第35話 再び狙われる修復師
ピンセットの先端が、紙の繊維にこびりついた乾いた糊の塊を捉えた。
アルドは息を止め、ルーペ越しに繊維の走り方を確認してから、ゆっくりと引き剥がしにかかる。深海掘削マニュアルの表紙裏。密封された制御室に保管されていたとはいえ、長い歳月の間に劣化した製本用の膠が石のように硬化し、ページ同士を強固に癒着させていた。力任せに剥がせば繊維ごと持っていかれる。ピンセットの角度を微調整し、接着面と紙の境界線に沿って、薄皮を剥ぐように慎重に引いていく。
工作室は散らかったままだった。作業台の半分は論理基盤の配線パネルと工具が占領し、残りの半分にマニュアルの山が積み上がっている。数日前に接続を終えた論理基盤は、もはやアルドの視界にも入っていない。彼の意識は、指先の一点──ピンセットと紙の繊維の境界だけに注がれていた。
ベルの合成音声が、頭上のスピーカーから降ってきた。
『マスター。その本を修復して棚に増やす前に、まずは床の惨状を片付けてください。あなたが繋いだ拡張基盤が、先ほどから書庫の崩落ハザードに関する警告ログを延々と吐き出し続けていて非常に迷惑です』
「……うるさい。あと3ミリ」
『3ミリの汚れを優先して、書庫全体の安全を軽視するのですね。マスターの優先順位は相変わらず壊れています』
アルドは答えなかった。ピンセットの先がわずかに震え、汚れの端がめくれ上がる。その下から、退色したインクの筆跡がかすかに覗いた。
ドア枠に肩を預けたガレットが、干し肉を齧りながらその一連の動作を眺めていた。やがて干し肉を飲み下し、腕を組む。
「おい、アルド」
返事はない。
「おい」
ピンセットが止まった。アルドの目がルーペの向こうで細まる。
「……なんだ」
「実験と修復に没頭すんのもいいが、魔力炉の燃料と食い物の備蓄が底をつきかけてるぞ。そろそろ補給しねえと、荒野のど真ん中で干からびる」
アルドの手が止まった。ピンセットを作業台に置き、初めて顔を上げる。ガレットの表情を見て、冗談でないことを察したらしい。油で汚れた指先で顎を掻いた。
「……そうだな。だが、こんな荒野で都合よく集落が見つかるわけじゃない」
立ち上がり、壁に貼りっぱなしの古い広域地図に目をやった。灰の海の沿岸から内陸に向けて、赤茶けた岩盤と鉄屑の荒野がどこまでも続いている。
「ガレット。この辺りで人が集まりそうな水場とか中継地に、心当たりはないか」
「俺が傭兵やってた頃に、岩場の裂け目から湧き水が出てた窪地がいくつかあった。人が住み着いてたかどうかは知らねえが、水さえあれば人は集まる」
「ベル」
『はい、マスター』
「お前の地図記録から、過去に集落があったポイントを洗い出してくれ。今でも残っているかは分からないが、無きゃないでその時だ」
『かしこまりました。ガレットの記憶と照合します。ただし、マスターが補給先で「珍しい本はないか」と聞いて回り、補給そっちのけで古紙漁りを始めることは容易に予測できますので、あらかじめ申し上げておきます。迷惑です』
「黙れ。言われなくても分かってる」
『それはどうでしょうね』
ガレットが鼻で笑った。
数分後、ベルが提示した候補地をガレットの経験則と突き合わせ、大まかな経路が決まった。アルドはマニュアルの山を革袋にまとめ、工具箱の蓋を閉じる。
「急ぐ旅でもない。燃料と物資を補給しつつ、珍しい古書が出そうな集落をあちこち冷やかして回るか」
『やっぱり古書が目当てではないですか』
「ついでだ」
多脚のギアが軋みを上げ、灰の海の岸辺に停泊していた機体がゆっくりと動き出した。砕けた岩盤を踏み越え、赤茶けた荒野の地平線へ向けて歩を進めていく。
振り返る者は、やはり誰もいなかった。
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アルド達が灰の海を去ってしばらくして。
企業連・航路開拓局から、数ヶ月に一度の沿岸調査に派遣された観測員の一人が、双眼鏡を下ろして目を擦った。
もう一度覗き込む。レンズの向こうに広がる灰の海の海面は、いつもと変わらない──鉛色の汚泥が、うねりもなく、のっぺりと彼方まで続いている。
違うのは、空だった。
この海域には、いつも澱んだ靄が低く垂れ込めていた。鉄錆と酸の混じった重たい空気が海面にへばりつき、沿岸の岩場から沖合を見通すことなどできなかった。それが海の底で続く化学反応の揮発によるものなのか、あるいはもっと別の原因があるのか、観測員たちは知らない。ただ、この一帯はいつだって靄に塞がれていて、それが当たり前だった。
しかし今、靄が薄い。
完全に消え去ったわけではない。海面すれすれに金属臭い霞がまだ漂っている。だが、かつてこの海域を塞いでいた分厚い壁のような濃霧は、明らかに痩せ細っていた。
その薄れた靄のはるか向こう──海と空が溶け合う灰色の彼方に、何かが見えた。
観測員は双眼鏡のピントを合わせ直した。指先が震えた。
鉛色の泥と鉛色の空の曖昧な境界に、巨大で武骨なシルエットが浮かび上がっていた。鉄骨と配管が絡み合った、途方もなく大きな構造物。海面からそびえるように突き出た、人工の影。
双眼鏡が岩場に落ちた。
「……おい。おい! あれを見ろ!」
叫び声に、待機していた装甲車から班長が飛び出してきた。他の観測員たちも岩場に殺到する。指差す先、靄の薄れた灰色の彼方に、それは確かにあった。
沿岸の風が、怒号で揺れた。
「本部に緊急打電! 灰の海にて未知の巨大構造物を肉眼で確認! 座標を記録しろ! 今すぐ特殊開拓部隊の出動準備を!」
通信士が装甲車の無線機に取りつき、震える指で符号を叩き始める。班長は岩場から身を乗り出し、肉眼でも辛うじて確認できるその巨大な影を、食い入るように見つめていた。
長きにわたり、靄の向こうに隠れていたものが、ついに姿を現した。
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重工都市の裏路地は、表通りの蒸気灯の光が届かない。
煤で黒ずんだ煉瓦の壁に挟まれた路地の奥。看板もない錆びた鉄扉の向こうに、ジャックがねぐらにしている薄暗い一室があった。壁には荒野の地図と古い手配書が無秩序に貼られ、傷だらけの机の上には酒瓶と書類の束が散乱している。
ジャックは椅子の背に体を預け、手元の書類を読んでいた。
航路開拓局の裏ルートから回ってきた依頼書と、付属の現場調査資料。つい先日、灰の海の靄の向こうで発見されたという「大戦期の洋上プラント」。そこにようやく到達した企業連の開拓部隊が、中を調べて仰天したらしい。プラントの中枢を制御していた精霊──論理基盤が、跡形もなく持ち去られていた。
ジャックは依頼書の文面を、もう一度読み返した。
「最近新たに発見された大戦期の設備から、中枢の精霊が抜き取られて消失した。捜索および回収を依頼する」
椅子がギシリと軋んだ。
ジャックは書類を机に置き、天井を仰いだ。煤けた板張りの天井が、薄暗い灯りに照らされている。
(……なんだこの依頼は)
胸の奥で、嫌な違和感が膨れ上がっていた。
どこかで聞いた。この構図を、以前にも見た。最近新たに発見された大戦期の設備。精霊が消えている。探し出せ。
──雷鳴の谷。
あの時も同じだった。企業連が古い施設を見つけ、中身が荒らされていることに気づき、犯人を探せと依頼が来た。
(同じだ。構図がまるっきり同じじゃねえか)
ジャックは椅子を起こし、付属の調査資料に手を伸ばした。企業連の開拓部隊が洋上プラントの周囲を調査した際の記録と、粗い印画紙が数枚。
泥にまみれた接岸ドックの風景。使われた形跡のある係留柱。そして──
ジャックの指が止まった。
印画紙の隅、ドックに堆積した泥の表面に、不自然な痕跡が焼き付けられていた。複数の円形の窪みが、規則的な間隔で刻まれている。大型の──それも、かなりの重量を持つ多脚歩行機の足跡に見えた。比較的新しい。泥の窪みの縁が風で崩れず、輪郭がまだくっきりと残っていることから、数週間以内のものだろう。
(多脚機の足跡だと? こんな灰の海のど真ん中に、誰が多脚機で乗り込むんだ)
依頼の構図は雷鳴の谷と同じ。そして現場には、規格外の多脚機の痕跡。
ジャックの頭の中で、二つの情報が重なった。
(おい待て)
椅子から立ち上がった。
(こんなイカれた真似をする多脚機乗りなんて──まさか、あの修復師か)
アルド。
あの、平気で他人の腕に爆弾を仕掛けてくるような、イカれたあの修復師。自分が脅されて死亡偽装の噂を流す羽目になった、あの厄介な男。
ジャックは書類を机に叩きつけ、狭い部屋の中を歩き回った。酒瓶を蹴飛ばし、壁に手をついて止まる。
(まずい。まずいぞ)
問題は、アルドが犯人かどうかではない。
問題は、企業連が「消えた精霊の捜索」を始めたということだ。この依頼が回ってきたのは自分だけではないだろう。他にも探している人間がいるかもしれない。そして追跡の手が伸び、もしアルドたちが見つかれば──
──「死んだはず」のアルドたちが生きている。
つまり、自分が企業連に流した死亡報告が嘘だったことが、バレる。
ジャックの背中を、冷たいものが伝った。
(あいつらが捕まったら、俺の嘘報告まで芋蔓式にバレちまう……!)
ジャックは壁から手を離し、乱れた呼吸を吐き出した。
(ちくしょう。俺が完璧すぎる死亡偽装を流しちまったせいで……)
完全に自業自得だった。死んだことにしたせいで、アルドたちが今どこにいるのか、足取りの手掛かりが何一つ残っていない。
ジャックは机に戻り、独自の情報網を書き留めた分厚い手帳を乱暴に開いた。
直接の足取りは追えない。ならば、あいつらのような連中が立ち寄りそうな古物商やスクラップ屋、あるいは荒野の補給拠点を洗い直すしかない。誰かがあいつらの行き先のヒントを握っているかもしれない。
「仕方ねえ……」
ジャックは上着を掴み、鉄の扉に手をかけた。
「まずは、各地の事情に通じてる同業者から片端に当たるか」
扉が開き、裏路地の湿った空気が流れ込んだ。蒸気灯の届かない闇の向こうに、重工都市の煤けた夜空が広がっている。
ジャックは襟を立て、裏路地を足早に歩き出した。
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