第36話 何でも屋とディーラー
蒸気と煙草の煙が低い天井に淀む酒場だった。
壁際のランプが気まぐれに明滅し、カウンターの向こうでは店主が無言でグラスを磨いている。客の大半は傭兵崩れか、出自の怪しいブローカーたち。誰もが隣の顔を見ないふりをしながら、耳だけは立てている。そういう種類の店だ。
奥のテーブル席に、女が一人で座っていた。
艶のある黒髪をざっくりと束ね、煤けた革のロングコートを羽織っている。卓上に広げた帳簿から目を上げることなく、手元のグラスに唇をつけた。安酒ではない。この手の酒場では場違いなほど上等な琥珀色の液体が、ランプの光を受けて揺れている。
カーラという名で通っているディーラーだった。
ジャックがその酒場に足を踏み入れたのは、日が落ちて間もない時刻だった。
革のフード付きジャケットのポケットに両手を突っ込んだまま、店内を一瞥する。目当ての顔はすぐに見つかった。迷わず奥へ向かい、カーラの向かいの椅子を引く。
「女性と同席するなら、それなりのマナーってもんがあると思うけど」
カーラは帳簿から目を上げない。
「立ち話が好きな商人はいないだろう」
ジャックはそう言いながら腰を下ろした。店主に顎をしゃくって安酒を一杯頼み、運ばれてきたグラスを一口だけ舐める。まずい。顔には出さなかった。
「聞きたいことがある」
「聞くだけならタダよ。答えるかは別だけど」
「アルドという修復師を知っているか。今どこにいるか分かるか」
カーラのペンが一瞬だけ止まった。ほんの刹那。すぐに何事もなかったように帳簿に数字を書き足す。
「ずいぶん前に死んだって聞いたわよ」
グラスを傾け、琥珀色の液体を一口。
「いつ頃噂になったかは覚えてないけど」
カーラはそこで言葉を切り、ジャックの顔をまじまじと見つめた。
「……あんた、確かこの界隈の『何でも屋』よね?」
「ああ」
「なら、そんな噂くらい自分で調べられないの?」
「死んだという噂なら知ってる」
ジャックは安酒のグラスを回しながら、声のトーンを変えなかった。
「それでも生きてるかもしれないと思って探している」
「探すのはそちらの勝手だけど、私は何も知らないわ」
カーラはようやく帳簿を閉じた。革表紙の背を指先で叩きながら、初めてジャックの顔をまっすぐに見る。
「私があの修復師たちと一緒に行動してたってことまでは調べたから、ここにいるんでしょうけど。その時一緒に依頼をこなして以来、一度も会ってないから」
「そもそも」と、カーラは言葉を継いだ。グラスの縁を人差し指でなぞりながら、少しだけ声を落とす。
「『何でも屋のジャックが修復師たちを殺した』って噂を聞いたわよ。自分で殺した相手を捜すなんて、何の冗談?」
ジャックは一拍だけ間を置いた。グラスを卓上に置き、背もたれに体を預ける。
「殺したはずの奴らが生きているかもしれないと耳にしたのでな。……プロとしては、放置しておくわけにはいかない」
カーラの目が僅かに細くなる。値踏みするような、あるいは品定めするような視線。
「へえ……評判通りの仕事熱心ね」
カーラはグラスを置いた。卓上で両手の指を組み合わせ、冷たく言い放つ。
「でもあいにく、あたしは他人の仕事の『死体蹴り』を手伝う趣味はないわ。帰りなさい」
突き放すような口調。しかし席を立つ素振りはない。ジャックはそれを見逃さなかった。
「お前さん、さっき言ってたよな。『調べたからここにいるんでしょうけど』って」
「だから何よ」
「そうだ、あんたがアルドたちと一緒に依頼をこなしたことは調べた」
ジャックは安酒を一口啜り、グラスを卓に戻す。指先でその縁を弾いた。澄んだ音が喧騒の隙間を縫う。
「でだ、妙な話も聞いたんだよ」
「妙な話」
「もうずいぶん前の話だからな、みんな正確には覚えちゃいなかったが。俺がアルドたちを殺した時期に、廃炭鉱街のドックでアルドたちと話しているあんたを見たってな」
カーラの表情は変わらない。指を組んだまま、微動だにしない。
「それが殺す前だったのか後だったのかははっきりしないが──あんたさっき言ったよな、依頼をこなして以来、一度も会ってないって」
ジャックは身を乗り出した。
「何か隠してないか?」
沈黙が落ちた。
酒場の喧騒が、二人のテーブルだけを避けて流れていくような錯覚。カーラは組んだ指をゆっくりとほどき、グラスを取り上げて口をつけた。
「そんなの」
グラスを置く。
「それこそずいぶん前だから忘れてただけよ。依頼でもなく、ただ話しただけのことなんて覚えてないわよ」
「しかし、アルドたちが死んだとされる時期に間違いなく会ってはいたんだろう」
「確かに会ってはいたと思うけど、それがあんたが殺した後のことだったのかなんてわからないわよ」
「ふむ。まあいい」
ジャックは顎を引いた。
「少なくともアルドたちと最後に話をしたのはどうやらあんたのようだな。あいつらどこに行くとか言っていなかったか」
「だから覚えてないわよ。会ったことも覚えてなかったのに、何を話したかなんて覚えているわけないでしょ」
カーラの声に、初めて棘が混じった。
「それにあんたに何で教えないといけないのよ」
ジャックは黙った。安酒のグラスを両手で包み、中の液体を見つめる。数秒。それから顔を上げ、声を一段低くした。
「カーラ。あんた確かディーラーだったよな。契約を守る商人だ」
「だったら何よ」
「俺はあんたが何かを知っていると思っている。しかし、あんたは知らないと言う」
ジャックはグラスから手を離し、両手を卓上に置いた。
「商人が隠し事をするときは二つだ。自分の利益を守るときか──誰かとの契約を守るとき」
カーラが僅かに眉を動かした。ジャックはそれを見て、畳みかける。
「仮にあんたがアルドたちの居場所を言わないのが、アルドたちとの契約を守っているとしたら。それはアルドたちの身の安全を保障するためじゃないのか?」
「それは、あんたの勝手な想像よね」
カーラは冷静だった。だが組み直した脚の角度が、ほんの少しだけ変わっている。
「そんなことを私に言ってどうしたいのよ」
「アルドたちの身の安全を保障するために俺はアルドたちを探していると言ったら?」
「馬鹿じゃないの」
即答だった。
「あんたがアルドたちを殺したんでしょ。生きてるかもしれないとか言っていたけど、殺そうとした相手の身の安全を守るって何を言っているの」
ジャックは答えなかった。代わりに周囲をゆっくりと見回した。カウンターの酔っ払いたちは自分の杯にしか興味がない。店主はグラスを磨き続けている。誰も、こちらを見ていない。
ジャックは身を乗り出し、声をさらに落とした。
「ところでお前、企業連──航路開拓局が洋上プラントから消えた精霊を探しているって話を知っているか」
空気が変わった。カーラの指先が、僅かにグラスの脚を握り締める。
「何よ急に。そういう話があるっていうのは耳にしているけど。それが何なのよ」
「俺がその精霊探しを依頼されている」
ジャックは淡々と続けた。
「依頼されている奴は他にもいるかもしれないがな」
「そう。それは頑張って探してちょうだい」
カーラはグラスの中身を一口。余裕のある仕草。だが目だけはジャックから離れない。
「それで、それが何なの」
「俺は洋上プラントから精霊を持ち出したのはアルドたちだと思っている」
「何度も言うけど、あんたが殺したんでしょ? アルドたちなわけないじゃない」
「俺の手元にある洋上プラントの現場資料を見るとな、アルドたちだとしか思えないんだよ」
「あんたの考えすぎでしょ」
カーラの声は平坦だった。しかしグラスを持つ手が、もう一度だけ卓上に戻される。
ジャックは畳みかけた。
「問題はだ。アルドたちが持ち出したかもしれない精霊探しが始まっているということだ。つまり──本当にアルドたちが持ち出していたなら、死んだはずのアルドたちがいつか見つかっちまう」
沈黙。
今度の沈黙は、先ほどまでのものとは質が違った。カーラの視線がジャックの目を射抜く。値踏みでも品定めでもない、冷徹な沈黙だった。
「……見つかっちまうって」
カーラの声が、初めて低くなった。
「あんた、アルドたちが生きてるってことを隠しているの?」
「その問いに答える前に、もう一度聞くぞ」
ジャックはグラスを脇へ押しやった。安酒はもう必要ない。
「あんた、アルドたちがどこに行ったのか知っているか?」
長い間があった。
カーラはグラスの残りを一息で干した。空のグラスを静かに卓上へ置き、背筋を伸ばす。
「あんたが、ここまでの話で嘘をついていないと証明できるなら──質問に答えてあげる」
「そうだな」
ジャックの手がジャケットの内ポケットへ伸びた。取り出したのは、油布に包まれた小さな輪。布をほどくと、鈍い金属の光沢が薄暗い酒場のランプを弾いた。
腕輪だった。
無骨で、それでいて異常なまでに精密な造りをしている。表面には肉眼では追いきれないほど微細な刻印が密に走り、留め具の蝶番に至るまで一切の妥協がない。何かの実用的な道具であることは疑いようがなかったが、同時に──ここまでの造り込みが一体何のために必要なのか、常人には理解しがたい代物だった。
ジャックはそれを卓上に置いた。
「この腕輪を作ったのはアルドだ」
「これが何なの」
「静電気を発生させる腕輪だ。はめて何かに触れるたびに、パチッと不快な電撃が走る。いやな気分になること請け合いだ。」
カーラが片眉を上げた。
「それで。これがどういう証明になるの」
「こんなバカげた腕輪を作るのはあいつしかいないだろう」
ジャックの口元が僅かに歪んだ。自嘲とも、感嘆ともつかない笑み。
「これはアルドが俺に──企業連に嘘の報告をするという約束を守らせるために作ったものだ。約束を守ったら外してやると。もしあんたがアルドたちが生きていると知っているなら、殺して奪ったわけじゃないということは分かるだろう」
カーラは帳簿を脇へ寄せ、腕輪に手を伸ばした。
「ちょっとその腕輪、見せてもらっていい」
「ああ。だけどちゃんと返してくれよ、俺が気に入ってアルドに頼んでもらったんだから。それと気をつけろよ、はめてしまうとアルドしか外せないからな」
カーラは腕輪を手に取った。
指先で表面の刻印をなぞる。ルーペも使わずに、微細な配線の走りを観察する。技術者ではないが、この手のものの「値段」を直感で嗅ぎ取るのはディーラーの本能だ。
「私は技術者じゃないから詳しくはわからないけど」
腕輪を光にかざし、留め具の構造を確かめる。
「無駄にすごい出来だってことくらいはわかるわ。アルドが作ったかどうかはわからないけど、作った可能性は確かにありそうね」
カーラは腕輪を持ったまま、ジャックに向き直った。
「返すわ。はいどうぞ」
ジャックが右手を差し出した。
カーラの手が動いた。
返すのではなく──差し出されたジャックの手首に、容赦なく腕輪をカシャッとはめ込んだ。
パチッ。
「──ッ!」
不規則な静電気が手首を走り抜け、ジャックの体が椅子の上で跳ねた。指先が痺れる。微弱だが、明確に不愉快な刺激。
「おまえ、何するんだよ。外せないんだぞ」
「そうね」
カーラは平然と両手を膝の上に置いた。
「あなたの話が本当なら外せないんでしょうね。これであなたがアルドたちを見つけてもすぐには殺さないでしょうし」
グラスの残滓を舐めるように一口。空になったグラスを静かに裏返す。交渉成立の合図か、それとも彼女なりの流儀か。
「嘘ならすぐに腕輪を外してこの場を立ち去りなさい」
ジャックはたまらず左手で右の手首を押さえた。
パチッ。
「痛っ……! マジかよ。信じられないことするな……」
カーラは椅子の背に手をかけ、立ち上がった。帳簿を小脇に抱え、コートの裾を翻す。ランプの明滅が、その横顔に不敵な影を落とした。
「さて、アルドたちを探したいんだっけ。付き合ってあげるわ」
酒場の出口へ歩き出しながら、肩越しに振り返る。
「アルドたちにお願いしてた調査依頼の結果も聞きたいしね。──それに、遠出するのにタダで護衛してくれる何でも屋さんも手に入ったことだし」
ジャックは右手首を左手で庇いながら、舌打ち交じりに立ち上がった。腕輪がまたパチッと鳴る。肩が跳ねる。
「……ったく」
テーブルの上に安酒の代金を置き、カーラの背中を追う。煤けた酒場の扉を押し開けると、外は埃っぽい夕闘の残照に染まっていた。
停めてあったカーラの装甲車──鉄板を継ぎ接ぎした、いかにも荒野仕様の頑丈なドアが開かれる。カーラは助手席を顎でしゃくった。
「乗りなさい」
「……運転は俺がするんじゃないのか」
「護衛は荷台よ。ただし今日は特別に助手席を許可してあげる」
ジャックが車のドアを閉めると同時に、腕輪がパチッと鳴った。反射的に手首を振る。カーラが横目でそれを見て、口元だけで笑う。
ボイラーが低い唸りを上げた。
蒸気の吐息を吐きながら、装甲車は埃の舞う通りを滑り出す。行き先は遊牧街。かつてアルドたちが身を寄せていた、荒野を彷徨う移動コミューン。
パチッ。
「……おい、さっきから車が揺れて服に擦れるたびに鳴ってないかこれ。くそ、二度とはめるつもりはなかったのにな……」
「知らないわよ。文句があるならアルドに言いなさい」
砂埃を巻き上げて、車は荒野の闇へと消えていった。
最後までお読みいただきありがとうございました!
「続きが気になる!」「この関係性が好き」と思ってくださった方は、ぜひ広告下部にある【ブックマークに追加】や、下部の【ポイント評価(★をタップ)】で応援していただけると嬉しいです!




