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第8話 雷鳴の谷へ

 静かな車内に、わずかに不機嫌なノイズを混ぜた合成音声が響いた。

『……まったく。あのような規格外の情報密度を持った古書を『お土産』と称して安易にスキャンさせるなど、マスターの安全管理能力には根本的なバグがあるとしか思えません。おかげで不要なシステムスリープを余儀なくされました』

 コンソールの上に投影された淡い光の粒が、明滅しながら恨み言を垂れる。昨夜、アルドが持ち込んだ気象理論の専門書と、ガレットが注いだ特上オイルによって深刻な機能不全(情報酔い)を起こしていたオールド・ベルが、ようやく再起動を果たしたところだった。

「何がいい玩具が手に入っただよ、かっこつけやがって。しばらくは街で休むって言ったのはおまえだぞ」

 向かいの席で朝のコーヒーを飲んでいたガレットが、呆れたように昨晩のやり取りを持ち出した。

『ガレットの言う通りです。マスターってそういうとこありますよね』

 ベルもすかさず同調する。二方向からの容赦ない集中砲火に、分厚い専門書をめくっていたアルドは顔をしかめた。

「……そういうとこって何だよ」

 アルドは手元のページを閉じ、溜め息をついた。

「俺が見つけたのは物理的な玩具じゃない。この本に記されている、ハインツという男の『大域的気象変動理論』そのものだ。あの保冷庫に使われていた、出力係数と空間熱量変換の安全マージンが完全に狂っていた異常な気象制御コアの設計者だよ。こいつの書いた位相拡張と熱力学のハイブリッド論理コードは、まさに――」

『なんだ、本じゃないんですね』

 アルドの早口の熱弁を冷たく遮るように、光の粒があからさまに拍子抜けしたように明滅のトーンを落とした。

「落ち込むな、ベル。こいつが記した『研究施設』が見つかれば、当然そこには関連する本や資料も大量に残っているはずだぞ」

 アルドがわざとらしく唆すと、コンソールの光がピクリと反応した。

『……直ちに手元のデータから、ハインツの足跡と研究施設の座標を検索します』

 分かりやすくやる気を出したベルの稼働音を聞きながら、ガレットが呆れたように腕を組んで首を傾げた。

「すまん。お前が途中から何を言ってるのか全く意味が分からなかった」

「要するに、精霊にお願いを込めた機械を利用して、人為的に雨や雪を降らせようってことだよ。ただの保冷庫に、出力を上げれば周囲を氷河期にできるようなイカれた安全マージンを仕込む奴だ。この異常な理論や、設計者が残したであろうオーバースペックの遺物を追う」

『マスター。照合が完了しました。該当の研究施設は、現在の『雷鳴の谷』と呼ばれる一帯の最深部と推測されます』

 無機質なベルの報告に、ガレットが深く顔をしかめた。

「……おいおい、本気か。あんな年中雷が落ち続けてる死地に突っ込むって言うのか?」

「当然だ。気象を人為的に狂わせるほどの異常な術式だぞ。もしその設計データやコアの現物が手に入れば、お前の温室どころか、このオールド・ベルの居住環境そのものを劇的に底上げできるかもしれないんだ」

『マスターの言う通りです。私の知的好奇心と、当機の拡張空間の快適性向上のためにも、回収は急務と判断します』

 目を輝かせるアルドと、コンソールを明滅させて同意するベル。

 止めても無駄だという二人の同調ぶりを見て、ガレットは呆れ果てたように盛大なため息をついた。

「……はぁ、やれやれ。お前ら馬鹿とガラクタだけを放り出したら、谷に入る前に黒焦げだからな。護衛は引き受けてやるが、当然、雷避けの対策は徹底的にやるからな」

「ああ。少し手間だが、入念に準備をしてから出発しよう」


---


 数日後。移動書斎の分厚いガラス窓の向こうには、常軌を逸した地獄が広がっていた。

 無数の落雷が網の目のように地表を叩き、紫がかった閃光と轟音がひっきりなしに視界と鼓膜を揺さぶる。

「……おいおい、いくらなんでも異常すぎるだろ。ただの自然の雷雨じゃねえぞ、こりゃ」

 操縦桿を握るガレットが、忌々しげに舌打ちをした。

「だろうな。だが、あのイカれた気象制御コアの設計者の研究施設がこの奥にあるんだ。この異常な雷と無関係なわけがない」

 アルドは外部モニターを見つめ、不敵に目を細めた。

 視界を埋め尽くすほどの落雷には何の規則性もなく、完全に予測不能な嵐となって荒野を打ち据えている。

「……だが、出力されている現象が物理的な『雷』である以上、こっちにもやりようはある」

 アルドはコンソールを操作し、街で調達した巨大な『アースシート』を展開させた。導電性の金属繊維を編み込んだ分厚い布が、オールド・ベルの車体全体をすっぽりと覆う。

 直後、ズガンッ! という鼓膜を破るような轟音と共に、真上から落ちてきた太い雷が車体を直撃した。

『車体への直撃、および電流の地表への誘導を確認。内部コンポーネントに異常はありません』

 ベルの合成音声が響く。だが、カメラ越しに見えるアースシートの一部は黒く焦げ付き、わずかに煙を上げていた。

「雷を逃がすたびに素材が焼けてるな。何度も直撃を食らえば、いずれシートが焼き切れるぞ」

「だからこそ、操縦の腕が問われるんだ。なるべく高い岩場は避けて走れ。頼むぞ、ガレット」

「チッ、人使いの荒い野郎だ」

 ガレットは舌打ちしながら操縦桿を乱暴に切り、そびえ立つ岩山や隆起した地形を縫うようにして機体を走らせる。

 それでも頭上の黒雲は容赦なく紫電を落とし、オールド・ベルはそのたびにアースシートから焦げ臭い煙を吹き上げながら、轟音の荒野を強行突破していった。


---


 やがて、落雷地帯の先にそびえ立つ大戦期の巨大な防壁ゲートが道を塞いだ。

 その中央には、長い年月を経て黒く変色した分厚い車両用メインゲートが固く閉ざされている。

「……おい、アルド。あっちの人間用の通用口なら、ロックが壊れていて歩いて通れるぞ」

 索敵をしていたガレットが、メインゲートの脇にある小さな鉄扉を指差した。

『分かっていると思いますが、私をこんな所に放置していったらダメですよ』

 すかさず、コンソールの光の粒が威圧的に明滅して釘を刺す。

「馬鹿言え。こんな落雷だらけの場所、お前無しで歩いて移動できるわけないだろ」

 アルドが即答すると、コンソールの光の粒がどこか満足げに柔らかく瞬いた。

「……まあ、そういうことなら仕方ねえ。こっちのデカい方を開けるか」

 ガレットが苦笑しながら肩をすくめた。

 アルドはメインゲートの制御盤の前に立ち、カバーをこじ開けた。大戦期の堅牢なロックは、通常の魔力ハッキングでは開かない。

「これだけ過剰な雷が空から降ってきているなら、話は早い」

 アルドはオールド・ベルの車内から引っ張り出した太いケーブルで、制御盤の基板とアースシートの先端を繋ぎ合わせた。

「ガレット、耳を塞いでろ!」

 直後、真上の岩肌に落ちた特大の落雷が、誘導されたケーブルを伝って制御盤へと流れ込んだ。

 凄まじい火花と破裂音。莫大な過電流による強引な物理ハッキングを受け、分厚いメインゲートが悲鳴のような金属音を立ててゆっくりと開き始めた。


---


「……冗談だろ。これじゃあ一歩も進めないぞ」

 ゲートを抜けた先、谷の本当の入り口に立ったガレットが絶句した。

 防壁の内側は、今まで駆け抜けてきた谷筋とは比較にならないほど激しく、狂暴な落雷が降り注いでいた。文字通りの雷の壁だ。この嵐の中に突っ込めば数歩でアースシートが焼き切れ、オールド・ベルごと消し炭にされることは明白だった。

 物理対策の限界を悟り、アルドたちが立ち往生して撤退を考え始めた、その時だった。

 凄まじい雷雨の向こう側から、小さな影が近づいてくる。

 それは、大量のスクラップを乗せた台車を引く、小柄な人影だった。

 強力な魔導障壁を展開している様子はない。だが、その人影が足を踏み出す場所には、なぜか不思議と一本の雷も落ちなかった。まるで、目に見えない安全なルートを飛び石のように渡り歩いているかのようだ。

 さらにその手には、長い絶縁体の棒の先に避雷針のスクラップを括り付けた、奇妙な『傘』のようなものが握られている。まるで次に雷が落ちる気配が事前に分かっているかのように、絶妙なタイミングでそれを地面に突き刺して直撃を逸らし、嵐の中を平然と歩みを進めてくるのだ。

 大掛かりなアースシートを展開してなお立ち往生しているアルドたちの前に、この狂暴な落雷を意に介さない異質な人影が、ひっそりとその姿を現した。


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