第13話 西門の桜『西門の桜に、縄をかけるな』
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『西門の桜に、縄をかけるな』
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雪の朝、女学校の門の脇で、小使の爺様が凍って死んだ。
椎名源蔵、六十六。校内では「源爺」で通っていた人だ。傍らに徳利が転がっていたとかで、酒での行き倒れ、と早々に片付けられた。学校は体裁を気にして、七日と経たずに代わりの小使を雇ったという。
冥婚の頼み手は、女学校の若い教師である。
「生徒たちが、月給を出し合ったんです」
差し出された包みには、海老茶の袴の少女たちの字で、寄せ書きが添えてあった。源爺をお願いします。源爺は酔っ払いじゃありません。
包みを結んだ端切れは、矢絣。誰かが袖でも解いて出したのだろう。一人の字が泣いて滲んでいて、その滲みを、隣の字が庇うように囲っていた。
「生徒に慕われて……いえ」教師は言い直した。「生徒を、覚えている人でした。卒業生の顔と名前を、二十年分。うちの学校の生き字引です」
「私も、ここの卒業生なんです。教師になって戻った初日、源爺は私を旧姓のほうで呼びました。十年前に卒業した生徒の名を、です」
「お酒は、飲まれる方でしたか」
「湯呑みに一杯だけ。寒い晩の寝酒に。行き倒れるほど飲む銭が、小使の給金のどこにあるんです」
もっともな話である。もっともな話が通らないとき、うちの商売に声がかかる。
祝言は、夜の小使小屋で挙げた。
三畳に、火の気のない竈。壁に、用具の鍵が几帳面に掛かっている。鍵の一本ずつに木札が下がり、講堂、雨天体操場、と楷書で場所が書いてある。二十年、この小屋から学校の朝を開けてきた人の部屋だ。
三畳に花嫁が入れば、それで席は埋まる。立会人は敷居の外で軍帽を脱ぎ、花婿の席の位牌に深く一礼した。死者への礼だけは、いつも誰より深い人だ。
窓の外、西門の脇に、雪を被った桜が見えた。見上げるほどに育った木だ。枝が一本、雪の重みで折れかけて、白木の添え木が当ててある。
真新しい、添え木だった。
三三九度。末期の水。
耳を澄ます。
『——西門の桜に、縄をかけるな』
縄をかけるな。
伐るな、ということだ。桜に縄をかけるのは、引き倒すときの支度だから。
最期の息で、爺様は木の心配をした。桜町の白犬といい、どうしてこう、うちのお客は自分の無念より先に、他所様の心配をするのだろう。
「桜には、来歴がありました」
夜明けの茶は、小使小屋の竈を借りて私が沸かした。その席で、教師が調べてきてくれた。
「二十年前の卒業生が植えたそうです。学校の帳面に、寄贈の記録が。寄贈者の名は……椎名、志津」
「椎名」
「源爺の、一人娘です」
娘は当時のこの学校の生徒で、卒業の年に、家格違いの書生と駆け落ち同然に家を出た。以来、音信不通。桜は出て行く前に、娘が植えていったものだという。いつか帰る目印に、と言い残して。
教師は声を落とした。
「学校は近年、あの桜を伐る話を何度もしていたんです。西門を広げるのに邪魔だと。そのたびに、匿名の寄付が届いて、伐採が延びました。出どころは、たぶん」
「源爺の、給金ですね」
湯呑みに一杯の寝酒しか飲まない人の銭は、そこに消えていた。
倒れていたのは、あの桜の根方だ。——検算するまでもない。真新しい添え木が、何よりの検分書だった。
雪の晩に外へ出たのは、酒のためではない。折れかけた枝に、添え木を打ちに出たのだ。徳利は、体の温め酒。転がった徳利だけを見て、世間は行き倒れの絵を描いた。
娘の帰る目印を、雪から守って、心臓が止まった。
西門の桜に、縄をかけるな。
木を倒すな。——娘の帰り道を、消すな。
弔い直しには、思わぬ客が来た。
冥婚の噂は、卒業生づてに、新聞の尋ね人欄より速く走ったらしい。
「同級だった方が、志津さんの在所をご存じで。電報を打ったそうです」
と、教師が言った。二十年分を覚えていた人の弔いだ。今度は卒業生の側が、覚えていた。
祝言から三日目の朝、汽車を乗り継いだ女の人が、雪の西門に駆け込んできた。
志津さんだった。二十年ぶりの、椎名志津さんだった。
連れ合いの元書生と、父親そっくりの目をした男の子の手を引いて、彼女は桜の下で長いこと立ち尽くした。
それから、折れかけた枝の添え木に、そっと手を置いた。
「……この結び方。うちの垣根、ぜんぶこの結びだった」
「……莫迦ねえ。目印なんか、なくたって」
帰り道くらい、覚えてるわよ。
そう言って泣いた人に、私は掛ける言葉を持たない。持たないときは、黙って白無垢を畳むのが、うちの流儀だ。
男の子だけが、わけも分からないまま母親の袖を握って、雪の桜を見上げていた。
「家の決まりは、作った人がいなくなっても残るんですね」
帰り道、私は立会人にそう言った。言ってから、自分でも思いがけない言葉だったので、少し驚いた。
「志津さんの相手は、家格違いの書生だったそうです。その一言で、親子が二十年です」
「軍にもある。出した者が消えた命令ほど、止める判を誰も押したがらん」
うちの掟も、そんなふうに残ったのだろうか。
一度だけ、祖母に訊いたことがある。去年の冬の晩だ。
祖母は写し帳を繰る手を止めて、煙管をひと吸いし、灰吹きにこん、と鳴らした。
「あんたも、そういう歳になったかね」
問いには答えず、言った。
「大叔母の話をしようか」
祖母の妹だ。私は、会ったことがない。
「笑い声の大きい子でね。湯屋で唄って番台に叱られて、それでも次の晩には唄ってる。長屋の端まで届く声だったよ」
火鉢の炭が、ひとつ爆ぜた。
「堅気のいい男と、恋仲になった。あたしは止めなかったよ。掟なんぞ、年寄りの怖がりだと思っていたからね」
祖母は、いつもの倍ゆっくり話した。
「文が一本だけ来た。所帯を持ちます、祝言は春です、姉さんも来ておくれ。あたしは行くつもりで、帯まで選んだ」
煙管の火が、じ、と小さく鳴った。
「次の文は、春を待たなかった」
恋をして家を出た大叔母は、祝言も待たずに死んだ。
祖母はそれきり煙管を仕舞って、掟の講釈はしなかった。銭は取りな、と言うときと同じ顔で、灰だけを落とした。それが、答えの代わりだった。
ぬかるんだ路地で、鼻緒が緩んだ。
しゃがみかけた私より先に、立会人が膝をついた。軍服の膝を、ためらいもなく泥の上に。
「……鷹尾様。おやめください、往来です」
「往来だから、直す。転ばれては敵わん」
手袋の指が、鼻緒をきゅ、と締め直す。肌には、触れない。触れないで済む直し方を、この人は最初から選んでいる。
立ち上がって、彼は何も言わなかった。求婚帳簿に付けようがないのは、こういうやつだ。
仕方がないので、備考欄に書いておいた。
本日、求婚なし。鼻緒、一件。




