第40話 マスターの甲斐性で囲えるのは、この「鉄の塊」くらいなものです
廃炭鉱街のドック。
煤けた鉄骨の天蓋の下、オールド・ベルの巨体が多脚を折り畳んで停泊している。機体の横では、アルドが作業台に工具を並べ、歩行ギアの歯車にオイルを差していた。
錆びた天蓋の隙間から差し込む午後の日差しは鈍く、石炭の煤煙を含んだ風がドックの隅に溜まった砂埃をゆるりと転がしている。
その時、機体側面の分厚いハッチが重い金属音を立てて開いた。
機内から一気に溢れ出したのは、温室で採れたばかりの青菜と乾燥豆を煮込んでいるスープの匂いと暖かい湯気だ。
「アルド、スープに入れる塩はまだあったか」
開いたハッチから上半身を突き出したガレットが、ぼろ布で手を拭きながら訊いた。
「棚の奥にまだ半袋ある。足りなきゃ街で買ってくる」
「いや、あるなら足りる。先に食うか?」
「もうちょっとだけ待ってくれ。このギアの噛み合わせが気に入らない」
アルドはレンチを握り直し、歯車の調整に意識を戻した。ガレットは何も言わずにハッチの奥へ引っ込んでいく。
そんな穏やかな午後を引き裂くように、ドックの入口の方角から排気音が聞こえてきた。
重い駆動音を軋ませながら、泥だらけの装甲車がゆっくりとドックへ滑り込んでくる。車体は長距離走行の痕跡で覆われていた。排気管から黒い煙を吐き出しながら、機体の横手でようやく停車する。
アルドは工具を握ったまま、目だけをそちらへ向けた。
運転席のドアが軋んで開き、中から降り立ったのは砂埃まみれのジャックだった。長い道中の疲労が滲む足取りで装甲車に寄りかかり、深い溜息をひとつ、吐き出した。
それからアルドの方へ歩み寄ってくる。
「お前……」
頭痛を堪えるように眉間を揉みながら、ジャックは低い声でこぼした。
「なんでよりによって、一番追っ手の集まるこの拠点に舞い戻ってきてるんだよ……」
「何の話だ」
アルドは手を止めず、歯車にオイルを一滴垂らした。
「お前こそ、わざわざここまで何の用だ。何でも屋」
「用があるから来たんだろうが……」
ジャックの声は絞り出すように掠れていた。怒鳴る気力すら、長旅で擦り減ったらしい。
装甲車の後部から降りてきたカーラが、腕を組んで二人を眺めている。その隣で、ルカが荷台から軽やかに飛び降りた。
「おーい、おっさーん!」
ルカがドックの奥に向かって声を張り上げた。ハッチからガレットが再び顔を出し、来客の姿を認めて片眉を上げる。
「……ルカか。それに、カーラまで。一体どうした」
「長い話よ」
カーラが疲れた笑みを浮かべながら、短く答えた。
「まあ、この何でも屋に付き合ってあげただけ。追いかけてきたのはこっちの男」
カーラが顎でジャックを示す。ジャックは無言で首を振り、ドックの柱にもたれかかった。
ルカはガレットのもとへ駆け寄り、開いたハッチから漂う暖かい匂いに「おっさん、元気? いい匂いしてる」と鼻をひくつかせている。ガレットは「メシならもうすぐ出来る。待ってろ」と短く返し、追加の椀を取りにハッチの中へ戻っていった。
ジャックは柱にもたれたまま、ドックを見回した。
アルドと、キッチンに引っ込んだガレット。それだけだ。
ジャックの視線が、巨大な多脚機の全体をゆっくりと舐めるように辿った。
「……なあ、アルド」
「なんだ」
「もう一人、いるんじゃないのか。以前、俺をとっ捕まえた時に声だけ聞いた。機内にいた、あの女だよ」
アルドの手が一瞬だけ止まった。すぐにレンチを握り直す。
「女?」
「すっとぼけるなよ。前はああいうことになったから顔は見られなかったが、今回は挨拶くらいしてくれてもいいんじゃないのか」
ジャックは柱から背を離し、腕を組んだ。
「わざわざ姿を現さないように隠してるのか? 恋人か……いや、恋人なら隠す必要はないか」
間を置いて、ジャックは半笑いで続けた。
「じゃあ、愛人か。愛人にオペレーターやらせてるなんて、図太いやつだぜ、アルド」
アルドは溜息を吐いた。レンチを作業台に置き、何か言おうと口を開きかけた。
しかしその前に──傍らの作業台の隅に転がっていた通信機が、ぷつり、と息を吹き返した。
『……マスター』
冷たく澄んだ合成音声が、通信機の古びたスピーカーから流れ出した。
『愛人、ですって。これはご挨拶をしないわけにはいきませんね』
アルドの顔から血の気が引いた。
「おい、ベル──」
『今回はうちの主人が何かとご迷惑をおかけしたようで。不躾な男で申し訳ございません、ジャック様。わたくし、アルドの身の回りのお世話を……』
「乗っかるな!」
アルドが通信機を掴み上げ、叫んだ。
「ややこしくなるから黙ってろ!」
『あら。せっかくご挨拶をしようとしているのに。マスターは本当にお行儀が悪い』
通信機越しの合成音声は、恭しい言葉遣いの裏に薄い笑みを貼り付けたまま、涼しげに続けた。
『──それにしても、こちらのジャック様は、以前にも増して頭部の物理修復が必要な状態のようですね。記録によれば、前回この方がいらした時は、両手両足をワイヤーで床に固定された状態でしたが』
ジャックの口元が引きつった。買い出しの留守を狙って機内へ侵入し、書庫で簀巻きにされて床に転がされていた屈辱の記憶が一気にフラッシュバックしたらしく、こめかみがぴくりと跳ねた。
「……おい、アルド。この声、覚えがある。この生意気な口のきき方、あの時の……」
その時だった。
通信機から声が響くのと同時に、停泊していたオールド・ベルの巨体が、低い駆動音を上げて動き始めた。
折り畳まれていた作業用アームの一本が、関節を軋ませながらゆっくりと持ち上がる。巨大な鋼鉄のアームが、ジャックの目の前で、まるで会釈でもするかのように丁寧に頭を下げた。
機体前面の光学センサーが、赤い光を灯してジャックの顔をじっと捉えている。
通信機の声。
鉄の塊の動き。
完全に、連動していた。
「……待て」
ジャックの声が裏返った。
通信機と、目の前の巨大な多脚機を、交互に見る。
「待て待て待て。スピーカー……じゃない、通信機……でもこいつが……」
ジャックは通信機を指差し、それから巨大な機体を指差し、もう一度通信機に視線を戻した。
「部屋の中にいるオペレーターじゃなくて──この、鉄の塊が……?」
鋼鉄のアームが、もう一度、ゆっくりと頷くように下がった。
光学センサーの赤い灯りが、穏やかに──しかし明らかに意図を持って──点滅した。
『はい。お察しの通りです、ジャック様。わたくしは、この「鉄の塊」そのものでございます』
ジャックは、指を差したまま完全に硬直した。
口は半開きのまま、瞬きすら忘れている。
その光景を、装甲車の脇で見ていたカーラが、堪えきれずに肩を震わせた。
「……あはっ」
最初は小さく。次の瞬間、腹を抱えて笑い出した。
「あんた……あんた本気で、中に女がいると思ってたの?あの機体に侵入までしたくせに!」
「ギャハハ! ジャック、馬鹿じゃねえの!」
ルカがガレットの隣で膝を叩き、涙を浮かべて笑い転げている。
「ベル姉って、あのデカい機械のことだよ! 愛人って! 鉄の塊が愛人!」
「うるせえ! 知るかよ! 普通に喋ってたら人間だと思うだろうが!」
ジャックが声を荒らげたが、その顔は首筋まで赤く染まっていた。カーラとルカの笑い声がドックの鉄骨天蓋に反響して、いつまでも響いている。
アルドは通信機を作業台に放り投げ、深い溜息とともに額を手で覆った。
(余計なことしやがって……)
通信機からは、涼やかな笑い声の名残のような、ごく微かなノイズが漏れていた。
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笑い声がようやく収まった頃。
ドックの隅に腰を下ろしたジャックは、上着のポケットから煙草を取り出しかけて、やめた。代わりに水筒を引っ張り出し、一口だけ含んで口の中を湿らせた。
「……で、だ」
ジャックの声色が変わった。
疲労混じりの軽口が消え、低く、乾いた声だけが残っている。
「笑い話をしに来たわけじゃねえ」
カーラが笑みを収め、腕を組み直した。ルカも顔を上げ、空気が変わったことを察して口を閉じる。
アルドはレンチを手に取ったまま、ジャックの方を見た。
「企業連が動いてる」
ジャックは短く言った。
「灰の海の洋上プラント──お前たちがひっこ抜いていった精霊が消えてるのを、航路開拓局が見つけた」
アルドの眉がわずかに動いた。ガレットがハッチの縁に手をかけたまま、無言でジャックを見ている。
「靄が晴れたおかげで連中がプラントに辿り着いちまった。中枢の精霊が丸ごと消えてるって大騒ぎだ。今、かつてない規模で捜索隊が動き出してる」
ドックに沈黙が落ちた。遠くで石炭を砕く重い音だけが、低く響いている。
「……今度も、言葉だけの誤魔化しじゃ済まねえぞ、アルド」
ジャックの目が、真っ直ぐにアルドを射抜いた。
「雷鳴の谷の時と同じだ。お前たちが持ち去ったプラント中枢の精霊──その実物を連中に引き渡さねえ限り、捜査の手は止まらねえぞ」
アルドは黙ったまま、手の中のレンチを弄んでいた。
ガレットが静かにハッチから降り、アルドの隣に立った。
カーラは装甲車の側面にもたれ、細い目でアルドの反応を窺っている。ルカだけが、大人たちの張り詰めた空気の中で、不安そうに視線を泳がせていた。
「……またこのパターンかよ」
アルドが、呆れたようにぽつりと呟いた。
レンチを作業台に置く。乾いた金属音が、静まり返ったドックに小さく響いた。
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