第32話 鉛の靄の中に眠る廃墟
灰色の泥飛沫が、分厚いガラス窓を激しく叩きつけた。
鉛のように重く粘り気のある灰の海を、分厚い装甲を継ぎ接ぎした巨大な船が猛スピードで突き進んでいく。本来なら自重で泥に沈み込むはずの船体は、限界突破した魔力炉の規格外の推力によって、強引に泥の抵抗をねじ伏せていた。
機関室からは、断末魔のような蒸気の悲鳴と歯車の軋む音が絶え間なく響き渡る。
『出力120%、魔力炉の燃焼サイクル、完全に安定しています。マスターの組んだ馬鹿げた魔力経路も、私が最適化してやればこの程度の出力は容易いことですね』
スピーカーから響く合成音声は、どこか楽しげに、そして滑らかに暴走を指揮していた。
「おい、このままじゃ船ごとバラバラになるぞ!」
激しく揺れる船内で手すりにしがみつきながら、ガレットが怒鳴る。
「分かってる! ベル、これ以上は外装の継ぎ目が保たない! 出力を落とせ!」
『遠慮はいりませんよマスター。まだまだイケます』
「お前がイケてもこっちが保たねえんだよ!」
アルドはコンソールの前で体勢を崩しながら、緊急用の減圧バルブを掴んで物理的に叩き下ろした。
プシューッ! と甲高い音とともに、魔力炉から白煙が噴き出す。
その瞬間だった。
荒れ狂う泥のうねりの先に、周囲の景色と同化した、分厚い鉛色の靄の壁が突如として迫った。海面から上空までを完全に塗りつぶすように、不自然なほどの厚みを持って滞留している。
回避する間もなく、船体がその靄に突っ込んだ。
視界が完全に奪われる。同時に、喉の奥を焼くような強烈な錆と酸の匂いが、換気口を通じて一気に船内へなだれ込んできた。
そして、数秒後。
靄を突き抜けたアルドたちの頭上に、巨大な影が落ちた。
「……これは……何だ」
ガレットが息を呑み、言葉に詰まったように漏らす。
衝突寸前。アルドが急制動のレバーを引き、船体が泥を巻き上げながら静止する。
うねる灰の海の中で止まった彼らの目の前にそびえ立っていたのは、見上げれば首が痛くなるほど巨大な、鋼鉄の壁だった。
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一つの街と言っても過言ではないほどの、途方もない質量の鉄の塊。
赤黒い錆に覆われた無数の太い配管が、まるで巨人の血管のように外壁を這い回っている。泥の海に深く突き刺さる強固な支柱には、途方もない時間をかけて堆積したヘドロや、どす黒く変色した正体不明の鉱物がびっしりとこびりついていた。
大戦期の栄華をそのまま切り取ったかのような超巨大な洋上プラント。今は完全に沈黙し、死の海にそびえ立つ墓標のように静まり返っている。
アルドは無言で操舵を切り、プラットフォームの下部に大きく開いた、錆びついた連絡ドックへと船をゆっくりと接岸させた。
そこには、かつて大型作業車両がひっきりなしに行き交っていたであろう広大な車両スロープと、巨大な屋内搬入路が、ぽっかりと暗い口を開けて待ち構えている。
ガコン、と重々しい音を立てて船を固定すると、アルドはすぐさまコンソールに繋がっていた太い物理モジュールのケーブルを引き抜いた。そのまま背後の機体――オールド・ベル本体のコンソールパネルへと接続し直す。
短い駆動音が鳴り、折りたたまれていた鋼鉄製の多脚ギアがカシャカシャと展開していく。
「おい、あんな奥までオールド・ベルごと乗り込む気か?」
ガレットが呆れたように首を振り、機体を見上げた。
『こんな薄気味悪い場所に、私だけを置いていくおつもりですか?』
すかさず、ベルの冷ややかな合成音声が響く。
『薄暗いドックで留守番などさせられるくらいなら、退屈しのぎに機内の蒸気バルブを開放して、マスターの貴重な古書をすべて湿気でふやかしますが』
「そんなことしたら、お前も読めなくなるだろうが」
アルドはため息をつき、スパナを腰のベルトに差し込んだ。
「それに、これだけの規模の施設だ。自分の足で歩き回るより、こいつに乗ったまま移動した方が圧倒的に早いし、安全も確保できる」
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ギチ……ズン……。ギチ……ズン……。
オールド・ベルの鋼鉄製の多脚が、広大な屋内搬入路の装甲床を重々しく踏みしめる。
かつては大型の作業車両が何台もすれ違えたであろう幅広のメイン通路は、今は深い闇に沈んでいた。オールド・ベルの機体から伸びたサーチライトの太い光芒が、大戦期から澱み続けていた分厚い埃の層を白く照らし出す。
機内の窓の外を流れていくのは、大戦期から完全に動きを止めたままの、途方もない物量の残骸だった。
天井からはクレーンの巨大なフックが首吊り縄のようにぶら下がり、壁面には無数のパイプラインが内臓のように這い回っている。ところどころ崩落したキャットウォークが、かろうじて一本の太いボルトだけで宙吊りになっていた。
外洋の泥がうねる重い音は、分厚い隔壁に完全に遮られている。代わりに耳を打つのは、オールド・ベルの駆動音と、廃墟特有の鼓膜が痛くなるほどの無音だった。
「……気味が悪いほど静かだな。ネズミ一匹、いや、腐肉喰いの海鳥すら入ってきてねえぞ」
ガレットが窓枠に身を預けながら、低い声でこぼす。その右手は、無意識のうちに腰のホルスターの留め金をもてあそんでいた。
「当然だ。あんな酸と重金属の靄の壁に囲まれてちゃ、普通の生き物は寄り付かない」
アルドはコンソールの計器から目を離さず、短く返した。
サーチライトの光が、通路の先にある巨大な防爆扉を捉える。本来なら侵入者を阻むはずの分厚い鋼鉄の扉は、無残にひしゃげたまま半開きで完全に固着していた。
オールド・ベルの巨体が、ひしゃげた金属と装甲を甲高く擦り合わせながら、慎重にその隙間を通り抜ける。
その先に広がっていたのは、吹き抜けになった巨大な精製区画だった。
見渡す限りの空間に、錆びついた円筒形の巨大なタンクが林立している。床面には泥のように変色した未知の薬品がぶちまけられ、完全に干からびた黒い染みを作っていた。
「おい、アルド。あのタンクを繋いでるパイプの太さ、尋常じゃねえな。何を流してたんだ?」
「水や冷却液じゃない。接合部のシールド規格から見て、高濃度の魔力液を直接循環させていたはずだ。これだけの規模のプラントを動かすとなれば、普通の魔力炉じゃとても足りないからな」
アルドは目を細め、天井高くへ伸びるパイプの群れをねめつけた。
「この施設全体が一つの巨大な魔力炉みたいなものだ。あのタンクの中には、大戦期の純度の高い触媒がまだ残ってるかもしれない」
『マスター、周辺の空間をスキャンしましたが、施設内のハードラインからは微弱な魔力波形すら検知できません』
先ほどの暴走ぶりが嘘のように、ベルが冷徹なシステム音声で分析を落とした。
『防衛機構の反応も、生体反応もゼロ。大気の成分から見ても、長きにわたり誰の手も入っていない完全な死骸ですね』
「いいじゃないか」
アルドは薄暗い精製区画の奥を見据え、口元に不敵な笑みを浮かべた。
「稼働音がしないってことは、面倒なオートマタも防衛機構も完全に機能停止してるってことだ。誰にも荒らされていない、手付かずの宝の山だぞ」
「その宝の山ごと、海の底に沈んでなきゃいいがな」
ガレットが皮肉げに鼻を鳴らす。
アルドは小さくレバーを押し込み、オールド・ベルの歩行速度を少しだけ上げた。
硬質な多脚の駆動音が、底知れぬ廃墟の闇の中へと、少しずつ吸い込まれていった。
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