第12話 二人目の息子『母さん、俺の顔を忘れてくれて、ありがとう』
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『母さん、俺の顔を忘れてくれて、ありがとう』
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「気の毒な男でねえ」
冥婚を頼みに来た長屋の差配さんは、上がり框に腰を下ろすなり、そう切り出した。
「松次郎っていう、うちの店子だ。北の在から出てきた職工でね、先だっての工場の事故で死んじまった。三十二だよ。十五で出てきてこの方、藪入りにも帰らず働きづめだ。国の母親に、欠かさず仕送りと手紙をしてた。その母親が、明日、汽車で出てくる。息子の顔を見るのは十七年ぶりだ。せめて祝言のひとつも見せてやらんことには」
代金の話になると、差配さんは紐で括った銭の包みを出した。
「長屋中で出し合った。皆、あの男に貸しがあるんだ。屋根の繕いだの、夜通しの看病だの。……返す先が、もう棺桶の中にしかない」
断って、その場で数えさせて頂いた。数え終わると、差配さんが初めて頬をゆるめた。
「あんた、ちゃんと数えるんだね。なら、任せられる」
「銭を数え違える耳は、声も聞き違えますので」
承ります、と頭を下げた。
母親のヨネさんは、目がよく利かない。
汽車を乗り継いで一昼夜、風呂敷包みひとつ、腰の曲がった小さな婆さまで、土間でまず、長屋の連中へ深々と頭を下げた。松次郎が世話になりまして、と。それから差配さんに手を引かれて、棺の前に膝を突いた。
棺の顔を、長いこと、掌でなぞった。
野良仕事で節くれだった、土色の指。
「……ああ。松次郎だ。うちの、松次郎だ」
その手つきを、私は綺麗だと思い、それから、少しだけ妙だと思った。
目の悪い人は、顔を手で見る。なのにヨネさんの手は、顔の形を確かめる手つきではなかった。もっとこう——初めて触るものを、大事に覚えようとする手つきだった。
祝言は、その晩のうちに挙げた。九尺二間に長屋中が詰めかけ、表の路地では男衆が、明日の野辺送りに使う白提灯を検めている。
すぐ後ろに座ったヨネさんが、「綺麗だねえ」と言った。息子の嫁は綺麗だと、先に決めてしまっている声だった。
三三九度。末期の水。
耳を澄ます。
『——母さん、俺の顔を忘れてくれて、ありがとう』
私は、綿帽子の内で息を呑んだ。
恨みでも、詫びでも、心残りでもない。
この商売を始めて、礼を言われる最期は初めてだった。
それも、顔を忘れてくれて、ありがとう、ときた。
夜明けの茶の席で、私は珍しく、湯呑みを先に空にした。
「解けないのか」
「解けたくない、のかもしれません」
手掛かりは、揃いすぎるほど揃っていた。
祝言の前に、行李は検めてある。死人の荷を読むときは、端から順に、感傷を挟まない。
行李の底の手紙の下書き。十七年分の癖のついた字は、十年ほど前を境に、わずかに角が変わっている。似せた字だ。よく似せて、似せきれない字。
文面は化ける。だが数字は化けない。仕送りの額の「五」の跳ねが、同じ頃から別人の跳ねだ。数字を追い慣れた目は、こういうときにばかり利く。
工場の朋輩の話。松次郎はいつか、酔って泣いていたという。「俺は、あいつの綱を結び損ねた」と。
十年前、北の出稼ぎ組の足場崩れで、若い衆がひとり死んだ記録。
字が変わった年。綱を結び損ねたという詫び。足場から若い衆が落ちた記録。
どれも、十年前だった。合ってほしくない検算ほど、指を使わなくても合ってしまう。
「死んだ松次郎さんは、本物の松次郎さんじゃありません。十年前、事故で死んだ松次郎さんの、朋輩です。綱を結び損ねたのは自分だと、背負い込んだ人です」
「それで、死んだ男の名を継いだか」
「戸籍も、仕送りも、手紙も。十年を松次郎として生きて、母親にだけは、嘘を届け続けた」
顔を忘れてくれて、ありがとう。
目の悪い母が、別人の顔を、息子と信じてくれたことへの礼。
「ヨネさんに、言うのか」
「聞かれれば、聞いたままを。それが商いですので」
「聞かれなければ」
「墓まで持って参ります。黙るのは、只ですので」
立会人は、それきり問いを畳んだ。決める側をこちらに返してよこす、いつもの流儀である。
果たしてヨネさんは聞いた。あの子は最期に何か言ったかね、と、まっすぐに。
私はそう解いて、そして、間違えた。
ヨネさんは、私の説明を最後まで聞いて、静かに言ったのだ。
「知ってたよ」
「……え」
「字ぃ見りゃ分かる。母親だもの。十年前から、あれは松次郎の字じゃなかった」
なのに、なぜ。
「仕送りが惜しかったんじゃないよ」と、ヨネさんは先回りした。「手紙の字がね、あんまり一生懸命だったから。人の名前で生きて、人の母親に孝行して。……そんな莫迦は、放っておけないだろう。だからあたしは、二人目の息子を持ったことにしたんだ」
手紙は一通も欠かさず、仏壇の抽斗に年の順で取ってあるという。あの風呂敷の中身が、その束だった。
「あんた、いい耳をしてなさるね」
ヨネさんは、拝むように手を合わせた。
「婆の代わりに、聞いてくれて、ありがとうよ」
生き身を拝まれるのは、商売の勘定に入っていない。
顔を忘れたのではなかった。
忘れたふりを、してくれていたのだ。
あの最期のひと言は、それを分かった上での礼だったのか。それとも知らないままの礼だったのか。もう、誰にも確かめられない。確かめられないことは、いい方に取る。それも商売の流儀だ。
「お前の母の話を、まだ聞いていない」
帰り道、立会人が不意に言った。消え残りのガス灯が、白み始めた路地で青白い。
「他人の母子の帳尻は合わせるくせに、自分の話はしないんだな」
「……商売人は、自分の帳面を客に見せないものです」
「客じゃない。立会人だ」
屁理屈である。だが、断る理由を探すのが億劫な夜だった。
「母は、私が六つの年に消えました。冥婚に出て、帰らなかった。——それきりです」
「死んだ、とは言わないんだな」
「骨も、報せも、ないので」
うちに残ったのは、母の白無垢と、針道具くらいだ。私は懐から、小さな針箱を出して見せた。母の形見で、今は私の商売道具だ。祝言の前の繕いは、ぜんぶこれで済ませている。
蓋の裏に、細い線で蝶が彫ってある。
「揚羽か」
「母の験担ぎでしょう。針箱に蝶なんて、洒落者だったのかもしれません」
立会人は蓋裏の蝶をしばらく見て、何も言わずに返してよこした。
私も、それきり忘れた。
験担ぎ。そのときは本当に、その程度に思っていたのだ。




