第34話 おしゃべりな精霊、寡黙な精霊
制御室の床板を外すと、その下には垂直に落ちるメンテナンスシャフトが口を開けていた。
ランタンの光を落とし込んでも、底は見えない。錆びた梯子の手摺りだけが、闇の中へと一直線に伸びている。壁面を這う配管の隙間から、かすかに油と金属の混じった冷気が吹き上がってきた。
ガレットを制御室の警戒に残し、アルドは一人で梯子を降りていく。一段踏むたびに、乾いた鉄の軋みがシャフトの壁に反響し、やがて吸い込まれるように消えていった。
二層分を降りきった先は、天井の低い狭隘な通路だった。太い配管が頭上と足元を縫うように走り、人ひとりがようやくすり抜けられる幅しかない。ランタンの灯りが配管の継ぎ目を舐めるように照らすたび、プラントの心臓部に近づいていることを、空気の重さが教えていた。
狭い配管の隙間を縫うようにして辿り着いた中枢区画は、制御室以上に密封状態が保たれていた。埃すらほとんどない。
論理基盤の回収は、思いのほか手間取らなかった。
論理基盤自体は、両手で抱えられる程度の、黒ずんだ金属の直方体だった。表面には魔導インクで書かれた極めて微細な論理配列が、劣化した保護膜の下にうっすらと透けて見える。
アルドは接続されていたケーブルの束を一本ずつ丁寧に外し、最後の主幹配線をニッパーで切断した。
長い年月、誰にも読まれることのない定時報告を吐き出し続けていた演算装置が、ようやく沈黙した。
アルドは論理基盤を革のツールバッグに収め、再びメンテナンスシャフトを登る。
「これで充分だ。行くぞ」
ガレットが待つ制御室に戻ると、アルドは書棚から深海掘削マニュアルと設計図面の綴じ込みを数冊抜き取り、モジュールのケーブルを引き抜いた。
施設のコンソールから最後の光が消え、制御室は完全な闇に沈んだ。
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プラントを出る時、振り返る者は誰もいなかった。
巨大な鉄の抜け殻は、灰の海の底で再び沈黙に呑まれるだけだった。中枢を抜かれた死骸は、仮に誰かが辿り着いたとしても、もはや二度と動くことはない。
連絡ドックで船を切り離し、メインの魔力炉に火を入れる。
「おい、ベル。帰りはくれぐれも安全運転で頼むぞ。行きみたいに暴走したら、今度こそケーブルを引っこ抜くからな」
操舵輪を握るアルドが釘を刺し、ガレットも腕を組んで深く頷いた。
『……承知しております。限界制御の余力は、あくまで安全かつ退屈な航行にのみ使用しますよ。せっかくの完璧な出力効率を体感しておきながら、あの気持ち良さが理解できないとは。まったく、マスターたちの貧弱な論理回路には失望しました』
泥を掻き分ける推進外輪が回り始め、灰色の靄を再び突き抜ける。視界が開けた先に広がるのは、相変わらずの鈍い鉛色の泥の海原だった。
オールド・ベルを船から降ろし、多脚のギアを再展開する。泥濘の岸辺を踏み越え、やがて乾いた固い岩盤の感触が足元に戻ってきた。
荒野だ。
赤茶けた岩と砕けた鉄屑の大地が、どこまでも広がっている。灰の海の底に淀んでいた重たい空気が嘘のように、乾いた風が機体の外装を叩いた。
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機内の工作室は、いつもの散らかった有り様だった。
アルドは作業台の端を無理やり空け、制御室から持ち帰った論理基盤をそこに据えた。コンソールの配線パネルを開き、太いケーブルの被膜を剥いて、論理基盤の端子へと一本ずつ繋ぎ込んでいく。ベルの回路に、サブモジュールとして直接組み込む作業だった。
接続端子に魔導インクを一滴。微かな駆動音とともに、論理基盤の表面を覆う保護膜の下で、劣化した論理配列がぼんやりと明滅した。
「……繋がったか」
アルドは配線パネルを閉じ、そのまま作業台の反対側に積み上げた深海掘削マニュアルの山に手を伸ばした。最も状態の良い一冊を開き、風化した背表紙の糊を確認しながら、修復の段取りを頭の中で組み立て始める。
数分後。
『マスター』
ベルの合成音声が、少し改まったトーンで響いた。
『追加された中枢制御系が、機内の空間スキャンを完了しました』
「ああ」
アルドはマニュアルから目を上げなかった。
『現在、あなたの乱雑な書庫に対し、「局所的な重量超過および崩落ハザード、安全基準違反」という無数のエラーを吐き出しています』
「……それがどうした」
『つまり、マスターの整理整頓ポリシーに対する強い拒絶ですね。「技術者としての怠慢」だと、雄弁に私に伝えています』
アルドのページをめくる手が止まった。
ゆっくりと顔を上げる。
「……おい。今のは中枢制御系のログじゃなくて、お前のただの感想じゃないのか」
『私は事実を報告しているだけですが? 中枢制御系のエラーログは、嘘をつきませんよ』
「だったらその中枢制御系とやらに教えてやれ。書庫に関しては、お前だってしょっちゅう俺から本をふんだくって棚に突っ込んでるじゃないか。怠慢っていうならお前も同罪だろうが」
『……私はマスターの大切な知識を安全に保管するため、自主的に収納をサポートしているだけですが? どうやらこの中枢制御系は、高度な情報管理というものを評価する機能が欠如しているようですね。まったく、融通の利かない堅物とは話が合いません』
「堅物って……。お前以外の論理基盤は、そもそもお前みたいにおしゃべりじゃないんだよ。こいつと話が合わないって言うなら、他のどの論理基盤とも話は合わねえよ」
入り口のドア枠に背を預けていたガレットが、マグカップのコーヒーを一口すすり、呆れたように天井を見上げた。
「お前らなぁ……。ただでさえベル一人で騒がしいってのに、喋りもしねえ基盤をわざわざ拾ってきて自分たちで口喧嘩の種を増やしてどうするんだ。ますます耳が休まる暇がねえな」
「ベルの処理負荷を分散させるための拡張基盤だ。口喧嘩のために拾ってきたわけじゃない。……我慢しろ」
アルドは素っ気なくそう返し、マニュアルに視線を戻した。
『拡張基盤ですか。であれば、なおのこと作業スペースの安全基準を満たす必要がありますね。まずはこの本の山を――』
「黙れ。この本は修復が先だ」
『中枢制御系も同意見です。「本棚の崩落による資料損壊のリスクは看過できない」と申しています』
「さっきから全部お前の意訳だろうが」
『心外ですね。私は誠実な通訳者ですよ、マスター』
ガレットが鼻で笑い、マグカップを持ったまま前方の操縦区画へと歩いた。
分厚い防砂ガラスの向こうには、赤茶けた荒野が広がっている。灰の海の岸辺に停泊した機体は、すでに多脚の駆動を止め、静まり返っていた。
背後からは、アルドとベルの言い合いがまだ聞こえてくる。合成音声が何か皮肉を言い、スパナが作業台に叩きつけられる音がする。
ガレットはコーヒーをもう一口飲み、ガラスの向こうに目を戻した。
荒野の地平線に、日が傾き始めていた。赤い光が、ひび割れた岩盤と錆びた鉄屑の大地を、柔らかく染め上げている。
オールド・ベルの影が、長く長く荒野に伸びていた。
夕闇の迫る静寂の中で、機内に響く騒がしい掛け合いだけが、いつまでも続いていた。
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