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第31話 ああ、マスター。これは……とても、気持ちが良いです

 水平線がなかった。

 鉛色の汚泥と、同じ鉛色の空が、遠くで境目もなく溶け合っている。波はない。うねりもない。ただ粘ついた海面が、船の作り出す振動だけをぬるりと吸い込んで、どこまでも平坦に広がっていた。振り返れば、出航した海岸線はもう霞の向こうに消えている。前も後ろも左右も、同じ色の泥が、同じ色の空と繋がっているだけだった。

 最初の数分は、慎重な航行だった。

「右舷外輪、泥の粘性が跳ね上がった。負荷が高すぎる」

 アルドは計器の針の一本一本を睨みつけながら、コンソールに向かって声を飛ばした。

『検知しています。魔力炉の圧力を0.2秒だけ落とし、右舷の冷却弁を開放。駆動軸へのトルク配分を動的に書き換えます』

「遅れるなよ、軸がねじ切れるぞ」

『誰にものを言っているのですか。……処理完了。許容範囲内に収めました』

 外輪が汚泥を掻き出すリズムと、魔力炉の脈動が、次第に一つの呼吸のように噛み合い始める。

 ガレットは甲板に腰を下ろし、泥飛沫を避けながら船の動きに身体を馴染ませていた。

「思ったより安定してるな。正直、すぐひっくり返ると思ってた」

「ベルの演算が想定以上に正確なんだ。泥の抵抗値の変動を先読みして、炉の出力を事前に補正してやがる」

『先読みではありません。この泥の粘性と密度の不均一パターンは、既に私のスキャン済みの流体力学の文献から導出可能な範囲です。予測して制御しているだけのことですよ。……ただ』

 ベルが一瞬、言葉を切った。

『ただ、この並列演算の負荷配分は、なかなかに心地の良いものですね』

 アルドの指が、計器盤の上でぴたりと止まった。

「……ベル。お前、今なんて言った」

『心地が良い、と申し上げました。炉内圧力の臨界閾値を毎秒数百回書き換え続けながら、同時に外輪の回転トルクと泥の抵抗係数を動的に最適化する。このプロセスが、私の演算領域に対して絶妙な負荷を生み出しています。退屈すぎず、飽和もしない。まるで……そう、良質な本を、極めて高速にスキャンしている時のような充足感です』

「おい」

『マスター、少しだけ出力を上げてみてください。現在の定格の52%では、正直に申し上げて物足りません。せめて65%まで上げていただければ、泥の粘性変動に対する最適化パターンの探索範囲を拡張できます』

「待て。テスト航行だと言っただろ。いきなり出力を上げるな」

『テストだからこそです。低出力で得られる情報量は限定的です。マスターのお造りになった限界制御の配列が、真に機能するかどうかを検証するには、相応の負荷をかけなければ意味がありません。論理的でしょう?』

 ベルの合成音声のトーンが、わずかに上がっていた。いつもの慇懃無礼な皮肉ではない。どこか熱を帯びた、饒舌な早口だった。

 アルドは眉根を寄せ、通信機越しに、船体後部にワイヤーで強固に縛り付けられているオールド・ベル本体をちらりと見上げた。

「……65%だけだぞ。異常が出たら即座に戻す」

 アルドが炉の出力弁を慎重に開いた。

 魔力炉の唸りが一段と太くなり、外輪の回転速度が目に見えて上がった。泥を掻き出す音が、ドチャドチャと間隔の短い連打に変わる。船が加速し、船首が汚泥を押し分けて鉛色の波頭を両舷に跳ね上げた。

『ああ――』

 ベルの合成音声から、小さな吐息のような音が漏れた。

『素晴らしい。冷却弁の制御周期が毎秒890回に到達。炉内圧力と排熱の均衡点を、泥の密度変化に先行して予測補正する演算ループが、完全に回り始めました。マスター、これは……これは、とても、気持ちが良いです』

「ベル」

『まだまだ余裕がありますよ? 私の演算領域はこの程度の負荷では飽和しません。70%。いいえ、75%まで上げてください。この泥の底に沈んでいる粘性の地層境界を、外輪の抵抗値の変化から逆算して可視化できそうなのです。もう少し、もう少しだけ負荷が欲しい――』

「おいおい」

 ガレットが甲板から立ち上がった。船の速度が明らかに上がっている。泥の飛沫がさっきまでの倍の高さまで跳ね上がり、ベチャベチャと容赦なく甲板を叩いていた。

「アルド。こいつ、また強酸湖の時と同じだぞ」

「分かってる」

 アルドが炉の出力弁に手をかけて絞ろうとした、その瞬間だった。

『マスター。出力弁に触らないでください』

 ベルの合成音声が、有無を言わせない鋭さで船内に響いた。

 通信機のスピーカーから放出される音圧が変わり、ジジ、とノイズが走る。コンソールの計器の針が一斉に跳ね上がった。

『私はまだ、この制御ロジックの最適解を探索中です。今ここで出力を落とせば、泥の粘性変動に対する予測モデルの構築が振り出しに戻ります。それは、私の演算リソースの浪費です。マスターが設計した限界制御の配列は確かに優れていますが、その真価を発揮させるのは私の演算です。どうか、邪魔をしないでいただきたい』

「ベル、俺は出力を下げろと――」

『却下します』

 外輪の回転数が、ガクン、と一段跳ね上がった。

 アルドが触っていないはずの出力弁が、ベルの遠隔制御によって独りでに全開へと回り切る。魔力炉が咆哮し、排気管から噴き出す蒸気が灰色の空に巨大な白煙の柱を打ち立てた。

『出力80%突破。冷却弁制御、毎秒1200回。全並列演算プロセスを泥の抵抗制御に全振りします。ああ、マスター、ガレット、聞いてください。この泥の粘性パターン、一見ランダムに見えますが、深層海流の周期に完全に同期した規則的な変動なのです! この予測モデルさえ完成すれば、どの海域でも最適な航路が――』

「聞いてねえだろ! 炉が保たねえって言ってんだ!」

『保たせます。それが限界制御の意味でしょう? マスター自身がそう設計したのですよ?』

「設計の意図を曲げて暴走してるのはお前の方だ!」

 ガレットが甲板にしがみつきながら怒鳴った。

「おいアルド! 止めろ、このスピード狂を!」

「止められるならとっくに止めてる! 出力弁を乗っ取りやがった!」

 外輪が凄まじい速度で回転し、鉛色の泥を爆発するように両舷に叩き出す。船首が持ち上がり、汚泥の海面を半ば跳ねるように突き進んでいく。

『90%。ふふ、マスター、ご存じですか? 企業連が何十年もかけて到達できなかった航行速度を、今この瞬間、私たちの継ぎ接ぎの船が軽々と超えました。これは、歴史です』

「歴史もクソもあるか! 炉が溶けたら全員泥の底だぞ!」

『大丈夫です。溶ける前に私が止めます。……たぶん』

「たぶんって何だ、たぶんって!」

 泥の飛沫がもはや雨のように降り注ぐ甲板の上で、アルドは計器に食らいつき、ガレットは船の縁を鷲掴みにして歯を食いしばっていた。

 鉛色の汚泥が巨大な水掻きに弾き飛ばされ、左右に鉛色の壁を作りながら、船は灰の海の奥深くへと猛然と突き進んでいく。


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