第17話 焼け跡の白無垢『梯子の下で、俺を呼ぶな』
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『梯子の下で、俺を呼ぶな』
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春先の強風の晩、指物町から出た火は、ひと晩で三つの町を舐めた。
死人は、ふたり。逃げ遅れた寝たきりの婆様。それから、婆様の隣家の子を助けに戻って、梁の下敷きになった、町火消の纏持ちである。
佐吉さん、二十九。火消しの纏を持って七年、町の若い衆の頭株だった人だ。
冥婚を頼んできたのは、町会の面々である。
「あいつは、逃げ遅れたんじゃねえ」
鳶口を担いだ古株が、腫れた目で言った。
「戻ったんだ。餓鬼の泣き声を聞いて、退け時を過ぎてから。……なのに検分の書付にゃ『避難の遅れ』とある。逃げ遅れと、戻ったのとじゃ、火消しの死に方としては天と地だ」
「書付は、直せるかもしれません」と私は言った。「その前に、ご本人に伺いましょう」
銭の話になると、古株は縁の焦げた銭函を抱えてきた。町会の払いだという。
「焼け出された町から取るのかい、とは訊かねえんだな」
「頂きます。只の弔いは、軽く扱われますので」
銭函ごと、その場で検めさせて頂いた。古株が、息だけで笑う。
「そうかい。佐吉の弔いは、安くねえか」
祝言は、焼け跡で挙げた。
町会が、そこでやってくれと言ったのだ。仮小屋も建たない更地の真ん中、焦げた梁を組んだ祭壇に、位牌と、焼け残った纏の頭。
燈明は立てない。消え残りの熾を、そのまま燈明に見立てるのがこの町の流儀だという。町を食った火に、弔いの番までさせるのだ。
見渡す限り、墨一色の町である。
その真ん中に、白無垢で立つ。世話役の婆様が「裾が、裾が汚れちまう」とおろおろするので、私は答えた。
「白無垢は、汚れるために着るんです」
嘘ではない。うちの白無垢は、その夜の汚れを覚えて帰るのが勤めだ。灰の夜は灰を、雪の夜は雪を。
風が吹くたび、火の粉のなごりの灰が、袖に灰色の紋を散らした。
盃に、灰がひとひら舞い込んだ。庇おうとする婆様を、古株が短く止める。払うな。あの人の相伴だと、この町では呼ぶ。
三三九度。末期の水。
耳を澄ます。
『——梯子の下で、俺を呼ぶな』
……呼ぶな。
誰が、呼んだのだろう。
夜明けの茶は、炊き出しの湯をわけてもらった。茶葉のない白湯だが、焼け跡の朝には、白湯がいちばん沁みる。
立会人は、夜のうちから番所に回っている。検分の書付を書き直させるには、朝一番の判子が要るのだそうだ。湯呑みがひとつ足りない朝は、白湯まで薄い気がした。
「呼んだ者を、探しておいでですか」
訊くと、古株の鳶は、若い衆をひとり連れてきた。
新入りの梅次という子だ。十七。目の縁が、火傷ではない色に腫れている。両の掌に、梯子を握り締めた豆が潰れたまま固まっていた。
「……俺です」
絞り出す声だった。
「あの晩、佐吉兄いが餓鬼を抱えて二階の窓まで来て。俺は梯子の下で、早く、早くって、何度も呼んで。兄いは餓鬼を先に下ろして、それで、自分が乗る前に梁が」
俺が呼んだから。俺が急かしたから。兄いは足を滑らせたんじゃないか。この子は七日、そう思い詰めてきたらしい。
梯子の下で、俺を呼ぶな。
言葉だけ聞けば、叱っているようにも聞こえる。この子が聞けば、なおさらだ。
「梅次さん。火消しの決まりでは、梯子の下で呼ぶのは、いけないことですか」
「……いえ。下から声を掛けるのは、決まり通りで。呼ばれた方が、位置が分かるから」
白湯を一口はさんで、考える。
呼ぶのは決まり通り。破ってもいない決まりを、死に際に叱る者はいない。子どもを先に下ろした手順も、急かされて足を乱した者のものではない。
それに、あの声だ。数えるまでもない。あの声が、もう答えだった。
「なら、佐吉さんは決まりを叱ったのではありません」
私は、聞いた声の調子を、そのまま伝えることにした。ひと言は言葉だけではない。声の温度も、荷のうちだ。
「あの方の声は、怒っていませんでした。笑っている声でした。——梯子の下で、俺を呼ぶな。呼ばれなくても、俺は自分で戻ったんだ。お前の声のせいじゃない。そう聞こえました」
戻ったのは、佐吉さんの意志だ。呼び戻されたのでも、逃げ遅れたのでもない。火消しが、火消しの了見で、餓鬼ひとり拾いに戻った。それだけの話だ。
梅次さんは、纏の頭にすがって、声が出るまで泣いた。
古株が、その頭を手甲のままの手で、ひとつ叩いた。
「聞いたか、若えの。兄いってのは、ああいうことを言うんで、兄いなのさ」
検分の書付のほうは、その日のうちに片が付いた。子どもを先に下ろした順序は、助かった子と長屋の連中が揃って見ている。『避難の遅れ』の五文字は、『救助に依る殉職』と書き直された。
紙の上の死に方が、ようやく本人の死に方に追いついた。
昼過ぎ、焼け跡に、場違いな一行が現れた。
仕立てのいい羽織の紳士がひとり、供を連れて、灰の道を選びながら歩いてくる。町会に炊き出しの寄進をしに来たのだという。
羽織の裾にも、磨いた靴の先にも、灰ひとつ付いていない。人ひとりを汚さないために、供がひとり、先で灰の浅い道を選んでいる。
「霜会、と申します。華族の互助の集まりでございますが、この度は町方の御見舞いも、と」
霜会。
先日、保険外交員の名刺の裏で見た字だ。冷たい字だと思った、あの。
紳士は佐吉さんの祭壇に気づくと、供に持たせていた花を、手ずから供えた。
白菊だった。それも、数えるほど。三本だけの、けれど一本一本が誂えたように上等な白菊。
弔いは数より心と言うが、帳面の目は勝手に勘定する。この三本で、白菊が抱えで三つは買える。安いのではない。勘定の相場が、こちらと違うのだ。
「見事な弔いだ」
紳士は、灰を被った私の白無垢を、値踏みでもなく、ただ静かに眺めた。
「家々は、あらかた焼けてしまわれたが……いや、家は建て直せます。肝心なのは、家の名の方だ。家は焼けても、家名は焼けません。——家名は、残さねばなりません」
柔らかい声だった。炊き出しの湯気より、よほど柔らかい。
なのに私は、なぜだか、灰の下の熾火を踏んだような心地がした。
紳士は、佐吉さんの名を訊かなかった。歳も、死に方も。手を合わせておいて、そのどれも。
紳士は名乗らずに、一礼して去った。供の持つ提灯に、家紋があった。氷の字を図案にしたような、見慣れない紋だった。
焼け出された町で、家名の話をする人を、私は初めて見た。




