第42話 それぞれの持ち場で、やるべきことをやるだけだ
排熱蒸気が天井の配管をゆるりと伝い、工作室を白く霞ませている。
拡大鏡の向こう側で、基盤の表面が暗い琥珀色に光っていた。アルドは極細のペン先を魔導インクの壺に浸し、余分な液をぼろ布で拭い取ってから、左目をわずかに細めた。
右手のペン先が、基盤の論理経路へと降りていく。
0.3ミリ間隔。第三層の分岐点から第四層への接合部。インクの粘度は十分。基盤の温度も安定している。
ペン先が端子に触れた。
迷いのない、異常なほどの正確さと速度。魔導インクのペン先が琥珀色の基盤の上を滑り、微細な端子と端子の間に新たな幾何学模様の論理配列を次々と描き出していく。アルドの指先は微動だにしない。描き込まれたインクの配線が熱を帯びて硬化し、新たな回路が定着・導通したことを確認してから、ゆっくりとペン先を引き上げた。
『……マ、スター……』
スピーカーから落ちてきた合成音声は、途中で一瞬ノイズに噛まれ、語尾にジリ、と微かな熱を引きずった。
『第九層の……論理、配列……私の試算より、コンマ2秒……反応が、遅い……です。もっと、奥の深層回路の端子まで……直接、経路を描き繋がないと……正確な応答は……得られません……よ』
「……注文が多いな」
アルドは拡大鏡から目を離さなかった。
「だが、お前の演算が合ってるなら、誤差ゼロで書いてやる」
ペンの角度を変え、先端を握り直す。
息を止めた。
ペン先が走る。
魔導インクで描き出された微細なコードの経路が、熱を帯びて硬化し、基盤の回路へと物理的に定着していく。排熱蒸気が首筋を撫でた。工作室の温度はじわじわと上がっていた。魔力炉が過負荷計算のために通常より多くの熱を吐き出し続けているせいだった。
アルドが目線を拡大鏡に据えたまま、左手を横に突き出した。
天井のマニピュレーターが動いた。三本爪の精密把持が棚からさらに極細の替えペン先を摘み上げ、弧を描いて降りてきて、開いた掌にことりと落とす。
一秒のためらいもなかった。
作業台の上では、もう一本の天井アームがアルドと向かい合うように走っていた。左右の精密把持爪が異なる角度から魔導インクのペン先を走らせ、並列する補助経路を同時に描き込んでいく。精密な幾何学模様の回路が描き足され、アームの関節が軋むたびに、天井近くの真空管が橙色に明滅する。
『……第五層の分岐、完了……しました。次は……第六層の応答パラメータを記述します』
声の端が、吐息のように掠れた。
アルドは替えの先端サイズを指先で確かめて差し替えながら、何も言わなかった。
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廃炭鉱街の夜風は、炭塵と鉄錆の匂いを含んで冷たかった。
ガレットは両腕に紙袋を抱え、石炭滓が積もった路地を歩いていた。袋の口から骨付き肉の端と、黒パンの角が突き出している。後ろをルカが大きな麻袋を背負って小走りについてくる。袋の中で根菜と茶葉の包みがカサカサと音を立てていた。
「なぁ、おっさん」
ルカが足を止めた。
吐く息が白い。街灯の魔導ランタンが薄暗い橙色で路面を照らしていた。
「飯が大事なのはわかってるけどよ……他にもっとやることあるんじゃねえの?」
ルカの声が低くなった。
「あいつらが休まずに作業してんのに、買い物なんて悠長なことしてていいのかよ」
ガレットは立ち止まらなかった。
数歩先で振り返り、ルカの顔を見下ろした。
「素人が手を出しても邪魔になるだけだ」
短く言い切ってから、紙袋の位置を直した。
「……いいか、ルカ。寄り合いってのはな、全員が同じことをするんじゃねえ」
白い息が夜空に溶けていく。
「各々が自分のやれることを、持ち場で確実にこなすのが一番強いんだ」
ガレットの声は低く、淡々としていた。
「アルドたちは基盤を組む。ジャックたちは目をごまかす。なら俺たちは、あいつらが倒れねえように最高のメシを用意して待つ」
紙袋の中で、骨付き肉が重さで少しずれた。
「……それが俺たちのやれることだ」
ルカは黙ったまま、ガレットの背中を見ていた。
やがて、背負った麻袋の紐を両手で強く握り直した。
「……おう」
短い返事だった。小走りでガレットに追いつき、並んで歩き始める。
二人の足音が、炭塵の積もった石畳に沈んでいった。
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同じ頃。
廃炭鉱街の裏通り、石炭粉で黒ずんだ看板が傾いた酒場の中は、煙草の煙と安酒の匂いで濁っていた。
カウンターの端に腰掛けたジャックは、目の前の男──日に焼けた顔に古い刀傷を持つ、精霊捜索の依頼で荒野に出ている賞金稼ぎの一人──に向かって肩をすくめてみせた。
「南西の旧鉄道線路沿いだよ。俺も最初はただのガセかと思ったがな」
ジャックはグラスの縁を指で弾いた。
「でかい多脚機の足跡と、奇妙な荷車を引っ張ってる連中の痕跡が残ってた。方角からして廃炭鉱街から離れる方向だ。もう相当先に進んでるだろうな」
賞金稼ぎの目が動いた。隣にいた仲間と視線を交わす。
「旧鉄道線路沿いか……確かに、あの辺りなら足がつきにくいな」
「だろう? ここでチビチビやってるより、南西に網を張り直した方がいいんじゃないのか」
ジャックは軽く手を振って、自分のグラスに口をつけた。
カウンターの反対側では、カーラが別のテーブルに腰を据えていた。葉巻の紫煙を細く吐き出しながら、向かいに座る情報屋の男と低い声で話し込んでいる。
「あら、南西で目撃があったの? 私も似たような話を別の筋から聞いたわ。裏を取るには少なくとも二、三日はかかるでしょうね」
カーラの声は穏やかだった。
情報屋が頷き、手帳に何かを書き留めている。その間にカーラの目が一瞬だけジャックを捉え、ほんのわずかに顎を引いた。
ジャックはグラスを置き、外套の襟を立てて席を立った。
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ドックに戻ったガレットとルカがハッチを潜り、機内へ入る。
厨房で鍋を火にかけると、やがて温かなスープの匂いが機内に満ち始めた。骨付き肉と根菜が大鍋の中でぐつぐつと煮立ち、蒸気がほの暗い天井へと立ち上る。ガレットが木匙でアクをすくい、塩を少しだけ足した。
ルカは厨房の椅子に腰掛け、両足をぶらぶらと揺らしていた。
椅子の位置からは、奥の工作室が見えた。白い排熱蒸気の幕の向こう側で、低いランプの灯りに照らされた男の背中がある。背中は微動だにしない。片手だけが、精密機械のように正確な間隔で動いていた。その頭上では天井のアームが同じ静けさで基盤の反対側を刻んでいる。
ルカは椅子の上で膝を抱え、その光景をじっと見つめた。
深夜を回った頃。
ガレットがスープ皿を二つ、作業台の隅にそっと置いた。湯気が排熱蒸気と混じって白く揺れる。皿の横に、厚く切った黒パンを添える。ルカもその隣に、無言でもう一つのパンの切れ端を置いた。
「冷める前に腹に入れろ。目が霞んで手が狂ったら元も子もない」
ガレットの声は短かった。
アルドは拡大鏡から顔を上げなかった。右手は極細のペン先を握ったまま、左手だけが伸びて木匙を取った。皿を引き寄せ、スープを一口すすり、二口目でパンを浸して噛む。
「……悪くない」
それだけ言って、木匙を置き、ペン先を握り直した。指先が基盤の上に戻る。
『マスターのみ給油時間を許容するとは……私のメンテナンス優先順位が、著しく軽視されています』
スピーカーの奥で冷却ファンが重く唸り、合成音声に微かなノイズが混じる。
『……不満です』
排気ダクトの蒸気がひと際大きく噴き出した。天井近くの配管が低く唸り、工作室の空気がわずかに温度を上げる。
ルカが吹き出した。声を抑えようとして、結局こらえきれずに肩を揺らしている。
ガレットが鼻で笑った。アルドはペン先を動かす手を止めないまま、口元だけがかすかに緩んだ。
スープの湯気と排熱蒸気が、工作室の白い幕の中に溶けていった。
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時間は鋸の歯のように削られていった。
ルカが厨房の椅子でうとうとと舟を漕ぎ始め、ガレットが毛布を一枚かけてやった。
ジャックとカーラは街での仕事を終えて戻り、カーラは機内リビングのソファで葉巻をくゆらせながら目を閉じた。ジャックは工作室の入り口に背をもたれさせ、腕を組んだまま黙って天井を見ている。
工作室では、極細のペン先とアームだけが動き続けていた。
やがて、壁面の機械時計が静かに夜明けの時刻を打った。
外部の廃炭鉱街に、新しい朝が来ていた。
アルドの手が止まった。
ペン先を作業台に置き、インクの壺に蓋をする。ぼろ布で指先を拭い、拡大鏡を跳ね上げた。作業台の上には、大戦期の軍用規格に基づいた無骨な論理基盤が横たわっている。
ベルトポーチから確認用の導針を取り出し、基盤の端子に差し込んだ。
一瞬の間。
基盤の論理配列が、静かに脈打った。
淡い光が、描き込まれた論理コードの経路に沿って走っていく。分岐し、枝分かれし、末端まで行き渡る。一定の周波数の光が、安定した律動を保って灯り続けた。
導針を引き抜いた。光は消えない。基盤の論理配列は、自律的に論理を循環させ始めていた。
「……入った」
アルドが呟いた。声は掠れていた。
工作室の入り口で目を開けたジャックが身を起こした。リビングからカーラが葉巻を指に挟んで歩いてくる。
二人は作業台の上で静かに脈打つ基盤を見下ろした。
カーラが葉巻の煙を細く吐いた。
「……あきれた」
煙が白い幕に溶けていく。
「現代じゃ再現不可能だって言われてる遺物を、まさか本当に仕立て上げて見せるなんてね」
ジャックが基盤を持ち上げた。重量を手の中で確かめ、刻印と論理配列を厳しい目で見比べる。
それから、周囲をぐるりと見回してアルドに視線を戻した。
「……おい、アルド」
目が細くなった。
「これに、また何か余計な仕掛けや変な仕様を仕込んでねぇだろうな?」
「ただの完璧な模造品だ」
アルドは掠れた声で答えた。
「余計なことをしてる暇がどこにあったってんだ。さっさと届けてこい」
ジャックは基盤の表面をもう一度指先でなぞり、鼻を鳴らした。
「……違いない」
革袋を開き、油布で丁寧に包んでから基盤を収めた。袋の口を硬く締め、肩掛けの運搬鞄へとしっかりと仕舞い込む。
ハッチへ向かうジャックの背中に、カーラが声をかけた。
「気をつけなさいよ。変な色気は出さないこと」
「言われなくても分かってる」
ジャックは振り返らなかった。片手だけを軽く挙げて、ハッチの向こうに消えていった。
魔導ランプの静かな灯りだけが、工作室の床を淡く照らしている。
排熱蒸気がゆっくりと引いていた。魔力炉の過負荷計算が終わり、通常の駆動音に戻りつつある。
アルドは作業台に両肘をついたまま、目を閉じた。
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