは、安くねえか」


 祝言は、焼け跡で挙げた。

 町会が、そこでやってくれと言ったのだ。仮小屋も建たない更地の真ん中、焦げた梁を組んだ祭壇に、位牌と、焼け残った纏の頭。

 燈明は立てない。消え残りの熾を、そのまま燈明に見立てるのがこの町の流儀だという。町を食った火に、弔いの番までさせるのだ。

 見渡す限り、墨一色の町である。

 その真ん中に、白無垢で立つ。世話役の婆様が「裾が、裾が汚れちまう」とおろおろするので、私は答えた。

「白無垢は、汚れるために着るんです」

 嘘ではない。うちの白無垢は、その夜の汚れを覚えて帰るのが勤めだ。灰の夜は灰を、雪の夜は雪を。

 風が吹くたび、火の粉のなごりの灰が、袖に灰色の紋を散らした。

 盃に、灰がひとひら舞い込んだ。庇おうとする婆様を、古株が短く止める。払うな。あの人の相伴だと、この町では呼ぶ。

 三三九度。末期の水。

 耳を澄ます。


『——梯子の下で、俺を呼ぶな』


 ……呼ぶな。

 誰が、呼んだのだろう。


 夜明けの茶は、炊き出しの湯をわけてもらった。茶葉のない白湯だが、焼け跡の朝には、白湯がいちばん沁みる。

 立会人は、夜のうちから番所に回っている。検分の書付を書き直させるには、朝一番の判子が要るのだそうだ。湯呑みがひとつ足りない朝は、白湯まで薄い気がした。

「呼んだ者を、探しておいでですか」

 訊くと、古株の鳶は、若い衆をひとり連れてきた。

 新入りの梅次という子だ。十七。目の縁が、火傷ではない色に腫れている。両の掌に、梯子を握り締めた豆が潰れたまま固まっていた。

「……俺です」

 絞り出す声だった。

「あの晩、佐吉兄いが餓鬼を抱えて二階の窓まで来て。俺は梯子の下で、早く、早くって、何度も呼んで。兄いは餓鬼を先に下ろして、それで、自分が乗る前に梁が」

 俺が呼んだから。俺が急かしたから。兄いは足を滑らせたんじゃないか。この子は七日、そう思い詰めてきたらしい。

 梯子の下で、俺を呼ぶな。

 言葉だけ聞けば、叱っているようにも聞こえる。この子が聞けば、なおさらだ。

「梅次さん。火消しの決まりでは、梯子の下で呼ぶのは、いけないことですか」

「……いえ。下から声を掛けるのは、決まり通りで。呼ばれた方が、位置が分かるから」

 白湯を一口はさんで、考える。

 呼ぶのは決まり通り。破ってもいない決まりを、死に際に叱る者はいない。子どもを先に下ろした手順も、急かされて足を乱した者のものではない。

 それに、あの声だ。数えるまでもない。あの声が、もう答えだった。

「なら、佐吉さんは決まりを叱ったのではありません」

 私は、聞いた声の調子を、そのまま伝えることにした。ひと言は言葉だけではない。声の温度も、荷のうちだ。

「あの方の声は、怒っていませんでした。笑っている声でした。——梯子の下で、俺を呼ぶな。呼ばれなくても、俺は自分で戻ったんだ。お前の声のせいじゃない。そう聞こえました」

 戻ったのは、佐吉さんの意志だ。呼び戻されたのでも、逃げ遅れたのでもない。火消しが、火消しの了見で、餓鬼ひとり拾いに戻った。それだけの話だ。

 梅次さんは、纏の頭にすがって、声が出るまで泣いた。

 古株が、その頭を手甲のままの手で、ひとつ叩いた。

「聞いたか、若えの。兄いってのは、ああいうことを言うんで、兄いなのさ」

 検分の書付のほうは、その日のうちに片が付いた。子どもを先に下ろした順序は、助かった子と長屋の連中が揃って見ている。『避難の遅れ』の五文字は、『救助に依る殉職』と書き直された。

 紙の上の死に方が、ようやく本人の死に方に追いついた。


 昼過ぎ、焼け跡に、場違いな一行が現れた。

 仕立てのいい羽織の紳士がひとり、供を連れて、灰の道を選びながら歩いてくる。町会に炊き出しの寄進をしに来たのだという。

 羽織の裾にも、磨いた靴の先にも、灰ひとつ付いていない。人ひとりを汚さないために、供がひとり、先で灰の浅い道を選んでいる。

「霜会、と申します。華族の互助の集まりでございますが、この度は町方の御見舞いも、と」

 霜会。

 先日、保険外交員の名刺の裏で見た字だ。冷たい字だと思った、あの。

 紳士は佐吉さんの祭壇に気づくと、供に持たせていた花を、手ずから供えた。

 白菊だった。それも、数えるほど。三本だけの、けれど一本一本が誂えたように上等な白菊。

 弔いは数より心と言うが、帳面の目は勝手に勘定する。この三本で、白菊が抱えで三つは買える。安いのではない。勘定の相場が、こちらと違うのだ。

「見事な弔いだ」

 紳士は、灰を被った私の白無垢を、値踏みでもなく、ただ静かに眺めた。

「家々は、あらかた焼けてしまわれたが……いや、家は建て直せます。肝心なのは、家の名の方だ。家は焼けても、家名は焼けません。——家名は、残さねばなりません」

 柔らかい声だった。炊き出しの湯気より、よほど柔らかい。

 なのに私は、なぜだか、灰の下の熾火を踏んだような心地がした。

 紳士は、佐吉さんの名を訊かなかった。歳も、死に方も。手を合わせておいて、そのどれも。

 紳士は名乗らずに、一礼して去った。供の持つ提灯に、家紋があった。氷の字を図案にしたような、見慣れない紋だった。

 焼け出された町で、家名の話をする人を、私は初めて見た。


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