第15話 糸蔵の証文『三の糸は、張り替えるな』
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『三の糸は、張り替えるな』
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「師匠は生涯独り身でね。……それと花嫁さん、ひとつ、嫌な話がある」
置屋の女将は、うちの土間で声を落とした。浜屋の一件からこっち、色街はうちの上客だ。
弔うのは、三味線の桐屋宗市師匠。五十八。盲目の身で帝都一と言われた撥さばきを、置屋に出入りして三十年、若い妓たちに仕込んできた人である。稽古帰りの路地で倒れて、それきりだったという。花街の師匠の弔いは、妓楼で出す。それが、あちらの流儀だ。
「嫌な話、と仰いますと」
「師匠の枕元から、金が消えた。三十年貯めた金だよ。で、界隈じゃ、内弟子の小駒が盗ったって噂だ」
「小駒さん、というのは」
「師匠が手塩にかけた妓さ。十四の年から、稽古代も取らずにね。あの子は盗るような子じゃない。けど、噂ってのは証文なしで利子がつく。祝言で、師匠の口から何か聞けたら」
言うだけ言うと、女将は包みを先に膝の前へ置いた。泣き落としの代わりに、銭が先に出る。花街の頼み方は乾いていて、早い。
「あの子の性根は、あたしが請け合う。あんたは師匠の声だけ、聞いとくれ」
銭は女将持ち。祝言は妓楼の大広間。承った。
妓楼の広間は、紅殻格子ごしの夕明かりで、畳まで薄紅に染まる。
花婿の席には位牌と、形見の三味線が一挺。稽古には置屋の三味線を使い、この一挺だけは生前、誰にも触らせなかったそうだ。
燈明は緋提灯である。花街は紅を忌まない。死んだ人にも紅い灯を上げてやるのが、この街の流儀だという。おかげで袖口まで、うっすらと紅がかって見えた。
参列の端に、噂の小駒さんが座っていた。二十歳前後。目の縁が赤いのは、泣いたからか、眠っていないからか。妓たちの視線が、彼女の背中に刺さっては逸れる。噂の座敷というのは、こういう温度になる。
膝の上に重ねた小駒さんの左手は、糸を押さえる指先だけが固くなっていた。十四の年から、稽古代の代わりに積んできたものが、指の先に貯まっている。——ああいう貯めは、盗みようがない。
立会人は、階下で待っている。妓楼に軍服を上げると角が立つ、と女将が拝んだからだ。断られて怒るかと思えば、「道理だ」と一言で引いた。ああいう引き際の良さは、どこで仕入れるのだろう。
三三九度。末期の水。
耳を澄ます。
『——三の糸は、張り替えるな』
三味線の糸は三本。一の糸が太く、三の糸が一番細い。細いから、一番よく切れて、一番よく張り替える。
その三の糸を、張り替えるな?
私は形見の三味線を膝に載せた。検分の許しは、女将から貰ってある。
形見の検分には、順序がある。手前から順に、飛ばさず、戻らず。
一と二の糸は、新しい。まめに替えてある。
三の糸だけ、古かった。飴色に脂の乗った、何年物か分からない糸。駒の手前で撚りが緩み、今にも切れそうなのを、切れそうなまま、大事に大事に、張ってある。
帝都一の師匠が、一番肝心の糸だけ、張り替えずにいた。
糸を巻き取る糸蔵の穴を、灯りに向けて覗く。
奥に、白いものが見えた。
こよりだ。固く巻いた、紙だった。
紙は、二枚あった。
一枚は、真新しい。金主の判の据わった、預り証だった。
一、金百二十円也。小駒儀、年季買い戻しの代として預かり置き候。置屋への口利きは、追って沙汰いたすべく候。
日付は、師匠が死ぬ十日前。
三十年の貯め、金百二十円。名目は小駒さんの年季の買い戻し。日付は、死ぬ十日前。
消えた銭は、まとめて同じ紙の上にあった。盗った者など、はじめからいない。合ってほしい検算が合うのは、この商売では珍しい。
消えた金の行き先は、枕元ではなく、金主の帳場だった。三十年の貯めは、そっくり小駒さんの年季に化ける途中で、主を亡くしたのだ。口利きの沙汰が置屋に届くより先に、師匠が倒れた。話も金も、まだ女将の耳に入っていない。知らなかったのが、何よりの潔白である。
もう一枚は、ずっと古い紙。三十年前の日付の、芸妓の年季証文の写しだった。
名は、小雛。
女将が、老眼鏡を上げて息を呑んだ。
「……小雛姐さん。師匠の、想い人だった人だよ。あたしが半玉の時分の話さ。年季が明けたら一緒になるって……延ばされ延ばされ、二十年前になるかね。明ける前に、胸を病んで死んだ」
帳場で鍛えた乾いた声が、半玉の時分の声に戻っていた。
「小駒さんは」
「小雛姐さんの、忘れ形見だ。師匠がうちに口を利いて、預けた子だよ」
小駒さんは、預り証と、三味線と、女将の顔を順に見て、それから畳に手をついて泣いた。名乗らない父親のような人に、三十年分まとめて礼を言う泣き方だった。
やがて顔を上げると、「勝手な人」と一度だけ言った。助けるなら生きているうちに話してほしかった。父親のように思ってくれたのなら、自分にも父と呼ぶか決めさせてほしかった——その先は、声にならなかった。
泣きやんだあと、小駒さんは形見の一挺を、そっと膝に抱いた。構えるのではない。ただ、抱いた。三の糸には、指の先ひとつ触れなかった。
三の糸は、張り替えるな。
あの糸は、小雛さんが最後に張った糸だったのだと、女将が思い出した。師匠は目が見えない。糸の音だけを、形見に生きてきた人だ。一番細く、一番高い音——あの人の声を、消すな。
それから、糸蔵の紙を見つけてくれ、という謎かけ。
盲いた人の遺言は、盲いた人の隠し場所にある。触って分かる場所に、触って分かる形で。
「買い戻しの話は、あたしが引き継ぐよ」
女将は預り証を袱紗に包み、帯の間へ差した。
「金主の帳場に金があるんなら、取り立てる先は決まってる。年季は、うちの判で終いにしてやるさ」
「妙な引っかかりが、ひとつ残りました」
夜明けの茶は、妓楼の帳場前で。番茶に、女将が羊羹を付けてくれた。立会人は羊羹に手をつけず、私の皿に黙って移した。備考欄に付けておく。
「甘い物は、お嫌いですか」
「嫌いではない。頭を使った者が食え」
簡潔で、断定で、値切る隙がない。備考欄ばかり肥えていく帳面というのも、商売としてはどうかと思う。
「年季の買い戻しには、置屋への金の他に、証文の書き換えの世話をする金主が要ります。師匠のような一見には、必ず口利きが」
「ついたのか」
帳場の内から、女将が煙管の先でこちらを指した。
「口を利く金主筋なら、昔っから決まってるよ。あの筋を拵えたのは——宵坂の、先代さんだ」
うちの本家の、先代。私の祖父の従兄にあたる人だ。十三年あまり前に亡くなっている。
「本家は昔から、花街に顔が利いたそうです。年季の証文、身請けの届、養女の縁組。人の名前と判が要る紙の世話を、ずいぶん焼いていたと」
「冥婚屋が、か」
「ええ。妙でしょう。うちの商いは、死んだ人の世話のはずなんです」
拵えた人が死んで、十三年あまり。筋だけが主を亡くしたまま、今も生きて金を回している。
湯呑みの底に、番茶の粉が沈んでいた。
本家は昔、何の名義で、金を動かしていたのだろう。
紙の世話。名前と判の世話。考えるだけ日当にならない。そのはずが、今度ばかりは、考えるのをやめられなかった。




